和紙がユネスコの無形文化遺産登録に決まった。今回は細川紙と本美濃紙をすでに登録済みの石州半紙に一括登録し、名称を石州半紙から「和紙」となった。「日本の手漉和紙技術」が改めて見直された。喜ばしいことであり伝承されることを願っている。和紙といえば吉川藩の製紙技術のすぐれていたことはよく知られている。
文献によれば天正年間(1573年~1592年)に当時の小瀬村に導入されたという。原料の楮は海風の当たる土地では成育が悪く、やせ地に適する性質から、小瀬川や錦川奥地の山の斜面を利用して作り、谷川の清流を利用して漉いた。小瀬川のそれは質量ともに他の地域より優れていた。なお紙は半紙が主体でいく種類かの高級紙も漉かれた。
岩国藩の奨励で楮の作付面積も伸び、製紙技術も向上し盛況となった。紙販売により財政が良くなり、江戸・京・大阪での支出や幕府に対する土木事業費用もまかなう主要産業となる。1640(寛永17)年、藩は紙専売制度を制定し取引の大阪商人を決定する。大阪に蔵屋敷を設けるほどになった。1720(享保5)年、大阪竹本座で初演された近松門左衛門の「心中天網島」に「岩国の紙の仕切銀にしたれども・・・」として出るほど岩国の紙(半紙)は大阪市場で日本を代表する紙として流通していた。
藩は紙すき人に対しては一定の量を割り当て、それを超えても全部買い上げる。定量に足らない場合は厳罰を課した。一方で、仕入れ銀を前渡ししたり、用具の周旋、楮栽培の助成など生活の保証をした。他領への紙の持ち出しや楮の密売などは禁止、監視所が設けられた。紙すき女の他領転出(嫁入り)も禁止するなど、商品を有利に売るためのいろんな策が設けられた。
こうしてみると、産業育成策としての規制や助成、支援という内容は、藩政のころと今もなんら変わっていない。飛脚とITの時代なのにその差異はない。原則は一つしか無いということか。