日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

心感じる賀状を送ろう

2008年12月20日 | 生活・ニュース
               

今日の中国新聞広場、「12日付け広場欄の『賀状に個性 PCでも』を『うんうん、わかる』と、1人でうなずきながら読んだ。ちょうど前日に、知人と『年賀状は手書きか、パソコンか』という会話をしたばかりだった」という、広島市西区にお住まいの方の投書が掲載されていた。

その投書は「心感じる賀状を送ろう」というタイトルで載っている。文面は続けて、数年前からパソコンの年賀状にしている。画像と画像の組み合わせ、吹き出しの文句の工夫など、完成までの悩みや楽しみが述べられている。受け取った方の喜びの声が嬉しい、とも書かれている。

この投稿を促した12日掲載分の投稿者としては嬉しい反応だ。投稿のきっかけは、PCで年賀状を作成される熱心な講座受講者の姿を知っていたからでした。ブログやメール、電話などでも感想をもらった。今朝も遅くなったがと感想が電話で届いた。

そのなかで「どうしてもちょっと引き気味になっていたパソコン年賀状を、時代の流れを背景に、見事にメジャーに引き上げた」というコメントを頂いたが、いささかくすばゆい感じもした。熱心な受講者がその牽引役であったことをもう1度付け加えます。

年賀状は年に1度の挨拶や近況を知らせたり受け取ったり、先の広島市西区の投稿者は「数秒でも手にとって読んでもらえる賀状を出すよう心掛けたい」と結んでおられる。同感するだけでなく実践をしたい。

(写真:賀状への心構えが書かれた投稿の1部)
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ミニ門松

2008年12月19日 | 生活・ニュース
               

恒例になったミニ門松つくりに参加した。竹細工講師の説明を聞く。聞きながら準備してある孟宗竹のどれを狙うか眺めている。電動工具やノコなど利用します、かいが(怪我)しないようにで笑い。

吟味して大きめの竹の一節を選ぶ。新聞で作った型紙に合わせ中央部分を楕円状に切り抜く。これが難題、慣れた人の知恵をかり切り落とす。半分ほど完成した気分。

小さな青竹3本を角度を合わせ斜めに切る。「節をうまく使って切り落とし、それを束ねると『笑顔』になるように」講師は見本を示される。笑う門には福来る、縁起のいい竹の切口、何とか形になった。

松竹梅に南天や葉牡丹、小さな飾りなどを加えて完成。30個ほどのミニ門松、並べて記念撮影、実に壮観、拍手が起こる。

持ち帰ったそれの孟宗竹を教わった方法で艶出しする。眠っていた竹がその色を取り戻し生き返ったようで、見栄えがよくなった。

錦帯橋周辺のホテルや割烹などには玄関の両側に立派な門松が立てられ師走らしくなった。冬の日ざしを受けたそれを眺めていると穏やかな師走に感じられ、世の不景気は別の世界のように思える。

それでも1年の締めくくり、手作りのミニ門松を玄関におくと大晦日までの用事が一気に思い出され気ぜわしく感じる。玄関の外へ置く大型の門松つくりに誘われている。2、3日すれば出来上がる。初めての体験を楽しみにしている。

(写真:ミニ門松と手作りの来年の干支)
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越冬するイチジク

2008年12月18日 | 生活・ニュース
                

通りがかりの畑の側の小さなイチジクの木、1枚の葉もついていないその木に、幾つか小さなその実がついている。いや生っている。大きいので3センチほど、その半分ほどの大きさもいくつかある。

小春日和に気持ちよく眠っている赤子の頭のようだ。いまごろイチジク、とり残しかとも思ったが生きがいい。イチジクはずいぶん前に店頭から消えている。検索してみた。次のような説明が目に付いた。

「いちじくは秋に熟成する秋果と夏に熟成する夏果があり、年に2回収穫できる果物で、秋果はその年に熟成したもの、夏果は幼果のまま冬を越して翌年夏に熟成したものになるので、秋果のほうが風味がよいといわれており、9月頭からが食べごろになります。」

ということは、この小さなイチジクの実はこれから寒い北風の中で越冬すことになる。土建業者から「あの乳白色の滴は道路のアスファルトをダメにする」と教えられたことがる。小さなイチジクの実は何か不思議な力を備えていることになる。

イチジクは、漢字では「無花果」と書く。花が咲かない果樹ということだ。実際は果実の内側で無数の小さな花が人知れず咲いているという。また、一日一個熟すから、または果実がなってから一ヶ月で熟すから、「一熟」と名がついたともいわれ、わかりやすい。

夏にもう一度その道を通ることがあったら越冬したイチジクの話を聞いてみよう。

(写真:厳しい冬の洗礼を待っているイチジク)
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丑と牛

2008年12月17日 | 陶芸
               


陶芸教室の今年最後の作品は来年の干支の「丑」。干支で2番目。丑は「草木も眠る丑三つ時」という、今の午前1時から3時の間の時刻をさす時にも使われる。

作る途中では耳の無い象に見えたり河馬になったり、熊にも似ていたりと姿の七変化を楽しむ。と言いながら技の無さを寂しがりながら。角と耳をつけたところでようやく丑に似た。

素焼きした丑に釉薬と絵の具を使って模様を書き込む。優しい目に仕上げようとそれなりに集中した。そんな難産だった丑が出来上がった。離れてみれば丑に見える。色見本を見ながらした色付けもまずまずだ。

「変」な年もあと2週間。100年に1度という不況の中での師走、戸惑われ困られている方の様子が連日大きなニュースになっている。「変」だからと言って済まされることではない。

「牛に経文」はいくら説き聞かせても何の効果もな例えをいう。進みの遅い例えを「牛の歩み」という。世論を牛の経文とせず、牛の歩みでもいいからスピード感ある対応を願いたい。初めて作った丑を見ながら来る年のことを思う。

(写真:角があるから何とか丑といえる)
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パソコン交流会

2008年12月15日 | パソコン講座
               

社会福祉法人ビタ・フェリーチェの主催で、「パソコン交流会 年賀状を作ろう」という講座が岩国YMCA国際医療福祉専門学校のパソコン教室で開かれた。

これは障がいをお持ちの方と健常者がパソコンを通じて交流するという内容で、2回目の開催になる。この交流会の講師として所属するパソコンの会が前回に続いて参加した。

今回は「年の瀬も近いということで年賀状を作成してみよう」という主催者の呼びかけに満席の応募者が集われた。手話や要約筆記のボランティアの方も加わり年賀状作りはスタート。

子どもさんからお年寄りよりの方まで、講師の説明に合わせ思い思いの図柄や文面をしたためる。図柄の選択やその配置など、何度か繰り返しながらイメージした年賀状2種類を完成させる。

主催者の準備された年賀はがきに印刷、画面が形ちになると2回目の嬉しそうな顔に笑みが浮ぶ。そんな顔を見ると手伝えてよかった、交流会に参加してよかったと嬉しさをもらっことに感謝する。

健常者主体の社会環境の中で、社会的弱者になりかねない人たちを支援される努力に感謝しながら、障がいをお持ちの皆さんの真摯な挑戦への姿勢を教えられ、襟を正す、その言葉を思い出した。

「作品は後に一般からの投票による人気投票を実施します」、チラシにこう書かれている。頑張った皆さんの感想をいつか聞きたい。

(写真:交流会受付横の案内)
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詰め放題

2008年12月14日 | 生活・ニュース
               

新聞の折込広告を見るといかにして買物に来ていただくか、デパートにスーパー、小売店まであの手この手の策をつくす。今は歳暮と忘年会のお誘い。マンションに車、紳士服に電化製品とジャンルを問わず競いあう。

あるスーパー。人参、ジャガイモ、里芋、ピーマン、ふりかけ、いりこ、他にも商品があったかもしれないが「1袋100円での詰め放題」、どのコーナーも台を囲んだ顔は真剣。

ひと口チョコレートのそれに初めて手を出し、その戦果を親戚の子らに出したら「オォー」と歓声を上げて喜んでくれたことを思い出し歳を顧みることなく2回目の挑戦をする。

「前回より袋が小さくなってますね」、詰め込む手を休めることなく隣の人が話しかける。気付いてはいたが「そうですか」と、こちらも手を休めずに返事。

黙々と詰め込む。1個掴んでは隙間へ押し込む。隣の人が2袋目を詰め始めた。なんと詰める前にポリ袋を全方向へ引き伸ばしている。それも真剣に。そうか、小さな袋の容積をいくらかでも拡げる、なるほどと感心。

あまりあさましい姿を見せたくない、見られたくないと思いながら手を出したが、結構面白い。そのうち詰め込む工夫をし楽しんでいる自分に気付き気持ちの中で苦笑する。が続ける。

もういいでしょうと詰めかたをやめる。終わって気付いたが2重の人垣になっていた。楽しみながら安く買う人が多い、そう思いながら袋を両手に挟むようにして台を離れ後ろの人に代わった。

どの詰め放題の台も盛況だった。

(写真:小さな袋に思いきり詰められたひと口チョコ、開放されホットしている)
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親鸞 その1

2008年12月13日 | 生活・ニュース
               

「あんたんとこはなに新聞かね」「長いこと中国」「親鸞読みよるかね」「ありゃ面白い」「1回分がちぃーと短いのう」、これは先日、報恩講に参拝され方の本堂での会話。

会話の中の「親鸞」は今年の9月から中国新聞に、「作 五木寛之、画 山口 晃」で始まった連載小説のことだと言うことが分かる。私も毎日楽しみに読み、その後切り抜いている。

童のときから始まった物語は100回を迎えた。時の関白、藤原忠通の子息である慈円阿闍梨に「9歳にしては機根を感ずる。ただ者ではあるまい」と言わしめた忠範(親鸞の幼名)はそのまま世話になっている叔父の家から仏門の道へ入っていく。2人の弟を残して。

いま物語は、世間の人が熱病のように教えをこう法然房。「市井の民がなぜ法然房の話を聞き、なぜ彼が人々の心を掴むことが出来るのか」あの慈円様の命により忠範あらため範宴は、比叡山を降り大和への歩を踏み出した。

切り抜いた親鸞を96回までを製本した。大きさを整え、糸で綴り、自作の表紙をつけると1刷の本が完成した。世界で1冊、我ながらいいと納得する1冊。通して読み返せる。97回からお山(比叡山)を降りた範宴の物語になる。物語の感想はまたどこかに載せたい。

(写真:世に1刷の「親鸞」物語)

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賀状に個性 PCでも

2008年12月12日 | エッセイサロン
                

今年も残り少なく、何かと気ぜわしい時季になった。この時季になると、どんな賀状にするか思案されている方も多いだろ。

 毛筆や版画など長年続けてきた思いをこめた作り方もあるが、最近はパソコンで作った賀状も多い。そこには「手作りの温かさがない」と言われるが、本当にそうだろうか。

 パソコン教室へ来られる皆さんは、既存のソフトから1歩踏み出し、「自分流の賀状」を作りたいと挑戦される。作り方は違っても「賀状への熱い思い入れ」に変わりはない。

 家族や孫、旅行の写真を載せて近況をしらせたいー。若い人から80歳を超える方まで、同じ思いでマウスを動かす。そのうち一人一人の個性が画面に表れる。周りの人も含めて喜びの声がわく。添え書きする空白に、どんな言葉が忍ばされるのか、と思いながら小さな修正を手伝う。

 不況のうちに迎えた師走。パソコンで初めて作る1枚の賀状に、新しい年への思いを託す。受け取られた方はきっと驚きながらも喜ばれる、そう信じながら次の講座の準備を始める。受講者からの賀状が届くことも少し期待しながら。

2008年12月12日 中国新聞「広場」掲載

(写真:出番を待っている年賀はがき)

 
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わがまま

2008年12月10日 | 生活・ニュース
               

渋滞で繰り返し信号待ちをしているとき車の前方に見える鉄塔に煙突、電柱に電線、街灯などは活動している町の姿をそこに感じる。立体的に張られた電線を撮っておこうとシャッターを押した。いつも感じる電線が邪魔という思いが無かった。

いい風景に出会って写真を撮るとき電柱と電線、街灯や道路標識、駐車している車に大きな看板等など、みんな必要なことは分かっているが「無ければいいのに」と思うことがよくある。

自分なりにいい構図と思いながらシャッターを押す。現像したら電線で画面が真っ二つ、など素人ならではのがっかりすることは度々あった。今はデジカメ、その場で撮ったままを液晶画面で確認できる。気に入らなければ簡単に消去し無駄がない。

電柱を無くし電線は地下の埋設管に移した道がある。初めて通ったときに違和感を感じたが「空がよく見える」、笑われそうな幼い感じを持ったことを記憶している。

この空間に見えている構築物が無ければ視界がどんなに拡がるだろう、などと思ううちに長い信号待ちから開放された。

あるときは立体的に張られた電線を面白い、あるときは邪魔と思う我がままな思いを知られないように電線の下をくぐり抜ける。

(写真:いろいろな構築物が取り巻く交叉点)
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霧の中

2008年12月09日 | 自然 季節
               

一晩続いた雨は夜明け前から弱い雨に変わった。冬の雨だけどここ数日に比べれば温かい。このような日和にはよく霧が発生する。住まいの近くでは錦帯橋の屏風になる城山にたちこめる霧は絵になる。

霧は「地表付近の大気に浮遊する煙のような微細な水滴の集まり。気象用語では視程が1km以下のときをいう。本質的には雲と同じで、違いは下底が地表に達していること」と解説してある。

霧について怖い経験がある。遠出した帰り、遅い時間に長い坂道上り終え下り差しかかったときライトに照らさた真白な何かなが目に入った。視界はゼロに近い。ブレーキを踏み、それが霧と気付くのにひと呼吸かかった。長い下り坂、感を頼りに走ったことがある。雲海の中を走った、家の灯りが見えたときそう思った。

霧は動く。山全体を包む、城を霞ませる、山の中腹を舞いながら流れるなどひと時も動きを止めない。遠くからの眺めは単調そうに見るが少し近寄るとどうしてどうして、音は聞こえないが争いがあるよかのように活動している。


霧を眺めるのはいいが巻き込まれると怖い。方角が見当もつかなくなる。霞ヶ関や永田町にかかっている霧は早く晴らさねばならない。自然の霧は急に襲って視界を奪うが晴れるのも早いと言う。世論という風が荒れないうちに自浄作用を働かせて欲しい。

(写真:今朝の岩国城と霧の様子)
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