HKT48のシングル『意志』のカップリング曲にこの曲名を見つけた時、ぜひとも聴かねばと思った。この曲名は、言わずと知れた名曲『大人列車』の続編であることを明示している。
『ポニーテールとシュシュ』の続編が『Everyday、カチューシャ』で、更にその続編が『ギンガムチェック』だとか、勝手に想像して楽しめるケースはよくあるが、作り手自身が続編だと明示しているケースはそれほど多くない。松田聖子には『思い出の渚のバルコニー』『続・赤いスイートピー』という楽曲がある。さだまさしには『もうひとつの雨やどり』『関白失脚』という曲がある。そういう曲を楽しめるのは、長くファンを続けている者の特権だろう。他の歌手にもあるかもしれない。
HKT48の『大人列車』は『Green Flash』のカップリング曲だから、4年ほど前の曲だ。この間、人気曲としてコンサートなどでも頻繁に歌われて来た。その続編なのだから否が応でも期待は高まる。今回、この2曲を連続してリピート再生するという聴き方で堪能した。
『大人列車』の方から振り返ってみたい。
列車で旅立つ彼女の見送りに、「僕」はほんの僅か間に合わなかった。気持ちを告げることも、ましてや引き留めることなどできるはずもなく、ただ列車の後姿を見送り絶望を味わっていた。「大人列車 僕はまた乗れぬまま」の「また」に注目したい。今回に限らず、大事な場面で一歩踏み出せないのは「僕」の習性となっている。何かを決断して踏み出せばもう少年ではいられない。無意識のうちに「僕」はそれを避け、往生際悪くモラトリアムに安住していたのだ。
スピード感あふれる曲調と、胸を締め付けられるようなメロディーが相まって、誰にでも思い当たることがあるような青春のじたばたを歌った名曲だった。
『大人列車はどこを走っているのか?』は、その後日談だ。
彼女を見送れなかったこと、気持ちを告げられなかったこと、引き留められなかったことを彼は未だに後悔している。その後彼女とは音信不通のようだ。一人悶々と悩んでいる。
「あの日出ていった列車はどこを走る?」と問いかけているが、もちろんそれは比喩だ。彼女はとっくに目的地に到着し、新しい生活を始めている。「大人」として彼女自身の人生を歩んでいるはずだ。
「僕」の方はと言えば、未だに「大人列車」に乗ることができていない。
「君は僕を覚えているか?」という問いかけが痛々しい。とっくに忘れられていることを自分でも分かっているのだ。
曲調は『大人列車』よりはスピード感がなく、陰りを帯びていて、苦い味わいだ。これはこれで心に響く。
踏切の遮断機の効果音が入っているが、電車でイヤフォンで聴いていると現実の音なのかと一瞬錯覚し、この楽曲のリアリティーを一層高めている。
『大人列車はどこを走っているのか?』の「僕」は何歳なのだろうかと考えた。
『大人列車』が18歳だったと仮定すれば、その数年後と考えるのが自然だ。22、23歳か。
しかし私はもっと年長だと思う。35歳とか40歳でもおかしくない。
男はいつまでも若い日の恋を忘れないものだ。新しい恋をしても、結婚しても、それとは別な引き出しにしまいこんでいるのだ。「僕」は悔いが残る別れをいつまでも引き摺り、時々は思い出しては甘美な感傷に浸っているのだ。
2曲で同じ言葉を使っている点に着目した。
「若さ」は、『大人列車』では「若さとは不器用でやり残すもの」、『大人列車はどこを走っているのか?』では「僕も若くて受け止めることができなかったよ」。
「青春」は、『大人列車』では「もどかしいだけの青春」、『大人列車はどこを走っているのか?』では「青春とは何もできず持て余す果てしない線路と時刻表だ」。
この2曲の間には、現在進行形と過去完了形くらいの違いがある。この間に20年くらいの歳月が横たわっていてもおかしくないと思うのだ。
『ポニーテールとシュシュ』の続編が『Everyday、カチューシャ』で、更にその続編が『ギンガムチェック』だとか、勝手に想像して楽しめるケースはよくあるが、作り手自身が続編だと明示しているケースはそれほど多くない。松田聖子には『思い出の渚のバルコニー』『続・赤いスイートピー』という楽曲がある。さだまさしには『もうひとつの雨やどり』『関白失脚』という曲がある。そういう曲を楽しめるのは、長くファンを続けている者の特権だろう。他の歌手にもあるかもしれない。
HKT48の『大人列車』は『Green Flash』のカップリング曲だから、4年ほど前の曲だ。この間、人気曲としてコンサートなどでも頻繁に歌われて来た。その続編なのだから否が応でも期待は高まる。今回、この2曲を連続してリピート再生するという聴き方で堪能した。
『大人列車』の方から振り返ってみたい。
列車で旅立つ彼女の見送りに、「僕」はほんの僅か間に合わなかった。気持ちを告げることも、ましてや引き留めることなどできるはずもなく、ただ列車の後姿を見送り絶望を味わっていた。「大人列車 僕はまた乗れぬまま」の「また」に注目したい。今回に限らず、大事な場面で一歩踏み出せないのは「僕」の習性となっている。何かを決断して踏み出せばもう少年ではいられない。無意識のうちに「僕」はそれを避け、往生際悪くモラトリアムに安住していたのだ。
スピード感あふれる曲調と、胸を締め付けられるようなメロディーが相まって、誰にでも思い当たることがあるような青春のじたばたを歌った名曲だった。
『大人列車はどこを走っているのか?』は、その後日談だ。
彼女を見送れなかったこと、気持ちを告げられなかったこと、引き留められなかったことを彼は未だに後悔している。その後彼女とは音信不通のようだ。一人悶々と悩んでいる。
「あの日出ていった列車はどこを走る?」と問いかけているが、もちろんそれは比喩だ。彼女はとっくに目的地に到着し、新しい生活を始めている。「大人」として彼女自身の人生を歩んでいるはずだ。
「僕」の方はと言えば、未だに「大人列車」に乗ることができていない。
「君は僕を覚えているか?」という問いかけが痛々しい。とっくに忘れられていることを自分でも分かっているのだ。
曲調は『大人列車』よりはスピード感がなく、陰りを帯びていて、苦い味わいだ。これはこれで心に響く。
踏切の遮断機の効果音が入っているが、電車でイヤフォンで聴いていると現実の音なのかと一瞬錯覚し、この楽曲のリアリティーを一層高めている。
『大人列車はどこを走っているのか?』の「僕」は何歳なのだろうかと考えた。
『大人列車』が18歳だったと仮定すれば、その数年後と考えるのが自然だ。22、23歳か。
しかし私はもっと年長だと思う。35歳とか40歳でもおかしくない。
男はいつまでも若い日の恋を忘れないものだ。新しい恋をしても、結婚しても、それとは別な引き出しにしまいこんでいるのだ。「僕」は悔いが残る別れをいつまでも引き摺り、時々は思い出しては甘美な感傷に浸っているのだ。
2曲で同じ言葉を使っている点に着目した。
「若さ」は、『大人列車』では「若さとは不器用でやり残すもの」、『大人列車はどこを走っているのか?』では「僕も若くて受け止めることができなかったよ」。
「青春」は、『大人列車』では「もどかしいだけの青春」、『大人列車はどこを走っているのか?』では「青春とは何もできず持て余す果てしない線路と時刻表だ」。
この2曲の間には、現在進行形と過去完了形くらいの違いがある。この間に20年くらいの歳月が横たわっていてもおかしくないと思うのだ。