AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

勝手に緊急投稿。20周年記念シングルは『微笑がえし』スタイルに。(ときめき研究家)

2025-02-23 17:28:07 | ときめき研究家
AKB48は今年の12月に創設20周年を迎える。既に様々な記念行事やイベントが企画されているだろうが、私は勝手に「20周年記念シングル」の歌詞を考えたので投稿したい。
そのコンセプトは『微笑がえし』スタイルだ。キャンディーズの解散前ラストシングル『微笑がえし』は阿木燿子作詞で、キャンディーズのそれまでのシングル曲のタイトルを巧みに織り込んだ歌詞になっている。もちろん1曲の楽曲として優れた作品でありつつ、ファンにとっては嬉しい趣向が込められていたのだった。それ以降、私の知る限りでも同様のコンセプトで作られた楽曲がいくつかある。
・松田聖子『20th Party』(SEIKO作詞)は、デビュー20周年シングルで、シングル曲、アルバム曲のタイトルを多数織り込んでいる。
・松本伊代『オールウエイズ・ラブ・ユー』(松本伊代作詞)は、デビュー30周年記念アルバム収録曲で、シングル曲のタイトルやフレーズを多数織り込んでいる。
・菊池桃子『青春ラブレター』(鈴木おさむ作詞)は、デビュー30周年記念アルバム収録曲で、シングル曲数曲のタイトルやフレーズを織り込んでいる。
・中山忍『恋はお伽話じゃない』(森雪之丞作詞)は、ファーストアルバム収録曲で、それまでのシングル曲3曲のタイトルを全て織り込んでいる。
中山忍を除けば、解散とか周年といった節目に当たって、過去を振り返りつつ、ファンへの感謝のメッセージを込めたような歌詞になっている。AKB48の20周年にもそういう楽曲がほしいなという単純な思いで、勝手に自分で作詞してみた。
作曲ができる読者には、曲を付けて歌ってもらえたりすれば望外の幸せです。



君のことが今でも好きだから  作詞:ときめき研究家

あの頃僕はSeventeen 教室で君のポニーテールに見とれてた
君は真面目で前しか向かないから 心のプラカード見せられなかった
制服が邪魔したわけじゃない 恋のBeginnerだっただけ
夢では毎日LOVE TRIP ヘビーローテーションだったのに
だけど君は突然転校した 紙飛行機が飛んで行くように
好きと言えば良かったかな 言い訳にもならないね
君のことが今でも好きなんだ 離れていても変わらないけど
失恋ありがとう 桜の花びらのように散ってしまった

ゼミの初日の顔合わせで 偶然君に再会したんだ
奇跡のようなサプライズだけど 君は1年先輩で上から目線
今はカチューシャ付けてるんだね ずっと会いたかったんだ 
今度こそチャンスの順番だ 大声でちゃんと伝えたい
UZAいと言われても構わない 元カレがいたって構わない
二人で海に行きたいよ ギンガムチェックの水着が似合いそう
君のことが今でも好きだから 今でも本当に好きだから
一緒に夕陽を見てみたい Green Flashも見られるかな

思い出に浸っているんじゃない 
今の君にもう一度恋をした

君のことが今でも好きだから 今でも本当に好きだから
君はどう思っているのかな クッキーを割って占いたい
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教科書に載せたいアイドル史の300曲 目次とアイドルの定義(ときめき研究家)

2025-02-15 21:56:42 | ときめき研究家
『教科書に載せたいアイドル史の300曲』を4回に亘って掲載したので、目次を作成しました。

『教科書に載せたいアイドル史の300曲』その1(70年代)
『教科書に載せたいアイドル史の300曲』その2(80年~82年)
『教科書に載せたいアイドル史の300曲』その3(83年~87年)
『教科書に載せたいアイドル史の300曲』その4(88年~2025年)

参考文献
・『歌謡曲名曲名盤ガイド1970s』(Hotwax)
・『歌謡曲名曲名盤ガイド1980s』(Hotwax)
・『アイドル楽曲ディスクガイド』(ピロスエ編)
・その他、LP・CDの歌詞カード、各アイドルのホームページ等

この『教科書に載せたいアイドルポップの300曲』を選曲するに当たり、有識者である数名の友人にも意見を求めたところ、まず「アイドル」の定義をする必要があると助言されました。
全く妥当な意見だと思います。痛いところを指摘されたと感じました。どこまでがアイドルに含まれるのか範囲を明確にしないと、選曲も何もあったものじゃないでしょう。実際、この人はアイドルなのか否か、迷うような存在は多数います。
小柳ルミ子は入れたが、山本リンダや安西マリアは入れないのか?
薬師丸ひろ子は入れたが、吉永小百合は入れないのか?
森高千里は入れたが、ZARDや岡本真夜やプリンセスプリンセスは入れないのか?
SPEEDやZONEは入れたが、安室奈美恵や浜崎あゆみやKiroroは入れないのか?
長年アイドルを鑑賞、研究して来たのに、その「アイドル」とは何か、明確な定義は未だできていません。その自覚はあります。その時々、曖昧な判断基準で線を引いて来ました。しかし、実はそれは非常に難しいことなのです。幾度も試みて、正解にはたどり着いていません。
でもいい機会なので、改めて、果敢に「定義問題」にチャレンジしてみようと思います。

【案1】
「アイドルとは聴き手にときめきを与える存在」
これが私個人にとって一番しっくり来て、簡潔な定義です。「聴き手」としているので歌手が前提となり、「ときめき」がキーワードとなって、主に若い女性歌手が該当し、オペラ歌手や演歌歌手等は含まないことも示しています。
この定義の難点は、あまりに主観的なことです。「聴き手」を「私」に置き換えれば、つまりは私がときめいたらアイドルなのだと言っています。「朕が国家なり」「俺がルールだ」と同じです。自分の趣味なのだから本来これでいいのです。でも、それを他人と共有しようと思ったら、もう少し詳しい言語化が必要になってきます。

【案2】
「アイドルとは年に数枚のシングルレコードを発売し、テレビの歌番組等での歌唱パフォーマンスを活動の根幹とした、主に10代から20代前半の女性歌手またはグループ。1970年代から1980年代が全盛期だった。」
極めて外形的な定義です。当時のアイドル歌手の活動内容を示すことで、バンドやグラビアアイドルなどを除外しています。もちろん現在のグループアイドル、地方アイドル等も「アイドル」という呼称ではありますが、テレビやレコードで「楽曲を鑑賞」する対象であった当時のアイドルとは大きく変質している気がします。ライブやイベントやSNSで本人たちを応援することが主体の「推し活」の対象なのではないでしょうか。

【案3】
「アイドルとは歌手ではあるが歌唱技術への依存度は低く、容姿、衣装、振付、動作、日頃の言動も含め『全身全霊』で『青春のときめき』を表現する者」
「歌手」と「アイドル歌手」の違いから定義してみました。一般的に「アイドルは歌が下手」と揶揄されることを逆手に取って、歌の巧拙は一要素に過ぎない総合的な表現者であるという主張も盛り込んでいます。
この「歌手」と「アイドル歌手」の関係は「本」と「絵本」の関係に例えられると思います。
文章だけの「本」ではなく、文章と絵が一体となっている創作物が「絵本」です。文章と絵のどちらが主でどちらが従ということはありません。挿絵の多い「本」などはボーダー上にあるでしょう。絵本が子供向けと思われているのは、アイドルが若者向けと思われているのに近いです。しかし、大人が見ても楽しい絵本が沢山あるように、大人の鑑賞に堪えうるアイドルも多数います。

いろいろ試みましたが、この「定義」を考え続けることが1つの研究テーマでもあり、私のライフワークとも言えるでしょう。そこで、今回は暫定的に、この「300曲」選定の分母としての定義を下記の通り定めました。
【この「300曲」選定の分母としての定義】
「アイドル」の定義は、「青春のときめき」を主要なテーマとする歌謡曲を定期的にリリースし、地上波テレビの歌番組で歌唱技術のみに依存せず全身全霊でのパフォーマンスを披露した主に10代~20代前半の女性歌手とする。
※「ときめき」は聴き手の主観ではなく、歌のテーマのキーワードとして盛り込んだ。客観要素も入れることで、テレビ歌番組に出ない(出られない)バンド、地下アイドル等は除外。年齢要素は抑えとして入れるが、結婚後の松田聖子など例外もある。
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教科書に載せたいアイドル史の300曲④(88年~2025年「アイドルを探せ」)

2025-02-15 16:13:17 | ときめき研究家
おニャン子解散後にデビューしたアイドルは、めっきり小粒になる。
88年デビューでは、藤谷美紀(1988デビュー)は切ない『転校生』(1988)、坂上香織(1988デビュー)はセンチメンタルな『レースのカーディガン』(1988)、西田ひかる(1988デビュー)は元気な『Nice Catch』(1988)、中山忍(1988デビュー)は囁くような『小さな決心』(1988)、吉田真理子(1988デビュー)は聖らかな『とまどい』(1988)、麻田華子(1988デビュー)は十代前半らしいストレートな『Doubt!』(1988)、姫乃樹リカ(1988デビュー)は澄み切った声で『硝子のキッス』(1988)、北岡夢子(1988デビュー)も切り裂くような声で『告白』(1988)、本田理沙(1988デビュー)は下世話な『Lesson2』(1988)などで活躍したが、大きなヒットには至らなかった。
89年デビューでも、田村英里子(1989デビュー)は王道の『ロコモーション・ドリーム』(1989)、田山真美子(1989デビュー)は爽やかな『青春のEVERGREEN』(1989)、河田純子(1989デビュー)は刹那的な『輝きの描写』(1989)、CoCo(1989デビュー)はキャピキャピした『はんぶん不思議』(1989)が印象に残った。
WINK(1988デビュー)が、無機質な振り付けの『愛を止めないで』(1988)でブレイク、『涙を見せないで』(1989)もヒット、そして『淋しい熱帯魚』(1989)で89年度レコード対象を受賞したのが、アイドル全盛期である80年代への挽歌となった。
その後、長いアイドル氷河期が続くこととなる。

90年代で正統派のソロアイドルとして認知されたのは、高橋由美子(1990デビュー)『step by step』(1990)、早坂芳恵(1990デビュー)『絶対part2』(1990)、宍戸留美(1991デビュー)『コズミックランデブー』(1991)、酒井美紀(1993デビュー)『永遠に好きと言えない』(1993)など少数である。
一方で、グラビアアイドル、CMアイドル、アイドル女子アナなど、歌を歌わないアイドルが広く活躍するようになった。しかし音楽史としてのアイドル史では、歌を歌うアイドルしか扱わない。
歌手が本業で、3ヶ月に1枚のペースで新曲を発表するような、古典的アイドルは見当たらなくなった。しかし、魅力的なアイドルは、いろいろな所から現れた。現代音楽のバルトークやシェーンベルクやサティのように。
従来いわゆる「ミュージシャン」はアイドルと一線を画していたが、森高千里(1987デビュー)は自らのアイドル性を自覚し肯定的に捉えていたと考える。南沙織をカバーして『17才』(1989)を歌ったのがターニングポイントだ。その後は90年代を通じて、中学生の作文のように素朴で力強い自作歌詞を、硬質な声でクールに歌い、アイドル的な共感を得た。女友達と沖縄旅行に行く歌『私の夏』(1993)や、成就しなかった恋をしみじみ歌う『渡良瀬橋』(1993)など名曲が多いが、『私がオバさんになっても』(1992)が彼女の世界観を最もよく示している。
SPEED(1996デビュー)もミュージシャンとして扱われているが、浜崎あゆみや安室奈美恵とは異なるアイドル性を持っていた。『ホワイトラブ』(1997)のハイトーンが印象的。4人組少女バンドZONE(1999デビュー)の『secret base~君がくれたもの』(2001)もアイドルポップの範疇に入るだろう。
1990年頃から、女優で歌にも積極的に取り組む者が多数現れ、専業歌手を凌駕した。小川範子(1987デビュー)の『涙をたばねて』(1987)はパンチの効いた歌唱。後藤久美子(1987デビュー)の『Teardrops』(1987)、石田ひかり(1987デビュー)の『エメラルドの砂』(1987)、和久井映見(1990デビュー)の『My lonely goodbye club』(1990)、観月ありさ(1991デビュー)の『伝説の少女』(1991)、松たか子(1997デビュー)の『明日、春が来たら』(1997)、深田恭子(1999デビュー)の『最後の果実』(1999)はそれぞれ個性的な作品と歌唱だった。
なかでもインパクトが大きかったのは、宮沢りえ(1989デビュー)と広末涼子(1997デビュー)だ。宮沢は全盛期にヘアヌード写真集を出して驚かせ、歌手デビューは当時全盛だった小室哲哉作品の『ドリームラッシュ』(1989)で、同時代の少女たちへのメッセージソングを歌った。広末の『MajiにKoiする5秒前』(1997)は、清純かつキュートで洗練されていて完璧な作品だ。多くのアイドルに曲を提供してきた竹内まりやの集大成的名曲。

一方で、専業アイドル歌手は、1990年頃から大人数グループのライブ活動が見られるようになり、それを熱心なファンが支えていた。そんな中で、モーニング娘。(1997デビュー)はつんく♂がプロデュースした大人数アイドルグループで、大きなブームを起こした。『LOVEマシーン』(1999)は、大ヒットして日本を元気にした歌。ノリが良く言葉遊びのような歌詞は『恋のダンスサイト』(2000)、『ハッピーサマーウエディング』(2000)にも引き継がれた。『ハッピーサマーウエディング』と『瀬戸の花嫁』は同じウエディングソングでも隔世の感がある。『ザ☆ピース』(2001)ではささやかな日常と選挙と平和を同列に明るく歌った。
モーニング娘。は、ハロープロジェクトという広がりに発展し、現在も様々なユニットやソロ歌手を展開している。その中でも、松浦亜弥(2001デビュー)の『桃色片思い』(2002)や『Yeah! めっちゃホリデー』(2002)は、アイドル歌手として完璧なパフォーマンスだった。彼女以外にソロでは藤本美貴の『ロマンティック浮かれモード』(2002)が王道のアイドルポップ、ユニットではBuono!(2007デビュー)の『初恋サイダー』(2012)がロック色の強い代表曲だ。

ハロプロの活躍こそあったが、21世紀、アイドルはコアなファンが楽しむ特殊な趣味になりつつあった。
Perfume(2005メジャーデビュー)は突然変異のアイドルと言える。『ポリリズム』(2007)は、電気的に変換した音声で無機質な曲を歌った。
秋元康が、おニャン子クラブから20年の時を経てプロデュースしたAKB48(2006デビュー)は、秋葉原で公演を開始してほどなく『会いたかった』(2006)で人気に着火、その後国民の誰もが知るアイドルグループになった。カラオケで多くの人が歌った『ヘビーローテーション』(2010)、流行語にもなった『フライングゲット』(2011)、一般人の動画投稿がブームになった『恋するフォーチュンクッキー』(2013)、朝ドラ主題歌『365日の紙飛行機』(2015)など、ファン以外の一般人にも認知されるヒット曲が生まれた。一方で、握手券や投票権を目当てにCDの大量購入を誘うAKB商法や、メンバーを過酷な競争に駆り立て、恋愛を禁止するグループ運営には賛否両論があった。
ももいろクローバーZ(2009デビュー)も多くのファン(もものふと称した)がいて、AKB48と人気を二分した。『いくぜっ!怪盗少女』(2010)などのヒット曲がある。
AKB48の公式ライバルとして結成された乃木坂46(2012デビュー)は、AKB48と入れ替わるようにグループアイドルの頂点を極めた。初期の名曲で地下鉄乃木坂駅の発車メロディーにもなっている『君の名は希望』(2013)、特撮ヒーローの主題歌のような中毒性がある『インフルエンサー』(2017)などのヒット曲がある。その姉妹グループ欅坂46(のちに櫻坂46)(2016デビュー)も、現代のプロテストソングと言える『不協和音』(2017)などで存在感を示している。
その他にも多数のグループアイドルが生まれ、活動しているが、ファン以外にも認知されるヒット曲は生まれにくい環境にある。ライブやイベントで彼女たち本人を応援する「推し活」は盛んだが、過当競争状態で限りあるファンを奪い合っている。また、ソロでのアイドル歌手活動は一層困難だろう。アイドルポップという音楽ジャンルが持続可能なのか否か、今、その分岐点にある。
2010年前後のアイドルシーンと、1980年代アイドルシーンを背景にした朝ドラ「あまちゃん」の挿入歌『潮騒のメモリー』(2013)を300曲目として挙げたい。劇中で、小泉今日子、薬師丸ひろ子のソロ歌唱が披露されたが、それぞれの持ち味を発揮したパフォーマンスだった。また、能年玲奈と橋本愛のデュエットも現役アイドルっぽいパフォーマンスだった。優れた楽曲はアイドルの魅力を引き出すし、時にカバーされて蘇る。そういうアイドルポップの魅力を具現化した楽曲だったと言える。(了)
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教科書に載せたいアイドル史の300曲③(83年~87年「アイドルがいっぱい」)

2025-02-11 16:37:33 | ときめき研究家
83年から87年頃まで、既出のアイドルに加え新たなアイドルも多数現れて活躍し、アイドルポップの全盛期を迎えた。

「花の82年組」が続々とブレイクする中、83年デビューのアイドルは不遇だった。後に自分たちを「不作」と自虐した松本明子(1983デビュー)はそのリーダー格で『♂♀KISS』(1983)はファンキーなデビュー曲。横浜銀蠅の妹分として売り出した岩井小百合(1983デビュー)の『ドリーム・ドリーム・ドリーム』(1983)は、スピード感いっぱい。伊藤麻衣子(1983デビュー)の『微熱かナ』(1983)は脆い感傷を巧みに歌った。森尾由美(1983デビュー)の『お・ね・が・い』(1983)は、可愛らしさを最大限に引き出した名曲。高橋美枝(1983デビュー)の『ひとりぼっちは嫌い』(1983)は『木綿のハカチーフ』に匹敵するような松本隆の力作。ボーイッシュな大沢逸美(1983デビュー)の『ジェームスディーンみたいな女の子』(1983)、金属的なハイトーンの桑田靖子(1983デビュー)の『脱プラトニック』(1983)はいずれも個性的なデビュー曲。ほんわかした徳丸純子(1983デビュー)『PICA PICA』(1983)、吹田明日香(1983デビュー)『2人はMagic』(1984)のチャーミングさも忘れられない。河上幸恵(1983デビュー)は地味だが美しいメロディーの『ブルーエトランゼ』(1983)でデビューし、ロボットとのデュエット曲『ハートのねじ』(1984)にも挑戦した。女優の冨田靖子(1983デビュー)も歌手活動をコツコツ続け、良い曲が多いが、『さびしんぼう』(1985)はショパンの曲をアレンジした映画主題歌。83年組からビッグなアイドルは生まれなかったが、それぞれに輝いていた。

一転して84年は大物がデビューした。80年、82年、84年と、アイドル隔年法則とも言われた。
菊池桃子(1984デビュー)は、『青春のいじわる』(1984)でデビュー。ささやくような声で、当時流行していたオメガトライブの女性版と言える洗練されたサウンドのアルバムを発表。アイドルとしての清楚な可愛らしさは空前絶後、それを失わないまま今日に至っている。『雪に書いたラブレター』(1984)のはかなさはアイドルの刹那性を具象化。一方『Say Yes!』(1986)は元気な応援歌。突然ロックバンドLA-MUのリードボーカルとして『愛は心の仕事です』(1988)を発表して驚かせたが、それも含め近年のシティポップブームで再評価されている。
対照的にアイドルとして疾走し、燃え尽きてしまったのが岡田有希子(1984デビュー)だった。竹内まりやとの相性が良く『ファーストデイト』(1984)、『Dreaming Girl~恋はじめまして』(1984)など正統派アイドル路線を歩んだが、事務所の先輩松田聖子作詞の曲『くちびるネットワーク』(1986)がラストシングルとなってしまった。
荻野目洋子(1984デビュー)は、硬質な声と確かな歌唱力を武器にデビュー曲『未来航海―Sailing―』(1984)をはじめ上質なアイドルポップを歌っていたが、洋楽カバーの『ダンシングヒーロー』(1985)で大ブレイク、『六本木純情派』(1986)などポップシンガーとしての道を歩む。
長山洋子(1984デビュー)もアイドルとしてデビュー、『ヴィーナス』(1986)のような洋楽カバーでも高い歌唱力を示したが、後に演歌に転向し人気歌手となった。渡辺桂子(1984デビュー)の『H・i・r・o・s・h・i』(1984)はレトロっぽい曲だが、ヒロシという名前は芸能界に多い気がする。
84年に歌手デビューした女優は個性派ぞろいだ。安田成美(1984デビュー)の『風の谷のナウシカ』(1984)の危うげな歌唱にはハラハラした。工藤夕貴(1984デビュー)の『野生時代』(1984)はぶっきらぼうな歌い方。沢口靖子(1984デビュー)は小室哲哉作品『Follow Me』(1988)での我が道を行く歌唱が素晴らしかった。角川3人娘の末っ子渡辺典子も映画主題歌などを歌い続けたが、阿木耀子・宇崎竜童コンビの『あこがれ座』(1985)は映画讃歌というべき名曲。
グループアイドルも多彩だった。2人組キララとウララ(1984デビュー)の『センチ・メタル・ボーイ』(1984)はコミカルだが哀愁も感じる不思議な曲。3人組少女隊(1984デビュー)の『Bye Bye ガール』(1985)はオールディズ風。4人組セイントフォー(1984デビュー)の『不思議TOKYOシンデレラ』(1984)は、レオタード姿でのアクロバティックなダンスが独特。フジテレビの深夜番組から生まれた女子大生グループおかわりシスターズ(1984デビュー)の『恋をアンコール』(1984)は爽やかな曲。フジのこの成功は後に女子高生グループのおニャン子クラブへとつながっていく。

85年には「隔年法則」が破られ、続々有望アイドルがデビューした。
中山美穂(1985デビュー)はテレビドラマで人気が出て、その後『ツイてるね、ノッてるね』(1986)、『WAKU WAKUさせて』(1986)などダンサブルなヒット曲を連発した。その後も、歌い上げるバラード『You’re My Only Shinin’ Star』(1988)、WANDSとの共演曲『世界中の誰よりきっと』(1992)など、息長く歌手・女優として活躍した。
斉藤由貴(1985デビュー)の『卒業』(1985)は、作詞家松本隆渾身の卒業ソング。生ぬるい感傷に流されないクールな知性を感じさせる。ドラマチックな『白い炎』(1985)はドラマ「スケバン刑事」の主題歌。その後も玉置浩二作曲の『悲しみよこんにちは』(1986)、井上陽水のカバー『夢の中へ』(1989)など多彩なヒット曲を持つ。
南野陽子(1985デビュー)は二代目「スケバン刑事」だが、神戸育ちのお嬢さんのイメージの方が強い。女友達の恋人への密かな思いを歌う『接近』(1986)、片思いの繊細な思いを歌う『話しかけたかった』(1987)、袴姿の歌唱が記憶に残る『はいからさんが通る』(1987)、幸福な恋人たちの歌『吐息でネット』(1988)などヒット曲も多数。その後も美しさを失うことなく女優として活躍中。
浅香唯(1985デビュー)は、『コンプレックスBANZAI』(1986)などマニア好みの名曲を出しながら、なかなかヒットに恵まれなかったが、三代目「スケバン刑事」でブレイクした。『Believe Again』(1988)、『C-girl』(1988)、『セシル』(1988)とタイプの違う3曲を立て続けにヒットさせた。
芳本美代子(1985デビュー)は、ものすごい歯並びの愛くるしいルックスで、弾むようなポップスの名曲を連発。デビュー曲の『白いバスケットシューズ』(1985)と『青い靴』(1986)は偶然だろうが「色+靴」シリーズになっている。
松本典子(1985デビュー)は、無色透明で強烈な色がないのが個性で、それはデビュー曲『春色のエアメール』(1985)によく表れている。中島みゆきとユーミン、対照的な両者の楽曲をシングル曲として歌えたのはその無色透明さゆえ。しみじみとした『雨と水曜日』(1988)は郵便局の「ふみの日」キャンペーンソング。
佐野量子(1985デビュー)はいっそう地味だが、ほのぼのした癒し系アイドルとして定着。『四月のせいかもしれない』(1987)は、イメージには合わない悲しい別れの歌。井森美幸(1985デビュー)の『99粒の涙』(1985)、志村香(1985デビュー)の『曇りのち晴れ』(1985)、村田恵里(1985デビュー)の『オペラグラスの中でだけ』(1985)も佳曲。
そして本田美奈子(1985デビュー)も85年デビュー。『青い週末』(1985)はブレイク前の素朴な青春ソングだが高い歌唱力が際立つ。『1986年のマリリン』(1986)ではセクシーな魅力を見せつけ大ブレイク。『One-way Generation』(1987)ではタキシード姿のパフォーマンス。後にミュージカルに進んだが、2005年に白血病で逝去。

続く86年、87年デビューからも個性派が出ている。
島田奈美(1986デビュー)は伸びやかな『Free Balloon』(1987)、EPO作詞作曲のキュートな『内気なキューピッド』(1987)がヒット。西村知美(1986デビュー)の『ポケットに太陽』(1987)はほのぼの、水谷麻里(1986デビュー)の『ポキチ・ペキチ・パキチ』(1987)は不思議ソング。山瀬まみ(1986デビュー)の『メロンのためいき』(1986)はユーミン作品で確かな歌唱力が際立つ。真璃子(1986デビュー)の『不良少女にもなれなくて』(1986)はヒューマンな佳曲。
伊藤智恵理(1987デビュー)は長い手足と抜群の歌唱力で『雨に消えたあいつ』(1987)を歌った。伊藤美紀(1987デビュー)の『小娘ハートブレイク』(1987)は飛び上がる振り付けが印象的。立花理佐(1987デビュー)の『疑問』(1987)は少しアナクロっぽい味わい。守谷香(1987デビュー)の『失恋座』(1987)はタイトルとは裏腹になけなしの勇気で恋に踏み出していく歌。
酒井法子(1987デビュー)は、『渚のファンタシィ』(1987)、『1億のスマイル』(1988)など元気な曲が多く、その路線の集大成は『ダイアモンド☆ブルー』(1990)と言える。後にドラマの主題歌『蒼いうさぎ』(1995)をしっとりと聴かせた。

こうした魅力的なアイドル達が活躍しているのと同時に、アイドル界におニャン子クラブ(1985デビュー)の旋風が吹き荒れたのが85年~87年のことである。フジテレビの「夕焼けニャンニャン」のため結成された素人女子高校生集団が、秋元康プロデュースのもと、あれよあれよという間に、大ブームとなった。素人らしさを前面に出したおニャン子は、クラシック音楽で言えば民族音楽を取り入れたドボルザークやグリーグ、シベリウスなどの国民楽派だろうか。
デビュー曲『セーラー服を脱がせないで』(1985)以降、主力メンバーの卒業ソング『じゃあね』(1986)などヒット曲を連発。更に、メンバーが次々にソロやユニットとしてデビューし、ヒットチャートを席巻した。
初期おニャン子の象徴的存在の新田恵利(1986デビュー)の『冬のオペラグラス』(1986)は巧拙を超えた圧倒的なパフォーマンス。そのライバル的な存在で勝気な国生さゆり(1986デビュー)の『バレンタイン・キッス』(1986)は今も冬の定番ソング。フランス人形のような河合その子(1985デビュー)の『青いスタスィオン』(1986)はハイセンス。更に、正統派アイドル渡辺美奈代(1986デビュー)の『PINKのCHAO』(1987)、理知的なキャンパスガールイメージの渡辺満理奈(1986デビュー)の『深呼吸して』(1986)、そしてうしろゆびさされ組(1986デビュー)の個性派への応援歌『うしろゆびさされ組』(1986)など、名曲も多数。
そしてソロデビューの真打ちは工藤静香(1987デビュー)。『禁断のテレパシー』(1987)でソロデビューし、アイドル色の強い『MUGOん、・・・色っぽい』(1988)、ロック色の強い『抱いてくれたらいいのに』(1988)や『嵐の素顔』(1989)などヒット曲を連発し、元おニャン子という肩書は無用の歌手となった。

おニャン子の評価には賛否両論あるが、アイドルの様々な可能性を示した壮大な実験だったことは確かだ。一方で、その実験の余波で、おニャン子解散後は、嵐の去った後のように、全てやりつくした満腹感・虚脱感からか、アイドル全体の活力が徐々に失われていくことになる。(続く)

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教科書に載せたいアイドル史の300曲②(80年~82年「なんてったってアイドル」)

2025-02-07 21:26:50 | ときめき研究家
80年代に入り、アイドルの新しい地平を拓いたのが松田聖子(1980デビュー)、それに続いたのが中森明菜(1982デビュー)である。この二人をクラシック音楽史に例えれば、古典派のモーツァルトとベートーヴェンの両巨匠に相当する。

松田聖子は、2曲目『青い珊瑚礁』(1980)でブレイク、『夏の扉』(1981)までは三浦徳子作詞の伸びやかな歌声を活かした正統派アイドルポップでトップアイドルの地位を獲得し、「ぶりっ子」という批判も賛辞に変えた。その後作詞家松本隆と組み、大瀧詠一作曲の『風立ちぬ』(1981)、ユーミン作曲の『赤いスィートピー』(1982)や『渚のバルコニー』(1982)といった多彩な楽曲で女性ファンも増やしていく。『SWEET MEMORIES』(1983)はジャズ風の英語歌唱が聴かせどころ、『瞳はダイアモンド』(1983)は泣きのボーカルが絶品、『天使のウインク』(1985)は難解な歌詞の尾崎亜美作品。結婚後もアイドルであり続け、『瑠璃色の地球』(1986)、『あなたに逢いたくて』(1996)といったヒット曲を出した。毎回多くのアーティストが参加したアルバムのクオリティが高く、従来歌番組でシングル曲を見るのが中心だったアイドルの鑑賞スタイルを変えた。

松田聖子の同期80年デビュー組は、実力派、個性派揃いだ。
河合奈保子(1980デビュー)は、『スマイルフォーミー』(1981)、『夏のヒロイン』(1982)のような快活なポップスで躍動する一方、竹内まりや作品『けんかをやめて』(1982)では悩める少女の心理を赤裸々に歌った。『エスカレーション』(1983)では大人びた世界にも挑戦。どんなタイプの楽曲も確かな歌唱力に裏打ちされて歌いこなしていた。『ハーフムーン・セレナーデ』(1986)は自ら作曲した佳曲。
現在の天皇が当時ファンだった柏原よしえ(後に芳恵)(1980デビュー)は、デビュー後しばらくは近田春夫作詞『乙女心、何色?』(1981)など試行錯誤が続いていたが、カバー曲『ハロー・グッドバイ』(1981)でブレイクして人気アイドルになった。中島みゆき作品の『春なのに』(1983)は卒業ソングの定番。その後は大人びたムードの楽曲が多い。
岩崎良美(1980デビュー)にも、多くのヒット曲がある。『ごめんねDarling』(1981)はハイセンスな楽曲を姉同様に高い歌唱力で軽やかに歌い、『どきどき旅行』(1982)はきわどい歌詞を素知らぬ顔で歌い飛ばしていた。しかし、最大のヒット曲はアニメ主題歌『タッチ』(1985)ということになってしまう。
ツッパリ路線でポスト百恵を狙った『セクシーナイト』(1980)の三原順子(1980デビュー)は、『だってフォーリンラブ突然』(1982)の軽妙なヒットもある。甲斐智枝美(1980デビュー)の『スタア』(1980)、石坂智子(1980デビュー)の『ありがとう』(1980)はいずれもアイドルのデビュー曲らしい佳曲。
皆それぞれに輝いたが、松田聖子という巨星は、誰よりも長く明るく輝き続けた。

81年デビューの個性派は、伊藤つかさ(1981デビュー)。劇団に所属し子役として活躍していたが、「3年B組金八先生」で人気爆発、レコードデビューを果たした。『少女人形』(1981)を震えながら歌う姿は、ロリコンファンのハートを鷲掴み。
角川映画でデビューした薬師丸ひろ子(1981デビュー)は『セーラー服と機関銃』(1981)、『Woman―Wの悲劇より―』(1984)など主演映画の主題歌を、独特の清らかな声で歌った。その後も『あなたを・もっと・知りたくて』(1985)、『時代』(1988)など、歌手活動を長く続けている。

そして「花の82年組」が登場する。
クラシック音楽に例えれば、シューベルトやブラームス、シューマン、ショパンなど、百花繚乱のロマン派だろうか。
松本伊代(1981デビュー。賞レース上は1982扱い。)は『センチメンタル・ジャーニー』(1981)でデビュー。スレンダーで人工的なルックスと鼻が詰まったような声で、数々の名曲を世に出した。糸井重里作詞の『TVの国からキラキラ』(1982)は伊代版アイドル讃歌。尾崎亜美と出会って、バラードの『時に愛は』(1983)、軽妙な『恋のKNOW-HOW』(1984)など新たな魅力も引き出された。
小泉今日子(1982デビュー)は、デビュー当初のアナクロな少女漫画路線から、自分のことを「コイズミ」と呼ぶ本音路線に切り替えてブレイクした。『半分少女』(1983)、『ヤマトナデシコ七変化』(1984)、『渚のはいから人魚』(1985)など、「古くて新しい」楽曲を、独特の押し出すような一本調子の歌い方で歌い続けた。アイドルをデフォルメした『なんてったってアイドル』(1985)は歴史的にも重要。高見沢俊彦作詞作曲の『木枯らしに抱かれて』(1986)は北欧の香りがする。後にドラマ主題歌『あなたに会えてよかった』(1991)はミリオンセラーとなった。
堀ちえみ(1982デビュー)はホリプロらしい野暮ったさが魅力で、デビュー年の『待ちぼうけ』(1982)の歌詞のドジぶりは苦笑もの。そのドジさを活かしたドラマ「スチュワーデス物語」が大ブレイク。『夏色のダイアリー』(1983)、『稲妻パラダイス』(1984)などポップな楽曲もどこか垢抜けない魅力があった。
石川秀美(1982デビュー)は健康的な美少女。スポーツ万能で運動会では大活躍。透明な声で軽快なポップスを歌った。『涙のペーパームーン』(1983)、『Hey!ミスター・ポリスマン』(1983)は歌うのが楽しくて仕方ないといった歌唱。しかしデビュー年の『ゆ・れ・て湘南』(1982)の哀愁も忘れられない。
早見優(1982デビュー)はハワイ生まれのバイリンギャル。『夏色のナンシー』(1983)は彼女の自画像的なナンバー。英語の発音も本格的で爽やかな名曲。その後も『渚のライオン』(1983)、『誘惑光線クラッ!』(1984)のような能天気なヒット曲を飛ばした。
82年組の真打ちは中森明菜(1982デビュー)。デビュー曲のしっとり聴かせる『スローモーション』(1982)、2曲目のツッパリ路線で荒々しい『少女A』(1982)、そして3曲目は再びスローバラード『セカンド・ラブ』(1982)という振幅の大きさに戸惑いつつ、人々は魅了された。すぐに松田聖子と人気を二分するトップアイドルになり、その地位を長く守った。『ミ・アモーレ』(1985)、『DESIRE~情熱~』(1986)で2年連続レコード大賞を受賞。井上陽水作詞作曲の『飾りじゃないのよ涙は』(1984)、加藤登紀子作詞作曲の『難破船』(1987)など難曲も軽々と歌いこなした。『北ウイング』(1984)から始まった海外を題材にした楽曲も多く「歌う兼高かおる」とも呼ばれた。

82年には、トップアイドルにはなれなかったが、魅力的な曲を残したアイドルが他にも大量デビューした。
『マイボーイフレンド』(1982)の正統派アイドル北原佐和子(1982デビュー)、『ねらわれた少女』(1982)のボーイッシュな真鍋ちえみ(1982デビュー)、『月曜日はシックシック』(1982)の劇画的な三井比佐子(1982デビュー)は、3人セットで「パンジー」として売り出された。
三田寛子(1982デビュー)は村下孝蔵作品の『初恋』(1983)などでしっとりとした和風の魅力を発揮。川島恵(1982デビュー)は『ミスター不思議』(1982)で伸びやかな声を聴かせた。白石まるみ(1982デビュー)の『オリオン座の向こう』(1982)はユーミンの佳曲。水野きみこ(1982デビュー)『私のモナミ』(1982)、新井薫子(1982デビュー)『虹色の瞳』(1982)、渡辺めぐみ(1982デビュー)『ときめきTouch me』(1982)も名曲。坂上とし恵(1982デビュー)『き・い・てマイラブ』(1982)は不可思議な曲調とびっくり声で忘れられない曲。つちやかおり(1982デビュー)の『恋と涙の17才』(1982)は大袈裟なアレンジと艶めかしい歌唱が印象的な曲。川田あつ子(1982デビュー)『秘密のオルゴール』(1982)の生歌唱は非常にスリリングだった。
原田知世(1982デビュー)は同名の角川映画の主題歌『時をかける少女』(1983)が代表曲。その曲を含め『ダンデライオン~遅咲きのタンポポ』(1983)などユーミン作品がイノセントな彼女のイメージと相性が良かった。後年、海外カバー曲のアンニュイな『彼と彼女のソネット』(1987)もヒットした。
1982年デビュー組には非常に個性的なグループもあった。スターボー(1982デビュー)は「宇宙三銃士」と称し『ハートブレイク太陽族』(1982)という前衛的な楽曲を残した。ソフトクリーム(1982デビュー)の『やったね、春だね』(1984)はキャンディーズ『春一番』の本歌取りのような楽しい曲。わらべ(1982デビュー)は、萩本欽一のテレビ番組内でパジャマ姿で歌う『もしも、明日が』(1984)が大ヒットした。

かくして、82年はアイドル史上最大の豊作年となった。(続く)
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教科書に載せたいアイドル史の300曲①(70年代「アイドルの夜明け」)

2025-02-02 14:50:40 | ときめき研究家
2011年に「教科書に載せたいアイドル史の100曲」という記事を書いた(2015年にブログ再掲載)。100曲の制約は厳しくて漏れた曲が沢山あったので、今回は300曲に拡げて大幅に加筆してみたい。
コンセプトは、これから日本のアイドルポップを鑑賞したい、歴史を学びたいと思っている若い人向けに、できるだけ客観的な歴史を語ることだ。アイドル本人の人気よりも楽曲重視で選曲した。100曲の時と同様、4回に分けて掲載する。
(「あのアイドルが漏れている」「このアイドルの代表曲は別の曲だ」など、異論・反論ある方はコメントください。)

南沙織(1971デビュー)が『17才』(1971)でデビューしたのが、アイドルの夜明けというのが定説だ。沖縄生まれの髪の長い少女が、有馬三恵子・筒美京平コンビの、従来の流行歌にはなかった清新な楽曲を得て、繊細で傷つきやすく、したたかに自立した女性の心情を歌い続け、若者の共感を得た。『色づく街』(1973)、『人恋しくて』(1975)、『春の予感―I’ve been mellow―』(1978)と年齢に伴い歌の世界も少しずつ大人っぽいものになり、アイドルの理想的な成長を体現した。
天地真理(1971デビュー)は、独特のファルセットで一世を風靡した。『ひとりじゃないの』(1972)、『虹をわたって』(1972)などヒット曲を連発したが、「あなたを待つのテニスコート」という歌い出しが印象的な『恋する夏の日』(1973)が代表曲。
南、天地と共に「3人娘」と呼ばれたのが小柳ルミ子(1971デビュー)だ。大ヒットした抒情的な『瀬戸の花嫁』(1972)は当時ウエディングソングの定番だった。
麻丘めぐみ(1972デビュー)は、幼く弱々しい印象が、守ってあげたい心情を惹起。『芽ばえ』(1972)、『アルプスの少女』(1973)などヒットしたが、何と言っても『私の彼は左きき』(1973)は歌詞も振りつけも印象的な代表曲だった。
香港から来たアグネス・チャン(1972デビュー)は、たどたどしい日本語で異彩を放った。デビュー曲『ひなげしの花』(1972)、『草原の輝き』(1972)とヒットを連発。『ポケットいっぱいの秘密』(1974)は作詞家松本隆の出世作。
歌が下手と言われたアイドルの元祖と言える浅田美代子(1973デビュー)の『赤い風船』(1973)や『しあわせの一番星』(1974)を今聴くとそんなに下手ではない。幼い歌詞の内容と、声量が無く囁くような歌い方が、下手な印象を与えたのだろう。小林麻美(1972デビュー)の『初恋のメロディー』(1972)も幼い歌詞が印象的な曲で、後に森尾由美がカバーした。風吹ジュン(1974デビュー)の『愛がはじまる時』(1974)も息継ぎが苦しそうな歌唱はかなり怪しかった。

山口百恵(1973デビュー)と桜田淳子(1973デビュー)は、クラシック音楽史上「音楽の父」「音楽の母」と呼ばれているバッハとヘンデルに当たる偉大な存在だろう。
山口百恵は、『ひと夏の経験』(1974)など少女の青い性を歌う曲が多かったが、阿木耀子・宇崎竜堂と出会って『横須賀ストーリー』(1976)、『イミテーションゴールド』(1977)、『プレイバックpart2』(1978)などツッパリ系のドラマチックな楽曲で独自の境地を拓く。一方で、さだまさしの『秋桜』(1977)、谷村新司の『いい日旅立ち』(1978)といった日本的な抒情も歌い、圧倒的な人気の国民歌手となった。結婚を発表した後にも『ロックンロールウイドウ』(1980)、『さよならの向う側』(1980)といった名曲を残してきっぱり引退し、現在も伝説となっている。
そのライバルであった桜田淳子は、阿久悠作詞の『わたしの青い鳥』(1973)、『はじめての出来事』(1974)、『十七の夏』(1975)、『夏にご用心』(1976)など、正統派のアイドルらしい歌を長く歌っていたが、後年は中島みゆきと出会って『しあわせ芝居』(1977)、『追いかけてヨコハマ』(1978)のような大人の曲に転じた。一方、1曲限りの松本隆・筒美京平作品『リップスティック』(1978)もファンの評価が高い。
山口、桜田と共に「花の中3トリオ」と呼ばれたのが森昌子(1972デビュー)だ。デビュー曲『せんせい』(1972)の頃は3人で一番人気があったと思う。その後は演歌歌手の道に進んだ。

70年代には、個性的なアイドルがまだ多数いるし、名曲も多数ある。
伊藤咲子(1974デビュー)はデビュー曲『ひまわり娘』(1974)のイメージが強いが、アイドルでは珍しい3拍子の『乙女のワルツ』(1975)、『きみ可愛いね』(1976)など良曲に恵まれた。
木之内みどり(1974デビュー)は初期には青春路線の曲が多いが、最大のヒット曲は後年の大人っぽい『横浜いれぶん』(1978)だろう。
太田裕美(1974デビュー)は松本隆の詞の世界を独特のハスキーボイスで聴かせた。『木綿のハンカチーフ』(1975)は、男性の上京により次第にすれ違って行く恋人達を描き、後世に残る名曲。『赤いハイヒール』(1976)は逆に女性が上京する歌。『九月の雨』(1977)はドラマチック。『さらばシベリア鉄道』(1980)は大瀧詠一作曲だが、大瀧本人歌唱とはまた違った味がある。
岡田奈々(1975デビュー)はフランス人形のようなルックスと、『青春の坂道』(1976)、『手編みのプレゼント』(1976)など女学生路線の佳曲で魅了した。
岩崎宏美(1975デビュー)は本格的な歌唱力を武器に『ロマンス』(1975)、『未来』(1976)など筒美恭平作品でヒットを連発。『思秋期』(1977)などのバラード、ディスコサウンドの『シンデレラハネムーン』(1978)、サンバ調の『夏に抱かれて』(1979)など多彩なヒット曲がある。『聖母たちのララバイ』(1982)は2時間ドラマのエンディング曲として美しい歌声で聴く者を癒した。

岡崎友紀(1970デビュー)はドラマでの人気が高かったが『黄色い船』(1972)は佳曲。松本ちえこ(1974デビュー)はシャンプーのCMソング『恋人試験』(1976)がヒット。林寛子(1974デビュー)のベタな『素敵なラブリーボーイ』(1975)は後に小泉今日子がカバー。黒木真由美(1975デビュー)の『感情線』(1975)はサビが印象的。
高田みづえ(1977デビュー)は木之内みどりのカバー曲『硝子坂』(1977)でデビューし、その後も『私はピアノ』(1980)などカバー曲でのヒットを得意とした。金井夕子(1978デビュー)の『パステルラブ』(1978)は、『スター誕生』の出場者もよく歌っていた名曲で、後に松本典子がカバー。
健康的な榊原郁恵(1977デビュー)と、八重歯が魅力の石野真子(1978デビュー)、超絶的な歌唱力の大場久美子(1977デビュー)は70年代末の人気を三分した。榊原の代表曲は『夏のお嬢さん』(1978)で異論ないが、その後それを超えるヒット曲が出なかったのが残念。『ROBOT』(1980)は当時流行していたテクノ歌謡でファン人気が高い。
石野真子のデビュー曲『狼なんか怖くない』(1978)は、阿久悠の思い入れ溢れる歌詞と、吉田拓郎独特の節回しが楽しめる絶品。『春ラ!ラ!ラ!』(1980)は元カレとカレと3人で会いたいという歌詞の状況が面白い。
大場久美子は、リズムも音程も危なっかしい『スプリングサンバ』(1979)とドラマ「コメットさん」の主題歌『キラキラ星あげる』(1978)を代表曲とする。
倉田まり子(1979デビュー)と石川ひとみ(1978デビュー)は、当時顔が似ていると言われた。倉田はデビュー年から王道卒業ソング『グラデュエーション』(1979)、『How!ワンダフル』(1979)とヒット曲に恵まれた。一方、石川は『くるみ割り人形』(1978)など良曲はあってもヒットに恵まれなかったが、ユーミンの『まちぶせ』(1981)で遂にブレイクした。
清水由貴子(1977デビュー)は『お元気ですか』(1977)をギター弾き語りで歌った。高見千佳(1978デビュー)の『シンデレラ』(1978)、天馬ルミ子(1978デビュー)の『教えて下さい、神様』(1978)、井上望(1979デビュー)の『ルフラン』(1979)、能勢慶子(1979デビュー)の『アテンションプリーズ』(1979)はいずれも印象深いデビュー曲。比企理恵(1979デビュー)は長くタレント活動を続けたが『恋のワナワナ』(1980)などユニークな曲が多い。

70年代を飾った2大グループは、キャンディーズ(1973デビュー)とピンクレディ(1976デビュー)だ。
キャンディーズはドリフの『8時だよ全員集合』へのレギュラー出演等で人気を徐々に積み上げ、『年下の男の子』(1975)、『ハートのエースが出てこない』(1975)、『春一番』(1976)、『やさしい悪魔』(1977)などヒット曲を連発していたが、引退発表後に人気が沸騰し社会現象になった。ラストシングル『微笑がえし』(1978)は、歌詞にこれまでのヒット曲のタイトルが織り込まれた明るい別れの歌で、ファンの後押しで遂に1位を獲得した。
ピンクレディは『ペッパー警部』(1976)でのデビューから、阿久悠・都倉俊一コンビによる独創的な空想世界を歌い続け、1曲毎にインパクトを更新して行った。『渚のシンドバット』(1977)、『ウォンテッド』(1977)、『UFO』(1977)、『サウスポー』(1978)の4曲が絶頂期だったと思われる。この頃は、子どもから大人まで熱中し振り真似ができるスーパーアイドルだった。
70年代の他のグループアイドルとして、3人組ではキャンディーズの後継を狙ったトライアングル(1978デビュー)の『トライアングル・ラブレター』、2人組では後にとんねるずの歌詞にも歌われた双子のリリーズ(1975デビュー)の『好きよキャプテン』が名曲。

1980年に山口百恵が引退、ピンクレディも失速し、アイドルは新たな局面を迎える。(続く)
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