アイドルファンはアイドルに恋愛と勘違いするKC夫人、そして、道江幸子との議論、2013年8月(ナッキー)
2年前のTIF、ビラ配りしていた道江幸子と5分くらい、ゆっくり話す機会がありました。
髪の毛を黒髪から金髪に変えたばかりの頃の道江幸子。
「アイドルは黒髪でないと、アイドルとは言えない。」というドグマに支配されたファンの評判を気にしている道江幸子に、私は、
「放課後プリンセスのように、最初から茶髪のアイドルもいる。
髪の毛の色は、アイドル本人が、どういうアイドルでありたいか、というレゾンデートルなので、ファンの反応に一喜一憂する必要もない」と伝えました。
これを聞いた道江幸子氏、
「放課後プリンセスは、ヤンキーだ。私は、アイドル。」とご立腹。この部分瑣末なエピソードで、本論は道江幸子との以下の議論にあります。
道江幸子氏の論理を敷衍すると、
「アイドルはいつまでも同じアイドルではいられない。
女性として、成長するし、年をとるという厳しい現実に直面している。
成長して年をとったら、それ相応の変化が必要。
アイドルだから、いつまでも若づくりでは、疲れてしまうし、長く続かない。」
私は、アイドル黒髪・教条主義者であるが、アイドル本人の胸の内を聞いて、変化したいという心情は納得した。
ただし、道江幸子氏の次の理論展開に、男女の感性の差を実感しました。
「アイドルのファンは、アイドルの外見だけでなく、アイドル本人を好きになるのだから、髪の毛の色が変わったら、ファンを辞めるとは、何なのよ。私のこと、好きじゃなかったということでしょ。」
アイドルファンは、次の二つに、大きく分類できます。
生身派 と 企画派©ときめき研究家
生身の人間であるアイドルが好きなファン と アイドルの歌とか外見とかアイドル企画としてのアイドルが好きなファン。
恋愛派 と 作品派©ナッキーと言い換えることもできます。
企画派・作品派は、アイドルとして登場する限られた時間に鑑賞できる女の子「だけ」に興味があり、
生身派・恋愛派は、アイドルでない時間の彼女「にも」興味がある。
世の中の女性は、世の中のアイドルファンが、生身のアイドル本人が好きで、恋愛感情を抱いている、と誤解している。
アイドル道江幸子も、KC夫人も。
世の中のアイドルファンの多数は、生身のアイドル本人に恋愛感情を抱かず、アイドルという作品を鑑賞しているに過ぎない。
葛飾北斎の絵のタッチが、突然変わったら、それは私の好きだった葛飾北斎の絵ではなく、私はもう鑑賞したくなくなる葛飾北斎の絵なのである。
葛飾北斎の絵のタッチ、道江幸子の髪の色、この論理式に、芸術作品・商業作品ならなんでも代入できる。
変わったら興味を失うのは、アイドル本人が好きなのではなく、アイドルという作品が好きなのである。
私はデビュー曲「としごろ」からの山口百恵ファンであったが、「横須賀ストーリー」で熱狂的なファンから、淡々としたファンに変わった。
「横須賀ストーリー」は山口百恵がアイドルからアーティストに変貌した殻を破った第一作として評価されているが、まさに、その理由が、
私の好きな「『アイドルの歌』を歌う山口百恵」から、
私が関心のない「『アイドルの歌とは言えない歌』を歌う山口百恵」に変わった瞬間。
こんなに大ファンだったのに、簡単に熱が冷めるものかと、高校生の私は自分の心情の変化を不思議に思ったが、
山口百恵本人(生身の山口百恵)には興味がなく、
山口百恵というアイドル(作品)が好きだったに過ぎない、と今は分かります。
ナッキー
2年前のTIF、ビラ配りしていた道江幸子と5分くらい、ゆっくり話す機会がありました。
髪の毛を黒髪から金髪に変えたばかりの頃の道江幸子。
「アイドルは黒髪でないと、アイドルとは言えない。」というドグマに支配されたファンの評判を気にしている道江幸子に、私は、
「放課後プリンセスのように、最初から茶髪のアイドルもいる。
髪の毛の色は、アイドル本人が、どういうアイドルでありたいか、というレゾンデートルなので、ファンの反応に一喜一憂する必要もない」と伝えました。
これを聞いた道江幸子氏、
「放課後プリンセスは、ヤンキーだ。私は、アイドル。」とご立腹。この部分瑣末なエピソードで、本論は道江幸子との以下の議論にあります。
道江幸子氏の論理を敷衍すると、
「アイドルはいつまでも同じアイドルではいられない。
女性として、成長するし、年をとるという厳しい現実に直面している。
成長して年をとったら、それ相応の変化が必要。
アイドルだから、いつまでも若づくりでは、疲れてしまうし、長く続かない。」
私は、アイドル黒髪・教条主義者であるが、アイドル本人の胸の内を聞いて、変化したいという心情は納得した。
ただし、道江幸子氏の次の理論展開に、男女の感性の差を実感しました。
「アイドルのファンは、アイドルの外見だけでなく、アイドル本人を好きになるのだから、髪の毛の色が変わったら、ファンを辞めるとは、何なのよ。私のこと、好きじゃなかったということでしょ。」
アイドルファンは、次の二つに、大きく分類できます。
生身派 と 企画派©ときめき研究家
生身の人間であるアイドルが好きなファン と アイドルの歌とか外見とかアイドル企画としてのアイドルが好きなファン。
恋愛派 と 作品派©ナッキーと言い換えることもできます。
企画派・作品派は、アイドルとして登場する限られた時間に鑑賞できる女の子「だけ」に興味があり、
生身派・恋愛派は、アイドルでない時間の彼女「にも」興味がある。
世の中の女性は、世の中のアイドルファンが、生身のアイドル本人が好きで、恋愛感情を抱いている、と誤解している。
アイドル道江幸子も、KC夫人も。
世の中のアイドルファンの多数は、生身のアイドル本人に恋愛感情を抱かず、アイドルという作品を鑑賞しているに過ぎない。
葛飾北斎の絵のタッチが、突然変わったら、それは私の好きだった葛飾北斎の絵ではなく、私はもう鑑賞したくなくなる葛飾北斎の絵なのである。
葛飾北斎の絵のタッチ、道江幸子の髪の色、この論理式に、芸術作品・商業作品ならなんでも代入できる。
変わったら興味を失うのは、アイドル本人が好きなのではなく、アイドルという作品が好きなのである。
私はデビュー曲「としごろ」からの山口百恵ファンであったが、「横須賀ストーリー」で熱狂的なファンから、淡々としたファンに変わった。
「横須賀ストーリー」は山口百恵がアイドルからアーティストに変貌した殻を破った第一作として評価されているが、まさに、その理由が、
私の好きな「『アイドルの歌』を歌う山口百恵」から、
私が関心のない「『アイドルの歌とは言えない歌』を歌う山口百恵」に変わった瞬間。
こんなに大ファンだったのに、簡単に熱が冷めるものかと、高校生の私は自分の心情の変化を不思議に思ったが、
山口百恵本人(生身の山口百恵)には興味がなく、
山口百恵というアイドル(作品)が好きだったに過ぎない、と今は分かります。
ナッキー
前者はAKBのコンセプトであり、後者は従来のアイドル好きだと分類できるかもしれません。
アイドルのイメージチェンジは加齢による変化や成長をデフォルメするもので、それでも応援してくれるかどうかの篩い分けなのでしょう。
いずれ成長するにつれ離れる人たちを追い出して、新たなファン獲得を目指す企図もあるのでしょう。
ただ、変化を好まない人たちの中には自分の好み以外を一切認めないで執拗にバッシングするノイジーマイノリティがいて、アイドルもこれに悩まされているし、世間がアイドルファンを敬遠する原因にもなっているのが残念ですね。