tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

東慶寺の庭(2)

2009-12-21 22:36:29 | 古都 鎌倉

 
 
 
 

【撮影地】鎌倉市山ノ内1367(東慶寺(とうけいじ))(2009.10月撮影)
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青岳尼が里見義弘の初恋の相手だったら、女性救済に後半生を捧げた豊臣秀吉の孫娘はどんな人だったのだろう。

徳川家康の天下平定は、豊臣秀吉の遺児・秀頼と母・淀君の大坂城二の丸帯曲輪内で自害にて完了した。
秀吉との遺言を破り、ヤクザの言いがかり以上の挑発で豊臣家を滅ぼしたのだった。さらに、反乱分子を徹底的に排除するため、残党はことごとく殺された。
何の罪もない秀頼の遺児国松も殺され、その結果、250年(日本の歴史の6分の1)にも及ぶ太平の時代が訪れた。
唯一、豊臣家の血筋を引くもので残されたのは、豊臣秀頼の娘で徳川家康の孫娘・千姫の養女だった奈阿姫(なあひめ)だけだった。当時、7歳。

家康も孫娘にはあまかったのだろうか。
戦国一の美女と謳われた織田信秀の娘お市、そして、気位が高い長女の淀殿。淀殿の次男秀頼を経由して奈阿姫へ。美女の血筋が続く。
奈阿姫が処刑される所を体を張った必死の助命嘆願を行ったのが、秀頼の妻、徳川家康の孫娘・千姫だった。
家康は出家して子を残さないことを条件とし生を許した。
千姫と一緒に1年の時を過ごした後、奈阿姫は東慶寺に尼として入る。
「何か願いはないか?」
の家康の質問に8歳の彼女は
「東慶寺の女性救済が強固に、永遠に続きますように」
と答えたと伝わる。
そして彼女は「天秀尼」として女性を守る東慶寺中興の大和尚と呼ばれ、37歳でこの世を去る。そして、豊臣の直系は途絶。

何故、あの時代に、彼女が生きながらえて、治外法権と言っても良い場所の象徴となることを家康は許したのか。
千姫の必死の説得も含めて、もう少し考えてみると違う歴史の側面も見えてくるのかもしれない。


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