tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

クメール・ルージ

2011-10-19 22:24:30 | プチ放浪 都会編

 
 

ポル・ポト派が率いるクメール・ルージュのプノンペンの住民に対する強制退去の際、「米軍B52の爆撃があるから」とか、「都市では食料が足りないから」であり、「退去は、一時的なものですぐに帰って来られる」との説明だったという。(「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」 ルオン・ウン (著)より)  

退去は問答無用だった。少しでも逆らえば、容赦なく殺された。病院に入院している瀕死の重病人でさえもが、退去を余儀なくされた。 
彼らは、わずかな食料と身の回り品だけを携えて、徒歩で一か月にも及ぶ道のりを移動せねばならなかった。体の弱い幼児や老人などが、次々と死んでいく。
クメール・ルージュが都市生活者に退去を強いたのは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させ、強制集団生活を強い、共産党の支配による全国民の服従を徹底する」ことが目的だった。
 
クメール・ルージュはさらに、「新国家建設のための協力者を集める」とのごまかしで、旧ロン・ノル時代の行政官、軍人、医師、教師、技術者、僧侶などを集める。海外に留学している学生にも呼び掛けは行われた。
こうして集められた人々は、政治犯としてみな殺された。血の粛清だ。
市場や宗教は、資本主義的行為とされ全面的に禁止に。貨幣は米がそれにとって代わった。僧侶たちは、強制的に還俗させられ、農作業やダムの工事現場に追いやられる。寺院は、ことごとく、豚小屋や集会場に、モスクは倉庫と化した。
強制退去させられた都会人に対しては、一日30分程度、原始共産主義のしくみを叩きこむための教育が行われた。1日に与えられる食料は、スプーン一杯ほどの米しか入っていないお粥。人々は飢えと病気で次々と死んでゆく。クメール・ルージュが求めた理想的な国民とは、農作業や土木工事など、ただアリのように黙々と働き続ける国民だった。


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最初に父が殺された

2011-10-18 22:24:50 | プチ放浪 都会編

 
 

1975年、4月17日。シアヌーク率いるカンボジア民族統一戦線がプノンペンを占領しクメール共和国が崩壊。 この日から3年8か月と20日、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れることになる。

「誰もが立ち止まって、トラックが何台もプノンペンの街に入ってくるのを眺めている。やがて泥だらけの古いトラックがわが家の前を、がたがたしながら通りすぎていく。緑やグレー、黒い色をした輸送用トラックは、つるつるになったタイヤで泥をはね上げ、エンジンから黒い煙を吐きだしながら前に進んでいる。荷台には洗いざらしの黒いズボンと黒い長袖のシャツを着て、赤い布を腰にきっちりと結び、額にクラマーを巻き付けた男たちがぎっしり立っている。彼らはこぶしを宙に突き出して歓声をあげている。ほとんどが若くてやせていて、おじさんの水田や畑で働いている人たちのように肌が黒く、脂っぽい髪を肩まで伸ばしている。カンボジアでは女の人が何日も洗っていないような髪の毛をしていたら、だらしがないと思われる。長髪の男は軽蔑されるし信用されない。何か秘密を持っていると見なされてしまうのだ。
 そんな外見をしているのに、街の人は拍手と歓声で迎え入れている。男たちも身なりは汚いのに、心からうれしそうな顔つきをしている。長いライフル銃を手に持ったり肩にかけたりしながら、ほほえみ、笑い、王さまみたいに群衆に手を振っている」

「最初に父が殺された―飢餓と虐殺の恐怖を越えて」 ルオン・ウン (著)  小林 千枝子 (翻訳)
の一節だ。

この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。彼らは、すべて、十代かそこらの兵士で、黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。 
内戦が終わったと信じたプノンペン市民は、歓声を上げて彼らを迎える。しかし、彼らのしたことは都会人の農村への強制退去。200万人いた首都プノンペンは、わずか数日でゴーストタウンに。  


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クメール民族の不幸(3)

2011-10-17 22:44:53 | プチ放浪 都会編

 
 

1970年にカンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させたものの、2ヶ月あまりで早々とカンボジア領内から撤退する。
このため、同年末には、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム、及び、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への物資支援ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早速と復旧。

このような状況の中、アメリカの支援を受けたロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の間でカンボジア内戦が勃発。かくして、カンボジア国内は、熾烈な戦闘が至る所で繰り返され、5年に渡る内戦に突入することになる。
内戦によって、首都プノンペンは物や食料の不足は深刻化し、大混乱に陥った。国土の6割が解放勢力の手に落ち、主要幹線はいたるところで切断された。
1972年1月。アメリカはロン・ノル政権支援のために再度、カンボジアへ侵攻。これによってベトナム戦争は第2次インドシナ戦争へ。

しかし、その翌年の1973年にアメリカは、莫大な戦費と戦場における士気の低下、国内外の反戦運動、各種メディアによる反戦的な報道など米国内外の世論に押されてベトナムから完全撤退。
当然のことながら、後ろ盾を失ったロン・ノルは追い詰められる。
1975年4月、ロン・ノルは国外へ亡命。クメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させ、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンボジア(民主カンプチア)に改称。隣国ベトナムでは南ベトナムのサイゴンが陥落し、北ベトナムが勝利をおさめてベトナム戦争が終結。

歴史には、「もし」というのはあり得ない。アメリカの介入がなければ、中国の支援がなければクメール・ルージュよりは、まだましなシアヌークでカンボジアは安定していたのかもしれない。暴力は更なる暴力を、憎悪は更なる憎悪を産み出す。かくして、クメール民族の悲劇ドラマの火ぶたは切って落とされたのだ。


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クメール民族の不幸(2)

2011-10-16 21:44:47 | プチ放浪 都会編

 
 

1970年3月18日。シアヌーク国王がモスクワと北京を訪問中、下院でシアヌークの国家元首解任が満場一致で可決。アメリカが後ろ盾した軍事クーデターだ。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となる。
一方、シアヌークは中国・周恩来によって、北京に亡命政府を樹立。ロン・ノルと米国の戦いのため、北ベトナムと共同戦線をつくり武装闘争を開始。

このクーデターの数日後、デモと暴動がカンボジアのいたる所で起こる。3月29日には約4万人の農民がシアヌークの復権を要求するデモをして軍隊と衝突、多くの死傷者が出た。
ロン・ノルは激しい反北ベトナムキャンペーンを行う。そして、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への支援が疑われたカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺。シアヌーク時代に50万人いた在カンボジアベトナム人のうち20万人がベトナムに集団帰還せざるを得なかった。

カンボジアがロン・ノル政権になり、自由がきくようになったアメリカは、ロン・ノルの黙認のもと、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の遮断を目的として、カンボジア領内に爆撃を開始。投下された爆弾量は、第二次世界大戦でアメリカが日本に投下した総量の実に3倍。このため、数十万人の農民が犠牲となり、さらに200万人が国内難民に。
都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行。これがゆえ、農村部ではロン・ノルに対する反感が多く、反ロン・ノル勢力である共産主義勢力クメール・ルージュの伸張を招くことになる。


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クメール民族の不幸(1)

2011-10-15 22:19:08 | プチ放浪 都会編

 
 
 
 

ラオス、ベトナムとともに、フランスの植民地だったカンボジア。1946年に、それらの国々の独立運動が起こり、フランスとの間で独立戦争が勃発。
1953年にフランスはこの第一次インドシナ戦争で敗れ、カンボジアの独立を承認。カンボジアは、ノロドム・シアヌーク王が国家元首となって政権を握り、やや左寄りの路線を歩みだす。
一方、第一次インドシナ戦争のメイン舞台であるベトナムは、共産党の指導する北と、親米派の南に分断され、政権争いを始めていた。1965年には、南からの援軍要請を受けたアメリカが参戦し北爆を開始すると、今度は、北を中国やソ連が膨大な軍事物資支援で後押し。このベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)は、その後、激化の一途をたどる。一国の共産化が周辺国にまで波及すること(ドミノ理論)を危惧したアメリカは、それを防ごうとして、どんどん泥沼に足を踏み入れて行くことになる。   
 
左よりの路線を歩むシアヌークのカンボジアは、対米断交に踏み切る。カンボジア領域内には、北ベトナム軍、および南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の補給基地ができた。
一方、アメリカはベトナム戦争を優位にするため、カンボジアに親米的な政権を作る必要があった。 
かくして、苛烈化するベトナム戦争は、カンボジア国内まで広がる。 


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