地底人の独り言

いつまでもみずみずしい感性を持ち続けて生きたいと願いつつ、日々の思いや暮らしを綴っていきます

ごあいさつ

いつも訪問してくれてありがとう。 「毎日が日曜日」の日々ですが、好奇心いっぱいに、ミーハー心を忘れず生きていく様や日々の思いを綴っていきたいと考えています。  是非とも、今後とも訪問をお願いします。また訪問していただいたら、足跡・コメントを残してくれたらなお嬉しいです(4桁の数字を半角小文字で入力忘れないでくださね)。 今後ともよろしくお願いします。

すくも

2011年11月05日 | 野菜づくり

 

朝6時頃から降りだした雨に慌てた、お野菜のためのすくもをいただきに行った

 今日・明日と天気予報は雨だった。ただ、今日は午後から雨ということだった。しかし、朝6時頃にはポツリポツリと降りだし慌てた。ご近所にすくもをいただきに行くこととしていたからだ。すくもは乾いていないといけない。昨晩高松から帰ってすぐに、行けばよかったと少しだけ悔やんだ。

 ともあれ降りだした直後であり、今ならまだ間に合うと思いすぐに車を走らせた。大丈夫だった。これで、すくもにわらとお野菜たちの冬を迎える準備はできた。これからも頑張って、お野菜作りを楽しもうと思う。

 ところで、今週中に畑に絹さやえんどうのタネを植える予定としていたが、何しろご縁のあった畑は猫の額故にスペースがない。そこで、これまたご近所さんにお願いして、少し多めにタネを植えてもらい、苗でいただくことをお願いした。その間に、苦土石灰などもまいて土作りをしようと考えている。

 そうしたお野菜を使って、今日もまた野菜生活を楽しんだ。畑で育った水菜、ホーレンソウ、春菊、なすび、ピーマン、カボチャなどが食卓に並んだ。

 ところで雨は降り続いたが、昨日少しタネが不足してスペースの残った畝に、一晩水に浸けたホーレンソウのタネを植えた。今食べているホーレンソウを考えると、もう少し早くタネを撒くべきだったと少しだけ反省した。

 そして、今日は予約していた散髪から帰った後に、母のお墓に昨日の花を供えて、母の妹さんのの死を報告した。もうあの世で会っているのだろう、先輩として優しく迎え、変わらず仲良くして欲しいと願った。

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災害医療

2011年11月05日 | 読書

 

震災発生から57分でトリアージエリア設置を完了し、災害医療を展開した石巻赤十字病院に感動

 1000年に一度と言われる「東日本大震災」、その災害の酷さや人災と言える東電の原発事故の深刻さを伝える本は、これまでたくさん出版されてきた。

 そして今は、その大震災と闘った方々の記録が、次第に出版されてきている。その中の一冊が、石巻赤十字病院+由井りょう子著『石巻赤十字病院の100日間』(小学館刊)だ。この本には、「東日本大震災 医師・看護師・病院職員たちの苦闘の記録」という副題がつけられている。

 この本を一読して、石巻赤十字病院の緊急災害時の医療活動の展開に心から敬服した。こうした活動が東日本の多くの被災地で展開されたであろうことを思うと、心が熱くなる。そして、人間はなんて素晴らしいんだろうと嬉しくもなった。

 石巻赤十字病院では大震災発生直後に、院内に「災害対策本部」が立ち上げられ、57分後には「トリアージエリア」の設置を完了している。まさに素早い対応で、日頃の訓練の成果が成果を上げている。

 さて、「トリアージ」とは、「多数の負傷者が出る災害や医師が患者を選別し、治療の優先順位をつける行為」だそうだ。そして「トリアージ」で、負傷者を短時間で①最優先治療者(赤色のタグ)、②非常治療者(黄)、③軽措置者(緑)、④不処置者(超重症者、黒)に振り分け、トリアージタブを患者にタグを付けていくのだそうだ。

 そしてまた、薬を流された人たち、また人工透析やHOT(在宅酸素療法)の患者等への石巻赤十字病院の活動も報告されている。どのページを開いても、感動で涙が流れた。みなさんにも、一読をオススメする。

 今回の大震災の被災に対して、多分どの医療機関でもまたそれ以外の場所でも、実にたくさんの不屈の努力が重ねられてであろうことは明白だ。そうした素晴らしい活動が、今後さらにたくさんの本として出版されることだろうし、そのことを期待もしている。そうした本を読ませていただき、学ばせていただこうと考えている。

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順番

2011年11月05日 | 身辺雑記

 

叔母の葬儀で母の故郷である高松へ、瀬戸大橋を走らないで電車で行った

 私の母は一男四女の長女だ。出身は高松、子どもの頃には連絡船に乗るための宇野港の長い桟橋を、座席確保に走ったことを記憶している。

 その我が叔母となる母の妹(三女)が83歳で鬼籍に入った。一昨日が通夜、そして昨日が葬儀・告別式だった。家族が行けないので、私一人であり列車を使っていった。

 最近は葬儀・告別式と同じ日に、骨揚げ(収骨)を終えた後に初七日までを行うことが多く、叔母の葬儀でもそうだった。初七日では、唯一生存している叔母(四女)などと久しぶりに語らった。5人の兄弟姉妹の中で生存しているのは、一番下の妹一人となっている。上の姉は少し早いが、それでも順番となっている。

 今は鬼籍に入った叔母は、母と同じく糖尿病を患い、晩年は人工透析もした。母と一緒に何度も浴びに行かせていただき、いつも美味しいおうどんをお送りいただいた。とても働き者の叔母であり、今はご冥福を祈るのみである。

 初七日の席では叔母たちに、私たち夫婦は戒名ももらわず、葬儀は家族のみの葬儀とする予定なので、「死んでも連絡しないので悪しからず」と伝えた。ただ、兄嫁には「兄弟だけは、知らせんとあかんやん」とたしなめられてはいるのだが。

 それにしても、高松市の葬儀場は長い煙突もなく、名前も「やすらぎ苑」と名付けられていた。とても葬儀場とは見えず、さながら高級老人ホームのようであった。

 ところで昨日は、私は叔母の葬儀への出席で失礼したが、我が友人のご子息の葬儀もあった。まだ23歳、就職も決まってこれからという時の急逝である。親の火葬ボタンを子どもが押すならわかるが、その逆は言葉もない。順番が違う。我が友人の無念さが、我が心にも響く。

 ともあれ今日のお天気は雨模様だが、昨日いただいたお花を我が母のお墓に持っていき、妹(叔母)の死を伝えようと思う。

 

コメント (2)
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