『生前に書く「死去のご挨拶状」』を読んだ、終末期を考えつつ今を精一杯生きたい
人の一生に於いて、絶対に避けられないのが死だ、と言われている。その通りで、百年生きている人はいるが、千年も生きている方はいない。
その「死」について、私は「死ですべてが終わる」と考えているので、格別怖いとは思わない。ただ、その死に至る過程については、少しだけ悩む。「悩む」と言っても、何が出来るわけではない。ただ、要するに家族に迷惑をかけたくないとの思いがあるだけだ。
そして、ガンなどが発症して死期が限られた場合には、ごく身近な人にはお礼の「お食事会」にお誘いしようと思っている。「生前葬」は、余りに派手すぎる。
そして、それが出来ない場合には、誰にも知らせず家族だけで見送ってもらうこととしている。その後一ヶ月位して、私の書いた挨拶文を同じ時間を過ごした友人たちやごくごくお世話になった方々に送ってもらおうと思っている。
もちろん戒名などは不要と考えており、そのことも家族に伝えてある。生前の名前、その一つでいいと考えている。
ともあれそんな私であり、津城寛文著『生前に書く「死去のご挨拶状」』を読んだ。本の中には、「例文」もあり、参考になった。
そろそろその「死去のご挨拶状」やそれを同封してお送りする封筒の宛名書きも始めたいと考えている。我が人生であり、その準備が出来ないままで、旅立ちの日が到来するのではないかと思ったりもしているが。
終末期を考えつつも、「今」を精一杯生きていきたいと考えている。人生はどんなドラマよりも楽しいから。
最近舞台やコンサートで会えていない、そうした寂しさに耐えかねての松たか子
今日は雨。雨が降れば本を読む。その「本」について、作家として活躍するとともに、「クレヨンハウス」という書店を主宰している落合恵子は、次のように語っている。
「専門書店のオーナーとして、また書き手として、私常々こう考えている。『本はなくともひとは生きられる』と。本こそすべて、ではない。本はなくともひとは生きることができる。が一方、本の楽しみを知っていたほうが、人生の風景は深まるに違いないとも思う」。(落合恵子著『孤独の力を抱きしめて』)
本に関しては、「飢えて死ぬ子供の前で『嘔吐』(サルトルの作品)は無力である」(サルトル)との発言について、大江健三郎は「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か」と自問自答し、文学の可能性を語っている。
また、「人はパンのみにて生くる者にあらず」(新約聖書『マタイ伝』第四章)との言葉もある。
そんなことを考えながら、今日読もうと思っているのは、松たか子が2003年に出版したフォトエッセイ集『松のひとりごと』(朝日新聞社刊)だ。もう何度も読み返しているが、最近は松たか子の舞台やコンサートがないので、寂しさに耐えかねての松たか子だ。
落合恵子もサルトルも、大江健三郎も『マタイ伝』も関係ないような「本」を読む。申し訳ない。