菅か小沢か、民主党代表候補として政策を発表したが、違いは一言で言って現職と候補の違いだ。菅は自分が直面する課題に力点を置き、かたや小沢は地方分権、農業、環境、年金、高速道路、普天間、外交と09マニフェストの実行を軸にしている。
これに対して、マスコミは小沢の政策は財源の根拠がないと1年前にタイムスリップした論調を繰り返している。
財源不足は仕分けの限界で明らかというが、小沢の政策を見る限り、そうは受け取れない。子供手当てや戸別補償、高速道路の財源は一体どこからと指摘するが、仕分けがすべてかのような論調は短絡しすぎだ。見逃せないのはやはり、地方への一括交付金を基本に、政策の実施を地方が決める点だ。
大体、予算案そのものがいつまでも霞ヶ関の画一政策によることが問題であり、仕分けがどうのこうのではない。はっきり言って、仕分けをしているうちは、霞ヶ関がそのままということであり、財源捻出に限界があるのは当然である。これを分権により、地方の裁量に任せると、一変するのは火を見るより明らかではなか。
言い換えれば政治システムを変え無い限り、財源は生まれないということだ。その意味では、小沢の主張はある程度理解でき、マスコミの論調は鵜呑みにできない。
また、相変わらずスネに傷あるものが首相になるのは問題だという声が多いが、はっきり言って、きわめて馬鹿馬鹿しい。程度の差こそあれ、スネに傷のない政治家などいるものか。菅がクリーンの代表のごとく言う輩がいるが、どこがと言いたい。
何より、そういうきれいごとを言っている場合ではないだろう。小沢が人殺しだというならいざしらず、今は検察審査会という存在自体があやしい機関に起訴の可能性を握られているというだけである。仮に起訴されたからといって、罪人になるわけではない。無罪になる可能性は極めて高いのだ。はっきり言って、小沢のスネにある傷などかすり傷である。極論を言えば、バリバリの前科モノでないかぎり、能力があれば首相になったていい。
だからといって、小沢が首相に相応しいと言いたいわけではない。あくまでも、世間が重大問題のようにいう政治とカネというスネの傷は小沢を否定するほどの問題ではないと言いたいだけだ。
肝心なのは政策の中身とリーダーとしての実行力だ。
その意味では、菅ではアカンということだ。
これに対して、マスコミは小沢の政策は財源の根拠がないと1年前にタイムスリップした論調を繰り返している。
財源不足は仕分けの限界で明らかというが、小沢の政策を見る限り、そうは受け取れない。子供手当てや戸別補償、高速道路の財源は一体どこからと指摘するが、仕分けがすべてかのような論調は短絡しすぎだ。見逃せないのはやはり、地方への一括交付金を基本に、政策の実施を地方が決める点だ。
大体、予算案そのものがいつまでも霞ヶ関の画一政策によることが問題であり、仕分けがどうのこうのではない。はっきり言って、仕分けをしているうちは、霞ヶ関がそのままということであり、財源捻出に限界があるのは当然である。これを分権により、地方の裁量に任せると、一変するのは火を見るより明らかではなか。
言い換えれば政治システムを変え無い限り、財源は生まれないということだ。その意味では、小沢の主張はある程度理解でき、マスコミの論調は鵜呑みにできない。
また、相変わらずスネに傷あるものが首相になるのは問題だという声が多いが、はっきり言って、きわめて馬鹿馬鹿しい。程度の差こそあれ、スネに傷のない政治家などいるものか。菅がクリーンの代表のごとく言う輩がいるが、どこがと言いたい。
何より、そういうきれいごとを言っている場合ではないだろう。小沢が人殺しだというならいざしらず、今は検察審査会という存在自体があやしい機関に起訴の可能性を握られているというだけである。仮に起訴されたからといって、罪人になるわけではない。無罪になる可能性は極めて高いのだ。はっきり言って、小沢のスネにある傷などかすり傷である。極論を言えば、バリバリの前科モノでないかぎり、能力があれば首相になったていい。
だからといって、小沢が首相に相応しいと言いたいわけではない。あくまでも、世間が重大問題のようにいう政治とカネというスネの傷は小沢を否定するほどの問題ではないと言いたいだけだ。
肝心なのは政策の中身とリーダーとしての実行力だ。
その意味では、菅ではアカンということだ。