21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

裁判員制度の行く末は人民裁判?

2010-11-18 10:19:28 | 政治にモノ申す
 裁判員による初の死刑判決の議論をはたで見ていて、なんだかとても不安になった。

 本当にこの国に裁判員制度は必要なのだろうか、と改めて考えさせられる。

 裁判員制度がなぜ導入されたのか、それは、なんだかんだ言っても、専門家の判断に世論(あやしいが)が納得しなくなったからではないのか。

 市民の感覚だかなんだか知らないが、そもそも人間社会に絶対などないし、またあってはならないと思う。そのために一定の秩序を何とか保つために法律があり、その下でさまざまな役割を果たす専門家が存在する。

 審判を下す裁判官、裁判に送り込む検察官、危ない連中をとりしまりとっ捕まえる警察官。かれらの仕事は法律という人間が決めた決まりごとにそって社会の秩序を保つために存在している。

 そこに、なぜ一般市民が介入しなければならないのか。それは、専門家が責任の一端を市民に押し付けることであると同時に、そのことによって緊張感が薄れ、どんどんモラルが低下し、やがて社会全体の崩壊につながるのではないのか。

 もし、裁判官の判断に納得できないなら、納得できるまで、裁判官に努力を求めるべきで、安易に素人が手を突っ込むべきではない。

 大体、世の中に絶対などないのだから、絶対を求める方がどうかしている。

 たとえば死刑。判決を下す裁判官だって、心中は尋常でないはずだ。悩んで葛藤して、その中で結論を導き出すと信じたい。その判断をわれわれは信頼するか否かがすべてではないのか。残念ながら、信頼しなくなってしまった。それが、裁判員制度の実態ではないのか。

 きれいごとかもしれないが、私は人の罪を裁くかれらは人として悩みぬいて日々審判を下していると信じたい。コーヒーなんか飲みながら、夕べの合コンを思い出し、にやにやしながら、ただ判例に則って回答を探し、ぺたぺた判子ついているなんてことはないと信じたい。

 検察審査会にも同じことが言える。

 何だか、最近の司法のあり方を見ていると、日本という国が人民裁判に向かって歩き始めた気がしてならない。
コメント
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