一連の旧統一教会報道に、ずっと違和感を感じていた。恐喝まがいの高額グッズ販売による高額献金が社会問題化したかつての統一教会問題が沈静化してから、四半世紀後、信者家族による安倍元首相の襲撃という思わぬ形で再び世間に正体を現した。
安倍氏との統一教会との関りは曖昧のまま、政府は国葬という力業で安倍氏本人と教会の問題を切り離し、教会問題は政治家との関係、今も継続している多額の献金問題、そして宗教団体解体問題という3点で動いている。
違和感の正体は、過去にあれほど糾弾された団体が、四半世紀の間、勢力を堅持し続けたという現実を検証するどころか、安倍暗殺との関係を信者家族の逆恨みと結論付け、現在の教会活動をかつての騒ぎと同レベルで問題化している点にほかならない。
もし、安倍氏が襲撃されなければ再び統一教会が世間にあぶりだされることはなかったはずで、政治家との関係も問題になることもなかった。裏を返せば、ほとぼりが冷めてから四半世紀もの間、統一教会は生きながらえてきたわけで、その悪しき実態が再び世間にさらすことになったことに、はからずも安倍氏襲撃は貢献したことになる。一国の元最高権力者の惨死が、ふたを開けてみたら、世間が忘れていた統一教会への恨みであり、事件の結末が統一教会糾弾第二章という、なんと形容してよいものか理解に苦しむ。不謹慎のそしりはまぬがれないが、暗殺事件としてはまりにもお粗末でインパクトがない。
このままいけば、いずれスケープゴートにされた政治家が去るだけで、教団を解散に追い込むこともままならず、岸田内閣の解散の方が早いかもしれない。結局。かつての糾弾同様、第二章もしまらない結果となり、再び世間の記憶から消えるのが落ちだろう。そして、統一教会には、世界平和連合の名の通り、平和な日常が戻ってくる。
安倍氏はなぜ殺されなければならなかったのか。本当に逆恨みで片づけていいのか。統一教会の真の目的である反コミュニティーという精神を思うと、改憲論者トップの暗殺は結構な痛手であったはずだ。家庭崩壊の恨みを、安倍氏にぶつけた暗殺者の行為は、実は本人の意思以上に教団にダメージ与えた一撃だったという見方もできる。
なぜ自民党の政治家が教会から狙われるのか、メディアはなぜそこを避けて通ろうとするのか。一部宗教団体は政治の隠れ蓑であることは、公明党と創価学会によってすでに証明されている。しかも、それは国内にとどまらず世界平和の美名のもとに、地球上に浸食している。統一教会は全く同類であり、本来の目標が、悪徳商法問題にすり替えられているだけなのだ。今、日本で騒がれている糾弾はクソだということだ。