21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

スーちゃんが逝った

2011-04-22 09:10:06 | 雑記帳
 スーちゃんが逝った。乳がんからのがん再発だったそうだ。同時代を過ごしてきたかつてのアイドルの死は、衝撃ですらある。

 私はキャンディーズの大ファンだった。NHKの歌謡番組でアシスタントをしていたときから78年4月29日の後楽園まで、ずっと見続けてきた。ちなみにランちゃんのファンではあったのだが。

 キャンディーズの魅力は歌ももさることながらコントもできるところであった。SMAPに相通じるところがある。当時のアイドルは、歌専門でコントで注目されたのはキャンディーズくらいだったと思う。さきがけはシャボン玉ホリデーのザ・ピーナッツだが、それを受け継いだのがキャンディーズだったといっていい。ドリフの全員集合に始まり、小松の親分、ベンジャミン伊東と絡み続け、笑いに対するセンスの良さをいかんなく発揮してきた。そんな、キャンディーズをずっと見続けたのだから、なかなかのものだ。しかし、大好きではあったが大声でコールする入れ込み方はしなかった。ファンクラブに入る勇気もなく、コンサートに行く勇気もなく、斜に構えてTVの中の三人をひたすらた楽しんでいた。

 とりわけ、解散の日は、今でもはっきりと覚えている。大学が後楽園の側だったこともあり、一応現場に駆けつけた。チケットは当然持っておらず、後楽園球場の外でああ始まったんだなと一人ごちているとダフ屋のおっちゃんが寄ってきて、「チケットあるよ。いい席だよ、18,000円でいいよ」と言う。正直、めちゃくちゃどうするか悩んだ。なぜか金は持っていた。でも、あの中に飛び込んでいく勇気がなかった。最後なんだぞ!と自問自答したが、結局、思いとどまった。

 そのまま、電車に乗り、阿佐ヶ谷の友人のアパートに行って、麻雀が始まった。TVでは巨人大洋戦を中継していた。横浜球場のこけら落としで、HR第一号を駒田が打ったという記憶がある。
 夜も更け、オールナイトニッポンが始まった。キャンディーズファイナルの録音を流すのだ。そのうち誰かが、ニッポン放送にキャンディーズ来るかもよと言った。電車に飛び乗ったか、タクシーに乗ったか忘れたが、気付いたら友人とニッポン放送の前にいた。アホなファンが数十人玄関前でたむろしていた。携帯していたラジオを聞いているうちにだんだん熱が冷め、俺ら何でこんなことしてるんだろうとなって、そのままタクシーで阿佐ヶ谷まで帰った。それまで斜に構えたファンの心まで乱したのだから、解散するとわかっていてもその日はショックだったのだ。

 あれから33年、スーちゃんが死んだ。いい女優だった。「ちゅらさん」はもうこれでやらないのだなと思った。

 今日は夕方から乳がん術後ケア用品(パッドなど)の会社の企画打ち合わせがある。スーちゃんは乳がんだったのだと思うと単なる偶然だろうが、とても特別な一日のような気がする。

 ご冥福を祈ります。

 合掌

 
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福島の悲劇が問うもの

2011-04-21 06:33:35 | 政治にモノ申す
 原発に代わるクリーンエネルギーはあるのか?という意見をいただいた。自然エネルギーで必要な電力は到底賄えない、現実を直視せよということだろう。

 たぶん今までわれわれはそうして原発を肯定してきたのだ。しかし、今、福島で起こっている悲劇を偶発的な事故として片づけていいのだろうか。原発は核であるという危険性を真剣に受け止めなければならないのではないか。

 日本の非核三原則はいわば核廃絶宣言である。もちろん、ここでいう核は兵器を指すもので、原発は範疇にない。しかし、現実には原発も兵器も元は同じではないのか。リスクを考えれば、地震国においてはむしろ抑止力として核兵器を保有するより、ターゲットとなる原発が各地に点在する方が高いとさえ思える。核兵器はボタンを押すか押さないかだが、原発は自然災害、故障による事故のみならず、ミサイルの攻撃ターゲットととなりうるのだ。つまり、存在そのものが人類の危機といえるのだ。そう考えると原発も核廃絶の範疇に入れても決しておかしくはない。

 原発を廃止するにはものすごい時間がかかる。さらに、後始末は容易ではない。事実、核廃棄物の処理すらあいまいなままである。

 福島の悲劇はわれわれに問いかけている。今、代替エネルギーが追いつかないから仕方ないとなしくずしに原発を稼働し続けることが果たしていいのだろうか。むしろ、今決断しなければ、永遠に核のリスクを持ち続け、いつか再び悲劇は繰り返される。

 原発のリスクを抱えて今のライフスタイルを続けるか、自然エネルギーへの転換をめざし省電力のライフスタイルを模索するか、その議論と判断が国民に求められている。


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原発をなくす決断は今だろう!

2011-04-20 08:37:40 | 政治にモノ申す
 東海村で原発がスタートした頃は、原発は安全な施設だなどと誰も信用していなかったと思う。その後、チェルノブイリ、スリーマイルと立て続けに起きた原発事故に、あらためて原発の危険を思い知らされた。にもかかわらず原発計画は進んだ。脱石油、二酸化炭素抑制という資源と環境保護意識に後押しされ、原発に対する不安を見て見ぬふりしてきたのではないのだろうか。私もその一人である。

 今回の福島事故はあいまいな安全神話をいとも簡単にぶち壊した。核の怖さを思い知らされた。そうなのである、存在そのものが脅威だったのだ。想定を超える自然災害などと悠長なことを言っている場合ではないのだ。

 いつ暴走するかもわからない危険と真正面から向き合う時だと思うのだが、永田町から脱原発の声は聞こえてこない。原発をなくすには、何十年という時間がかかるわけで、今方向を決めないということは、このままなしくずしに原発に頼り続けることにほかならない。これでいいのだろうか。
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復興増税より公務員の給与回せ

2011-04-19 06:48:21 | 政治にモノ申す
 震災復興の財源捻出を増税と国債に頼る政治に脱力感を覚える。あんたらそれしか考えられないのか。

 国会議員の歳費と公設秘書の給与、被災地以外の地方・国家公務員の給与の10~20%を一定期間復興財源に回すと年間一体いくらになるのか試算してほしいものだ。

 とにかく、そのくらいのことはやってしかるべきだろう。そのための公務員ではないか。

 
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分権に逆行する政府復興案

2011-04-17 07:54:48 | 政治にモノ申す
 東日本大震災で壊滅した地域の復興構想を政権主導で行うのは、地方分権の動きに逆行しているのではないか。金も知恵も出すが、地方主体で街の復興を考えるのが望ましいと思うのだが、何故かそうはならない。

 地方の事情なり文化なりを鑑みることなく、中央政府が机上の理想論を押し付けるのは政権アピールでしかない。

 東北を食料基地にという理想は誤りではないが、そこに住む人間の知恵や理想によって構築されるべきで、これでどうかというやり方は、政府主導で始まり破たんした北海道のパイロットファームに通じるものがある。

 菅政権は震災に際し、会議をばんばん作るが、どれもこれも即効性を欠く。無用の長物に金と時間をかけ、被災地の復旧、復興がどんどん遅れている。今回、菅政権が企む食料基地構想にしたとて、どれだけの金と予算と時間がかかるのか。地方の意見を聞くといっても、所詮は政府の押し付けであり、分権思想に程遠いカタチである。永田町がいくら地方分権を声高に叫んだところで、地方の底力が試される復興が中央の押し付けでは、分権の流れを止めるだけではないのか。それだけ、分権を真剣に考えていないということなのだろう。
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