読書 までとは言えないかもしれませんが、福岡への往復の新幹線で 元一水会 鈴木邦男さんの
「愛国心」に気をつけろ を読みました。
改憲派の鈴木さんは早稲田大学へ入学し、「生長の家」学生道場で暮らし始めた頃からその活動を続けてこられたそうです。
鈴木さんはこう書いています。
「人間がいて、その人間が幸せに暮らすための知恵を働かせて国家を作ったのだ。逆ではない。ところが、国家が成立すると、国家を強くしようとする。そして、長い歴史を持った国家は美しい神話などで、自国を美しく物語ろうとする。時として、それは、自国だけが尊い、自国だけが神の作った国だ、などと思い込むことに繋がる。さらには、国民は国家のためにある、との考えにもなる。
憲法の場合も同じだ。人間が幸せに暮らせるように、憲法を作った。人間あってこその憲法なのだ。別の見方をすれば、いくら立派な憲法があっても、それでよいということにはならない。「平和憲法」さえ変えさせずに守って位いれば、戦争は起きないということにはならない。人間が「平和憲法」を実行させるために、闘い続けなければならない。「平和憲法さえあれば」という発想は、改憲派の「憲法さえ変えれば、日本は良くなる」という発想と、根本のところで同じだ。人間があって憲法がある以上、人間の不断の努力が求められてもいるのだろう。実際、憲法第12条にはこうある。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
結びの文は
「憲法改正、自主憲法は三島(由紀夫)の悲願だった。でも同じ言葉を使いながら、全く別の方向に行こうとしている。現在の政権が主張するような「自主憲法」ができたら、国家が国民に対して上から押し付ける憲法になる。「自主憲法」という「名前」が大切なのか、それとも憲法の中身が大切なのか。僕は後者を選びたい。だから、いう。『愛国心』を汚れた義務にしてはならない、と。」
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