年金者組合所沢支部のうたごえサークルの練習日でした。
次回の所沢うたごえ合唱交流会の発表候補曲のひとつとしてこの曲の練習をすることになりました。
NHKの連ドラの主題歌だったそうです。
混声3部で歌います。
こんな曲です。良かったら聴いてください。
【合唱曲】いのちの歌 / 歌詞付き【149/200】
年金者組合所沢支部のうたごえサークルの練習日でした。
次回の所沢うたごえ合唱交流会の発表候補曲のひとつとしてこの曲の練習をすることになりました。
NHKの連ドラの主題歌だったそうです。
混声3部で歌います。
こんな曲です。良かったら聴いてください。
【合唱曲】いのちの歌 / 歌詞付き【149/200】
お花見をしようと思い、山梨県甲府市に行きました。
2年前、連れ合いと行った甲府市貢川河畔の桜があまりに素晴らしかったので、もう一度見たいと思ったからです。
2年前の写真です。
満開の桜の後ろには南アルプスの山が控えていました。
呼吸器疾患の連れ合いは事前に旅行届が必要です。主治医の旅行の許可をもらい、ホテルも予約したので予定通り行きました。
開花直前に低温が続き桜が咲いていないことは承知していました。しかし、主治医も許可、ホテルの予約もしませたので予定通り出かけました。
今回の写真です。
同じ「芸術の小径」を歩きましたが、咲いた桜を見ることはできませんでした。
これが自然の摂理です。
その分、新しい発見もいくつもありました。楽しかったです。
11月から呼吸器疾患の連れ合いが使う酸素機器が、液体酸素から酸素濃縮器に変わりました。
その機器の取り扱いの練習を兼ねて千葉県銚子市に一泊旅行に行きました。
車の運転は長男です。
酸素濃縮器の系田尾陽を車に積みました。電源は車のシガーの電源でバッテリーを充電するので、エンジンをかけてさえいればエンドレスです。
液体酸素と違い残量を心配する必要がありません。
宿泊先のホテルには酸素濃縮器の親機を酸素業者の方に届けておいてもらいました。
睡眠時などはこれを使います。
これと、酸素ボンベの3種類を使い、トラブルもなく行ってきました。
今回一番印象に残ったのは、旭市の飯岡刑部岬の展望台でした。
九十九里海岸が見渡せ、景色も縛らしかったです。
しかし、展望室には東日本大震災の津波の写真が「分」刻みで時系列で展示してありました。
第1波から第3波ですが、第3波が一番ひどく、大被害を出したそうです。
その展示の隣では、3人のスタッフが「移住」の相談にのっていました。
私がいた時間帯には、相談者は誰もいませんでした。
大津波の後、住むことを諦め転出する人が増えたそうです。
人口減に何とか歯止めをかけようと市のスタッフなど3人が相談会を開いていました。
厳しい地方の現状を垣間見て淋しい気持ちになりました。
日中友好協会所沢支部の満蒙開拓平和記念館を訪ねる旅、高齢者ばかりでしたで見学後は昼神温泉に泊まり、交流を深めました。
翌日、長岳寺を参拝しました。残留孤児探しや遺骨収集に生涯をささげた山本慈昭さんが住職をしていたお寺です。
天台宗の古刹ですが、いかにもひっそりと建っていると言う感じでした。
狭い境内の片隅に記念碑がありました。
碑文を読むにつけ、満州で亡くなられたり、取り残された方々の悲しさが伝わってきました。
映画にもなった「望郷の鐘」の鐘楼もありました。
私も「望郷の鐘」をつき、犠牲になられた方々のご冥福を祈りました。
満蒙開拓団の悲劇は戦争の悲惨さを凝縮していると思います。運よく帰国した開拓団の方々は戦後、浅間高原、那須高原など想像を絶する苦労の中で開墾地を切り開きました。その労苦は今でも引き続いていると思います。
「不戦の誓い」を今こそ世界に発信してゆくのが、私たちの責務だ と思いました。
♫♫♫♫
ウィキペディア(Wikipedia)の長命寺の項からの抜粋です。
昭和12年(1937年)山本慈昭、長岳寺の住職となり、国民学校の教師も兼務した。昭和20年(1945年)教師として妻と二人の娘を伴い、満蒙開拓団に加わり、敗戦逃亡生活、シベリア抑留を経て、昭和22年(1947年)帰国、逃亡時の混乱で離れた、妻と娘二人の安否を確認するが、死亡したとの報告を受ける。昭和39年(1964年)中国へ遺骨を拾いに行くも認められず。中国残留孤児より日本の家族を探してほしいとの手紙を受け取り、孤児と日本の家族を引き合わせようと心に決めて行動する。昭和45年(1969年)長女の生存も確認、昭和57年(1982年)再会する。
日中友好協会所沢支部の仲間と長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館に見学に行きました。
昨日の午前8時に所沢を車で出発し、記念館に着いたのは午後2時でした。
記念館が閑散としているのではないか? と心配しましたが、大型バスが4台も来ていました。
私たちは団体客に行うボランティアガイドについて行き、運よく最初から解説を聞くことが出来ました。
前回訪れた時にはなかった立派な「セミナールーム」もありました。
ここでは、長野県茅野市民生委員、児童委員の研修団体と一緒に、満蒙開拓団のそもそものことから、小学校・中学校の生徒から寄せられた質問や意見を聞くことが出来ました。「満蒙開拓団は 行った人の責任か 国策を進めた国の責任か」など難しい質問もあったようです。
加害・被害そして残留孤児などに対する中国のひと達の人道的な支援 など考えさせられることばかりでした。
2時間、じっくり勉強した後との記念写真です。
「平和友好」の碑文の下には、「前事不忘後事之師」とありました。
♫♫♫♫♫ 【前事を忘れざるは、後事の師なり】と言いまして、以前に起こったことや行なったことを忘れなければ、これからの参考になるし、手本にもなり得る。♫♫♫♫♫
今、先の戦争中の日本が行ってきた蛮行を反省し、今後の平和外交に生かす ことこそが求められて思います。自公政権は、それを顧みようとせず、仮想敵国をつくり、再び戦争する国にしようとしています。
「前事不忘後事之師」の意味を改めて勉強した記念館でした。