27日(金).今日はウォルフガング・アマデウス・モーツアルトの256回目の誕生日です 彼は1756年1月27日に現在のオーストリアのザルツブルクで生まれ,1791年12月5日にウィーンで亡くなりました.たったの35年2ヶ月の人生でした
エドゥイン・フィッシャーというピアニストが「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)という本を書いています この本は小林秀雄の「モォツアルト」とともに私のモーツアルトに関するバイブルのような存在です.何回も読み直しました
フィッシャーは1886年10月6日にスイスのバーゼルで生まれ、その後ベルリンに移り1960年1月24日に死去しました.
「音楽を愛する友へ」の「ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルト」の項の出だしでフィッシャーは次のように書いています
「誰かに対して,なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも,わたくしは,ピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を1曲演奏するのがつねである それに,いま,モーツァルトについて何か書けという注文なのだ.まるで,わたくしの大好きな人に向かって,その人へのわたくしの愛情の種類や性質について演説をしなければならなくなった時のような気持ちである
そっとその人の手を取り,あのすばらしい神の世界へーー大自然が幾千の神秘な言葉でわれわれに囁きかけ,とうてい言葉では言いあらわせないものを,わたくしたちが黙って心で感じとるあの神の世界へーー入って行きたいのに.そうだ,「こころで感じとる」・・・・これこそモーツァルトの音楽世界の核心に通ずるかくれた扉をひらく合言葉だ
だが,「感じとる」こと,つまり体験というものは,一朝一夕にして成熟するものではない.だからわれわれは,われわれの誰でもがよく似た過程を繰りかえすところのある種の成長の終結点に到達して,ようやくモーツァルトを真に理解しうるに至るのである
」
そして,中国の老子の言葉を引いて次のように続けています
「モーツアルトの音楽においては、内容、形式、表現、ファンタジー、器楽的効果など、いっさいがごく単純な手法によって達成されていることに気づくのである この日が訪れるとき、君はあらゆる模索、あらゆる欲求から完全に救われるのだ。ここには、老子の言葉の意味で、真に超克をなし遂げたなんびとかが立っているのである
老子はこう言っている.
欲せんとすることなくして欲し、
為さんとすることなくして為し、
感ぜむとすることなくして感じ、
小を大とし、
少なきを多しとし、
悪しきを善しとす。
是を以て聖人は終に大を為さず、
故に能く其の大を成す。」
フィッシャーは,いかに少ない音符でできたモーツァルトの音楽が,いかに深く大きな感動を与えてくれるのかについて語っています 同時に,モーツァルトの音楽を演奏するに際しては”小細工は通用しない”ということも語っているように思います
私は何度このフレーズを読み返してきたかわかりません
フィッシャーは,1933年から36年にかけてバッハの「平均率クラヴィーア曲集」を世界で初めて録音しました.また,モーツアルト,ベートーヴェン,シューベルト,ブラームスなどのドイツ古典派音楽を得意としていました 彼はまた,協奏曲の演奏で,独奏を兼ねて指揮をする「弾き振り」を復活したといわれています
いま,彼がウィーンフィルを”弾き振り”したモーツアルトのピアノ協奏曲第22番K.482と第25番K.503のカップリングCD(1946年8月7日のザルツブルク音楽祭ライブ録音)を聴いています.録音状態が非常に悪く,はるか彼方からピアノの音が立ち上がってくるのですが,いかにも”古き良き時代の演奏”が聴こえてきます 非常にていねいに弾いているのがうかがえます.モーツアルトへの敬意と愛情に溢れた演奏です