24日(火)。わが家に来てから今日で2002日目を迎え、東京都は23日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて始めた都主催の大規模イベントの延期・中止を4月12日まで続ける方針を発表した というニュースを見て感想べるモコタロです
4月3日の東京都交響楽団の新シーズン第1回定期演奏会はどうなるんだろうか?
昨日、夕食に「トマトと豚肉の重ね蒸し」を作りました 久しぶりに作りましたが、白ワインが効いて美味しく出来ました
昨日は12時15分から晴海の第一生命ホールの ロビーで「アウトリーチセミナー講師と受講生による『ロビーコンサート』」(入場無料)を聴く予定でしたが、急きょ中止になってしまいました プログラムは①ベートーヴェン「弦楽四重奏曲 第4番」、②シュナイダー「弦楽四重奏曲 第3番』、③メンデルスゾーン「弦楽八重奏曲」で、講師=松原勝也、セミナー受講生=山本有莉(ヴァイオリン)、大森悠貴(ヴィオラ)、福崎茉莉子(チェロ)、ゲスト/セミナー修了生=吉野駿、松谷萌江(ヴァイオリン)、鶴友見(ヴィオラ)、梶原葉子(チェロ)の皆さんが演奏する予定でした
聴く側のわれわれはもちろんのこと、演奏する予定だったセミナー受講生の皆さんは せっかくの練習の成果を発表する機会を逸してしまい、さぞかし残念な思いをしたものと察します
これにめげず頑張ってほしいと思います
実は、前日に第一生命ホールのホームページで「実施の予定」となっているのをチェックしていたので、まさか中止になるとは思ってもみず、晴海のトリトンスクエアまで行って、喫茶店で念のためスマホでチェックしたら「中止」になっていたのです 「実施」がいつ「中止」になったのか不明ですが、入場無料なので文句のつけようがありません
しかし、こんなことでめげていては今の世の中 生きていけません
急きょBプラン(別計画)に移ることにしました
今週観る予定の映画が何本かあるので、その中から開演時間がちょうど良い映画を選ぶことにしました
その結果、TOHOシネマズ新宿で上映中の「三島由紀夫 VS 東大全共闘 50年目の真実」を観ることにし、地下鉄大江戸線で新宿に向かいました
TOHOシネマズ新宿の「スクリーン5」の後方の席に着いて場内を眺めると、いわゆる”全共闘世代”と呼ばれる人たちを中心に若い人もちらほら見られ、月曜日にしては結構な観衆が入っています
豊島圭介監督による映画「三島由紀夫 VS 東大全共闘 50年目の真実」(2020年:108分)は、今から51年前の1969年5月13日に東大駒場キャンパス(目黒区)の900番教室で行われた、作家・三島由紀夫と東大全学生共闘会議(全共闘)との討論会の模様を記録したドキュメンタリーです 長らくTBSに保存されていた当時の記録映像(75分の16ミリフィルム)をもとに、関係者への取材映像を交えながら構成したものです
この討論会が開かれたのは、東大の学生たちが立て籠もった「安田講堂事件」から約4カ月後にあたります
三島は黒いポロシャツ姿で壇上に立ち、思想信条が正反対の1000人もの学生たちを相手に討論に臨みます 学生たちは「三島を論破して立ち往生させ、舞台の上で切腹させる」と盛り上がっています
そんな中、三島は警察が申し出た警護を断り敵地に乗り込んだのでした
最初に発する三島の言葉が印象的です。「言葉というものが、ここで何ものかの有効性があるかもしれない」。そして、「自分は非合法の暴力を否定しないが、その点においては学生たちと同じだ」と述べ、「いつか 非合法で暴力を振るわなければならない時がきたら、それは社会的には許されないことだから、あとは 自決するしかないと考えている」と意味深長な発言をしています
そして、「全共闘の諸君が知性主義に刃向かっていることは高く評価する」と語ります
天皇主義者の三島を吊るし上げようと意図していた全共闘のメンバーは、落ち着いてユーモアさえ漂う三島の話術に飲み込まれているようにさえ思えます
そんな中で、三島と互角の論戦を張っていたのは、東大全共闘随一の論客と言われた芥正彦(あくたまさひこ)氏です
赤ん坊を抱きながら自己の論理をぶつけ、三島の論理に反論します。その姿は微笑ましいと同時に鋭いなあ、と思わせます
二人は 最後にはタバコの火を交換したりして、まるで同志のような様子を見せたりします。右翼も左翼もない同じ次元に身を置いているように見えます
この映画の良い所は、政治的 あるいは哲学・思想的な難解な言葉のやり取りが為されるところで、内田樹氏、平野啓一郎氏らの解説を挟むことによって、観衆が理解し易いように工夫していることです 一例を挙げれば、三島が「自分は非合法の暴力を否定しないが、その点においては学生たちと同じだ」と述べている点について、識者(内田樹だったか?)が「三島は右翼の自身と左翼の全学連とは『反米愛国という点で一致している』と認識していた」とコメントしていましたが、今さらながら なるほどと思いました
この映画を観終わって、あらためて感じるのは、三島由紀夫という人は誠実な紳士だということです 相手が学生であってもリスペクトしながら自己を主張していきます。挑発にはユーモアで応えます
彼は最後に「諸君の熱情は信じます。ほかのことはともかく、熱情だけは信じます」と言い残して会場を去っていきます
この討論会の約1年半後の1970年11月25日、三島は自身が組織した「楯の会」のメンバーと共に新宿区の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に赴いて、総監を拘束し 憲法改正のための自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後、割腹自殺します 討論会での三島の発言を思い起こすと、すでにあの時、この日が来ることを覚悟していたのではないかと思います
自分自身を振り返ってみれば、この討論会があった時は高校生で、校内で反戦ビラを配って生徒指導の教諭に捕まった頃で、三島の割腹事件があったのは大学に入ったばかりの頃でした 茨城出身のO君に誘われて、興味本位で新宿西口公園で開かれていた革マル派の集会を”見学”に行って怖い思いをしたのもあの頃でした
討論会から50年後、前出の芥正彦氏は当時を振り返って、カメラに向かって言います
「言葉に力があった最後の時代だ」
彼の言わんとすることはよく分かります しかし 突き詰めて考えると、「音楽の力」という言葉について坂本龍一氏が「音楽には力がない」と喝破したように、「言葉には力がない」のではないか
つまり「言葉(そのもの)には力はなく、それを操る人によってその重みが異なる」ということではないか
言葉を使う人が信頼に値するかどうかで、その言葉の価値が変わってくるのではないか
閣僚が不祥事を起こすたびに安倍首相が言っていた「任命責任は私にあります」という言葉を思い浮かべます 事あるごとに そう言いながら、一度でも責任を取ったことがあるのか
われわれは いま「言葉に力がない時代」に生きているのだろうか