人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

東響11月定期演奏会 ⇒ 指揮者は広上淳一氏に、ブルックナー「第6番」はベートーヴェン「第4番」に変更 / 寺山修司監督「草迷宮」&「さらば箱舟」を観る

2020年11月05日 07時20分35秒 | 日記

5日(木)。東京交響楽団から「11月15日開催 第686回定期演奏会の指揮者・曲目変更のお知らせ」が届きました それによると、①当日予定していた指揮者ジョナサン・ノットはコロナ禍の影響で来日出来なくなり、代わりに広上淳一が指揮をとる、②それに伴い曲目の一部を変更するーというものです

プログラムは次のように変更になります

①矢代秋雄「ピアノ協奏曲」 ⇒ そのまま(ピアノ独奏=小菅優で変更なし)

②ブルックナー「交響曲第6番」 ⇒ ②ベートーヴェン:序曲ハ長調「命名祝日」作品115、③同「交響曲第4番作品60」

予想はしていたものの、非常に残念です 何のために定期会員になったのか、と言いたくなります しかし、相手がコロナでは怒りの持っていきようがありません ヨーロッパ諸国のコロナ感染拡大状況をみると、今年度は海外在住の指揮者やソリストの来日は望めそうもありません これは東響だけの問題ではなく国内オーケストラ全体に共通する悩みです でも、ウィーン・フィルは来日して、今日から14日まで北九州、大阪、川崎、東京でコンサートを挙行しますね この違いはどこにあるのでしょうか

ということで、わが家に来てから今日で2226日目を迎え、3日に投票が行われた米大統領選で、同日夕までに目立った抗議デモなどは起きていないが、都市部では暴動に備えて店舗の営業を休止したり、ガラス窓を板で覆ったりするケースが目立った  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     これが現在の米国の民主主義の実態だ  何があっても米国民に責任をとってもらう

 

         

 

昨日、久しぶりに「野菜と挽肉のドライカレー」を作りました COOKPADのレシピですが、何回食べても飽きません

 

     

 

         

 

昨日、新文芸坐で寺山修司監督による「草迷宮」と「さらば箱舟」の2本立てを観ました

 

     

 

「草迷宮」は寺山修司監督による1978年製作映画(40分)です

あきら(少年・三上博史)は、死んだ母親の口ずさんでいた手毬唄の歌詞を探して旅をしている 彼は校長や僧を訪ねて唄を知らないかと聞き歩く あきらが旅の途中で思い出すのは死んだ母親(新高恵子)のことだった。彼が住んでいた裏の土蔵には千代女という淫乱狂女がいて、千代女に近づくと母親にひどく叱られた 人の話では千代女は父が手込めにした女中で、怒った母が十年も閉じ込めているという ある日、あきらは美しい手毬少女に出会うが、彼女を追いかけているうちに、ある屋敷の中に入り込む。その屋敷は妖怪たちがおり、大小の手毬が飛び交い、首だけの母親もいた そしていつしかあきらの葬儀に変わったが、それは夢だった あきら(青年・若松武)はまた旅を続ける

 

     

 

この映画は、泉鏡花原作の短編小説を基に寺山修司が監督した作品です

母親は千代女が近づかないようにと、あきらの顔や身体中に「てんてんてまり・・・」という呪文を墨で書き、木に縛り付けて買い物に出かけてしまいます また、最後の夢のシーンでは、あきらに「ほら、もう一度お前を産んであげたんだよ」と言って笑います。これらは、母親に対するあきらの恋慕の想いが強いことを逆説的に表しているのではないかと思います。夢と現実が入り混じった幻想的な映画でした

 

         

 

「さらば箱舟」は寺山修司監督による1982年製作映画(127分)です

老人と、少年・本家の時任大作が村中の柱時計を盗んで穴に埋めている 数年後、大作(原田芳雄)は本家の主人となっていた。ある日、いとこ同士である分家の捨吉(山崎努)とスエ(小川真由美)が結婚した。村には、近親血統の2人が交わると犬の顔をした子供が生まれるとして結婚を禁じるというタブーがあった タブーを犯そうとする娘のことを案じたスエの父親は、彼女に蟹の形をした貞操帯を付けて性生活ができないようにしてしまう 捨吉とスエは、何とかしてそれを外そうとするが外れない。夫婦生活が持てないことから、村では捨吉が不能だという噂が広まる 大作は捨吉に女中テマリ(高橋洋子)を抱くのを見せつけたりする。ある朝、皆の前で大作に不能と嘲り笑われた捨吉は、カッとなり彼を刺し殺してしまう 捨吉はスエを連れて村を逃げ出す。しかし、一晩中さ迷い歩いてようやく見つけた空家に泊まった翌朝、2人はそこが今まで住んでいたわが家であることに気が付く やがて捨吉は大作の亡霊を見るようになり、徐々に物の名前を忘れていく。彼に狂気の兆しが差してきたのだ 本家には 先代の双子の兄弟の娘だというツバナ(新高恵子)が、子供ダイを連れて住みつく ある日、村の空き地にある穴にダイが落ちてしまう ダイは穴から這いあがってきた時には大人になっていた 彼はテマリをおかす。スエが鋳掛屋から買った時計を見つけた村人たちは、「村に時計が2つあったらどちらが正しい時間か分からなくなる」と言い、時計を壊しにくる 捨吉は時計を守ろうとして頭を一撃されて死んでしまう その夜、スエの貞操帯が外れる。村に急激に文明の波が入り込んでくる。村を出て行く者が増え、ダイもテマリと一緒に隣町に移っていく。ある朝、2年前に本家のお金を盗んで逃げた 分家の米太郎が車に乗って戻ってくる。彼は本家の壁から大量の金貨を見つける   それを作男ズンムが、村中にふれまわるが、どの家も空家になっていた 誰もいなくなった村で、スエが花嫁衣裳を着て空き地の穴へ投身する。100年後、かつて空き地だったところに、鋳掛屋が三脚写真を組み立てている。穴はなくなっている。そして、現代の服装をした下男アダの呼びかけに皆が記念写真のために集まってくる

 

     

 

この映画は、架空の小さな村を舞台に、約一世紀にわたる一家の興亡を描いた叙事詩です

どうやら、この映画は「時計」つまり「時間」が大きな要素となっているようです 冒頭のシーンで、時任家の本家の跡取りになる少年が村中の柱時計を盗んでしまいますが、村人は生活に困ります 「おい、いま何時だ?」「分からないよ」「ちょっと、本家に行って時計を見てきてくれ」というのが日常会話になってしまいます つまり、村の中で時任家の本家だけが時間の管理ができることになります つまり、時任家の本家の時計だけが時間の流れの正しい基準となっているわけです。スエが鋳掛屋から柱時計を買うと、基準が2つになってしまうので、村人は困るので壊してしまうのです ダイが落ちて、這いあがって来た村の空き地にある「穴」はタイムトンネルに違いありません

捨吉は大作の亡霊を見るようになってから 徐々に物の名前を忘れていきますが、物の名前を忘れないように、全ての物に紙に名前を書いて貼り付けていきます。自分のことは「俺」と書き、妻のことを「スエ」と書くと、スエが「それだけ?」と訊くので、捨吉は「スエ 俺の妻」と書きます この辺のやり取りが可笑しい。寺山修司のユーモアを感じます

ラストで村人が皆、村を捨てて出て行ってしまうシーンは、地方の過疎化を表しています まるで、今まで乗っていた「箱舟」を乗り捨てて、新しい土地で新しい生活を営もうとしていることを暗示しているかのようです そういう時代背景が確かにありました。そうしたことを経て、今の日本があります

 

     

コメント
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