人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

新日本フィル「室内楽シリーズ4月・6月・7月公演」のチケットを取る / 第3回「哀しみのモーツアルト」公演のチケットを取る / 五木寛之著「大河の一滴」を読む

2020年11月23日 07時18分49秒 | 日記

23日(月・祝)。わが家に来てから今日で2244日目を迎え、トランプ米大統領は21日、オンライン方式で開催された20カ国・地域首脳会議(サミット)に出席し、米国は未曽有の経済回復を実現させたと説明する一方、新型コロナウイルスの新たな治療法やワクチンの開発を記録的な速さで実現させ、何百万人もの命を救うことになるだろうと強調したが、会議の冒頭、大統領選に関するツイートを盛んに発信したほか、会議が始まってから約2時間後には中座してワシントン近郊のゴルフ場に向かい、一部首脳らによる新型コロナ危機を巡る関連会合に欠席した  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     国民の審判に従って 素直に退陣すれば ゴルフ三昧の毎日が待っているんだけどな

 

         

 

新日本フィル「室内楽シリーズ~楽団員プロデューサー編」のうち2021年4月、6月、7月の3公演のチケットを取りました 会場は すみだトリフォニーホール(小ホール)、開演時間はいずれも19時15分ですが、19時からプレトークがあります

①4月14日(水)西江辰郎プロデュース編「同時代を生きた作曲家たち」 ①R.アーン「弦楽四重奏曲第2番ヘ長調」、②コダーイ「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」、③コルンゴルト「ピアノ五重奏曲」。

②6月23日(水)重松希巳江プロデュース編「ウィーンの森を一緒に散歩しませんか?」 ①クロンマー「クラリネット四重奏曲」、②シューベルト「八重奏曲」。

③7月  7日(水)藤井将矢プロデュース編「二面性を持つ楽器、コントラバス」 ①ボッテジー二「クラリネットとコントラバスのための協奏的大二重奏曲」、②同「ヴァイオリンとコントラバスのための協奏的大二重奏曲」、③ベートーヴェン「七重奏曲」。

 

         

 

12月3日(木)19時からサントリーホール「ブルーローズ」で開かれる第3回「哀しみのモーツアルト」のチケットを取りました かなり前に入手したチラシに「近日発売予定」と書いてあったのですが、いつの間にか忘れてしまい、出遅れてしまいました 後方の席しか残っていませんでしたが、モーツアルト好きとしては是非聴きたいコンサートなのでS席を押さえました

プログラムはモーツアルトの短調の作品を中心としたもので、「ピアノ協奏曲第24番ハ短調」「ピアノ・ソナタ第14番ハ短調」ほかが演奏されます

 

     

 

         

 

五木寛之著「大河の一滴」(幻冬舎文庫)を読み終わりました 五木寛之は1932年9月、福岡県生まれ。生後間もなく朝鮮に渡り47年に引き揚げる。52年に早稲田大学ロシア文学科入学、57年に中退後、PR誌編集者、作詞家、ルポライターを経て、66年「さらばモスクワ愚連隊」で第6回小説現代新人賞を、67年「蒼ざめた馬を見よ」で第56回直木賞、76年「青春の門 筑邦篇」ほかで第10回吉川英治文学賞を受賞 81年から一時休業し、京都の龍谷大学で仏教史を学び、85年から執筆を再開。代表作に「朱鷺の墓」「戒厳令の夜」「風の王国」」「蓮如」「大河の一滴」「百寺巡礼」などがあり、第1エッセイ集「風に吹かれて」は刊行35年を経て、現在総発行部数約450万部に達する 現在、直木賞、泉鏡花文学賞、吉川英治文学賞ほか多くの選考委員を務める

 

     

 

この本を読もうと思ったキッカケは、女優の黒木瞳さんが新聞の書評欄の特集「私の1冊」で挙げていたからです

この本は22年前の1998年に幻冬舎から刊行され、現在 320万部を超えるロングセラーになっています この本には、新たに書き下ろした「人はみな大河の一滴」とともに、「プレジデント」などの雑誌に寄せた文章やNHKラジオ「ラジオ深夜便」で語った内容など50数篇の文章が収録されています 著者は、

「『人はみな大河の一滴』それは小さな一滴の水にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだ」「私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還る。母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼっていく そしてふたたび地上へ。子どもの絵のような幼い比喩だが、私にはそれがたしかに目に見えるような気がするのである

と書きます そして、「人生は苦しみと絶望の連続である」「なにも期待しないという覚悟で生きる」「自分を憎む者は他人を憎む」など、人が生きていく上での人生訓が語られていきます

私が最も印象に残っているのは「かつて『体』と『心』は一致して人間をつくっていた」という話の中で紹介されている、ある医師から聞いたというエピソードです それはこんな内容です

「ある人の奧さんが進行性のガンで、医学的な常識では余命3か月という症状でやってきた 夫は遊び人で家族を顧みない男だった しかし、妻が深刻なガンであることを知り、これまでのぐうたらな生活を後悔し、妻の病状を心配するあまり、自分が妻よりも思いガンにかかっているのに気が付かなかった 医師は事実を伝えた方が良いと判断し、ガンであることを伝えた。夫は自分のことよりも、これから遺される妻子のことを心底悩み、それまでの罪滅ぼしの意味もあり、入院しなければならない体にも関わらず、未回収になっていた手形の決済のため必死の思いで全国を駆け回り始めた そうしているうちに、不思議なことに、それまでエコーにはっきり映っていた腫瘍が少しずつ小さくなり、影も薄くなってきた 一方、妻は 夫の病状を知り、家族のために体に鞭打って働きまわるのを見て、夫の身を案ずるあまり、全く自分の体の不調を訴えなくなった 2人ともガンが小さくなり2年経っても生存し続けた この話を聞いた時、どこかで読んだ文章の一節を思い出した。それは『病気を忘れるとき病気が治る』というものだ こうなると、『心』と『体』は深く関わり合い、人の『命』を支えている、あるいは形作っている、と言えるのではないか、と思う

このエピソードは、西洋医学では説明がつかない現象ですが、実際には起こるのでしょう 「病は気から」という言葉を思い浮かべますが、このケースは、自分のことよりも家族のことを思って行動したことが大きな要因になっています 人は何かに夢中になっていると、つらいことも悲しいことも忘れているものですが、それが身近な人の命に係わることであれば、奇跡を起こすことにもなるということでしょう

また、「寛容(トレランス)のすすめ」の中で、筆者は次のように書いています

「勉強の得意な子もいるし、苦手な子もいます。それを無理にでも勉強させなければ、この子は落伍するだろうと考える しかし案外、そんなものでもないのです。ちがう方向で思いがけない才能を発揮するかもしれない いずれにしろ、人間にできることには限界があります。ぼくはある程度あきらめるということも必要だと思います。『あきらめる』の語源は『あきらかにきわめる』ことです。物事を明らかにして、人間にはできないこと、どうしようもないこともあるのだと理性的に確認することです

しかし、寛容には忍耐が要りますね

なるほど と思ったのは「なにも期待しないという覚悟で生きる」という文章です

「なにも期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが、『干天の慈雨』として感じられるのだ そこにおのずと湧き上がってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えていく だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点にもどりつつ生きるしかない。だから夫は妻に期待すべきではない。妻も夫に期待すべきではない。愛情も家庭も、『老・病・死』するものである。自然に持続することを無意識に期待するのは、まちがっている

人は誰もが悩みや問題を抱えて生きているものです 「私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある。最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった」という体験の持ち主だからこそ、文章に説得力があります 生きていく上での様々なヒントを与えてくれる本です。お薦めします

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