文藝春秋 2020-04-14
警視庁捜査一課のエースとして、様々な重大事件を解決に導き、数々の警視総監賞を受賞した“伝説の刑事”と呼ばれる男がいる。
大峯泰廣、72歳――。
容疑者を自白に導く取り調べ術に長けた大峯は、数々の事件で特異な犯罪者たちと対峙してきた。「ロス事件(三浦和義事件)」「トリカブト保険金殺人事件」「宮崎勤事件」「地下鉄サリン事件」……。
老境に入りつつある伝説の刑事は今、自らが対峙した数々の事件、そして犯人たちに思いを馳せている。そして、これまで語ってこなかった事件の記憶をゆっくりと語り始めた。/構成・赤石晋一郎(ジャーナリスト)目次
午前6時半、東京・葛飾区の自宅を出ると、すでに夏の日差しが眩しかった。毎日の通勤に使っているのは、警視庁が用意した覆面パトカーだ。私は後部座席に身を沈めると、いつもの習慣で読売新聞に目を通した。2002年8月7日付の朝刊。もちろん、最初に読むのは三面記事だ。ある見出しに目が留まった。
〈マブチモーター社長宅事件 殺害直後に放火か〉
私は食い入るように活字を追った。
8月5日の夕方、千葉県松戸市の電気機器大手「マブチモーター」社長宅で火災が発生、焼け跡から2人の遺体が発見されていた。
千葉県警は司法解剖と現場検証の結果、この事件を「放火殺人」と断定したようだ。記事によると犯人は家人を絞殺直後に、油を撒いて火を放った可能性が高いという。残忍極まりない手口だ。
「居合わせた被害者を皆殺しにし、そのうえ放火までしたのは、証拠隠滅のためかもな。“練馬の事件”を思い出すな……」
私の頭をよぎったのは、ある痩せた男の顔だった。
「まさか、な……」
刑事の直感とも言えるそれは、他の記事に目を通すうちにふっと消えていってしまった。
事件は強盗と怨恨、両方の線で捜査が進められたが、未解決のまま時が過ぎた。そんななか、同年9月24日、今度は都内で強盗殺人事件が発生する。
当時、私は警視庁第二機動捜査隊の副隊長だったため、現場に急行することとなった。機動捜査隊とは、重要事件が発生したときに初動捜査を行う部隊だ。
午後10時過ぎ、目黒区の高級住宅街の一角に到着した。現場を一目見た私は、その犯行手口の荒っぽさに驚いた。玄関のドアは開けっ放し。被害者は靴を履いたまま渡り廊下で倒れており、床は血の海だった。犯人は被害者を待ち伏せし、帰宅するや否やナイフで襲いかかったようだ。
被害者は歯科医師だった。
第二機動捜査隊は近隣への聞き込みなど数時間に及ぶ捜査をおこなったものの、犯人に繋がるような目撃情報や遺留品はなく、そのまま事件を捜査一課に引き渡した。
3年後、ある男が捜査線上に浮上し、これらの事件は一気に解決に向かうこととなる。犯人の名は小田島鐵男。かつて、私が自ら逮捕・調べを担当した人物だった。
38時間にわたる監禁
2002年8月5日、千葉県松戸市で発生した「マブチモーター社長宅放火殺人事件」では、マブチモーター社長(当時)の妻と長女が犠牲となった。
同社は小型モーターの分野で全世界シェアの5割を誇る有名企業であったため、事件はマスコミによってセンセーショナルに取り上げられ、社会の注目を集めた。
2005年10月、別件の微罪で逮捕されていた2人の男が、マブチの件に絡んで強盗殺人容疑で再逮捕される。主犯格とされたのが小田島鐵男(当時62)だった。
さらに東京都目黒区「歯科医師強盗殺人事件」(02年9月)、千葉県我孫子市「金券ショップ社長宅強盗殺人事件」(02年11月)への関与も判明。わずか1年で、金目的で4人の尊い命を奪うという凶行だった。
小田島との出会いは、1990年にまで遡る――。
「下手な調べをやってんじゃねぇよ! シロなわけねぇだろう!」
練馬署の大部屋が一瞬にして静まりかえった。私が怒声を浴びせた捜査主任・石田(仮名)の顔は強張っている。
「村上はホシだよ。間違いない」
私は吐き捨てるように言った。
その年の6月2日、練馬区で「3億円強奪事件」が発生し、練馬署に特別捜査本部が設置されていた。
事件では、拳銃と刃物を所持した2人組の男が建設会社「U工務店」の社長宅に押し入り、家族7人を38時間にわたって監禁。
社長を脅し、会社の総務に3億円を銀行から調達するよう指示させ、それらを奪って逃走した。
個人宅を狙った強盗事件としては史上最大の被害額で、世間を大きく騒がせていた。
この容疑者として浮上したのが、練馬区光が丘で拳銃を所持していたため、銃刀法違反の疑いで逮捕された村上一郎(仮名)という男だった。
私は村上の筋に拘っていた。一家によると、社長宅では2人組は終始ストッキングで覆面をしていたという。犯人はU工務店と関わりがある人間かもしれない、だからこそ顔を隠す必要があったのではないか、と私は睨んでいた。そうして工務店の下請け業者リストを調べていくと、村上の名前が見つかったのだ。拳銃の所持と併せ、私はこの筋だと思った。
当時の管理官は、村上の調べを石田に担当させた。だが調べの結果、石田は「村上はシロ」と判断したのだ。その報告を受け、捜査指揮本部は9月14日に村上を釈放してしまう。調べが甘いとしか言いようがないと、私は憤った。
それから間もなく、「埼玉県大宮の小田島という男が、最近羽振りがいい」という匿名の情報が入った。内偵を始めると、無職にもかかわらず家賃20万円のマンションに住み、ベンツを乗り回している。
しかも、詐欺や窃盗などの前科が11犯もあった。旅慣れているな、と私は感じた。
「旅慣れる」とは、前科が多く刑務所暮らしが長いという意味だ。何をしでかしてもおかしくないタイプだろう。
さらに小田島の経歴を細かく洗ってみると、驚くべき発見があった。小田島と村上は同時期に府中刑務所で服役していたのだ。
点と点が繋がった。これは間違いない――。私は確信した。
“正反対”の相棒
深夜の特別捜査本部。他の捜査員がいなくなったのを確かめ、私は理事官席に真っ直ぐ向かった。
捜査について直談判するつもりだったのだ。間にいる管理官を無視した越権行為であることは百も承知だ。だが、組織のルールよりも捜査を優先するべきだと、その時は思った。
「理事官! やっぱり村上はホシだと思っています。それと小田島という男も、最近妙に金回りがいいようで怪しいです。しかも2人は府中刑務所で一緒でした!」
寺尾正大理事官は、私の熱弁を淡々と聞いていた。
私達2人の付き合いは長い。寺尾さんは私より6歳上で、慈悲深い目をした、まるで大仏のような男である。最初にコンビを組んだのは1980年、首都圏での連続強盗事件の捜査だ。
当時はまだ寺尾理事官は警部、私は巡査部長という立場だった。その後も、ロス疑惑、地下鉄サリン事件などで一緒になった。
昔は2人で深夜まで捜査に没頭し、仕事を切り上げた後はスナックで飲み明かした。
私は北島三郎、寺尾さんは石原裕次郎をよく歌った。あまり遅くなると、自宅には戻らず署で眠りにつく。そんな毎日だった。
すぐに熱くなる私に対し、寺尾さんは泰然として動じないタイプの刑事だ。私達はまるで“正反対”の相棒だった――。
「2人は共犯じゃないかと、私は睨んでいます」
明かりをおとした大部屋に、私の声が響き渡った。
「村上は釈放された後、行方不明になっています。小田島は今、香港にいることが分かっている。小田島を引っ張りましょう」
寺尾理事官が口を開いた。
「大峯くん、分かった。お前が小田島を落としてこい」
私は様子を見ようと考えていた。
「では、まず小田島を泳がせて、香港からの帰国の翌日、朝一番に呼ぶのはどうですか?」
「だめだ。また逃げられたらどうする。小田島が香港から帰国したところで“勝負”しろ」
その眼は鋭く光っていた。
大峯は即座に、航空会社、空港の入国管理局、税関に捜査協力を申し入れる。小田島が香港でチケットを購入した段階、入国した段階、税関を通った段階で、それぞれから情報が入る手筈を整えた。
勝負の時は迫っていた。
9月22日。小田島が香港から帰国するという一報を受けた私達は成田空港に急行した。到着したのは午後8時過ぎ。人もまばらな税関の入り口で、奴が出てくるのを待った。待機しているのは私と、スーツ姿の捜査員が5名だ。寺尾理事官もわざわざ出張ってきて、理事官車の中で趨勢を窺っている。
「寺尾さんも、えらいことを言うよな……」
私は考えを巡らせていた。
寺尾理事官の「勝負しろ」という言葉は、小田島を完オチ、つまり全面自供させろということだ。しかし、彼が犯人だと示す証拠や証言は何もない。唯一犯人の顔を見ているU工務店の常務に小田島の写真を見せていたが、「犯人のような、そうではないような」という曖昧な証言しか得ることが出来なかった。あるのは私の直感、筋読みだけだ。
まずは小田島に任意同行を求め、警視庁に向かう車の中で聴取をおこなう。空港から都心までの所要時間を考えると、2時間が限界だろう。そこで落とすことが出来なければ、小田島は無罪放免。行方をくらませてしまう可能性が高い。
「来たっ」
誰かが小さく叫んだ。Tシャツにブレザー姿の痩せた男が、税関に姿を現した。捜査員が一斉に取り囲むと、奴の顔が強張った。
「小田島だな? 警視庁捜査一課の者だ。ちょっと、お前に聞きたいことがある。一緒に来い」