ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ

2023年08月08日 09時53分59秒 | 社会・文化・政治・経済

手塚 治虫 (著)

「なんとしてでも、地球を死の惑星にはしたくない。未来に向かって、地球上のすべての生物との共存をめざし、むしろこれからが、人類のほんとうの“あけぼの”なのかもしれないとも思うのです」幼少の思い出から、自らのマンガ、そして未来の子供たちへの想いまで。

1989年、他界した天才マンガ家・手塚治虫、最後のメッセージ。

 
読んでもらわないとわかりません。読んでもらえば、わかります。 自分の今を、これからの自分を考えます。
 
 
 
 
『ガラスの地球を救え』
『地球は死にかかっている』
といった手塚治虫の心の声が書かせた本でしょう。

手塚治虫の漫画のアイディアは、手塚治虫の体験と関心から来ていることがよく解る本です。

子どもたちは未来人、未来人は宇宙人となっていく。
そんな、素晴らしい未来を実現するためにも、今 地球人類の危機をぼくたちが叫ばなければならないのである。

一部抜粋

P.12 人間がどのように進化しようと、物質文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはないし、どんな科学の進歩も、自然を否定することはできません。それはまさに自分自身=人間そのものの否定になってしまうのですから。

P.24 昭和六十二年に尊敬するウォルト・ディズニーに捧げる『森の伝説』というアニメをつくりましたが、人間が開発と称して森の木を伐っていくのに、森の動物や草木が反乱をおこすという話です。
 自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しがくると思います。

P.52 ぼくが、アニメーション映画に力を注いできたのも、一つには、この軍国主義による映画の効用を逆手に取って、夢や希望に目を輝かすことのできる子どもたちに育ってもらいたいからです。

P.181 子どもは大人からの真剣なメッセージにはかならず、耳を傾けて来る感性をちゃんと持っています。
しかも、それが夢をかきたてるおもしろいものであれば、どんなに目を輝かせてくれることでしょう。
 
 
30年ほど前に書かれた本にも関わらず、まさに現代の私たちが考えなければならない事が書かれています。文章もとても読みやすく短いので中学生位のお子さんにもお勧めします。
 
 
絶えず子供達に、って書いてありますが、当時子供だった人ももう大人。ちゃんとこのメッセージを受け取れたんだろうか。
 
 
 
地球の未来について手塚治虫先生の心配事と希望が書かれています。
 
 
 
20年以上前のエッセイであり、その時代背景は、さらにその前の昭和30~50年代となる。
にもかかわず、全く色褪せないそのメッセージ性に強く感動する。
世の中は、すべてが悪、すべてが善で存在するわけでなく、色々な局面を持ち混在して
いる。その世の中の現実を漫画で描き、人間の脆さ、悲しみ、勇気、希望を作品とした
手塚氏の哲学的な思想が、大変よく表れている。
ラストの「宇宙から眼差しを持て」では、未来の予想と地球人として如何に、俯瞰的
に地球をみて、宇宙人として、この緑と水の惑星を愛し、救うか!その想いに、感銘
します。もっと、手塚作品を読みたくなりました。
 
この状態を手塚治虫さんはどう思うだろうか
今生きている私たちができることは
大切な事がたくさん書かれている
 
 
手塚治虫さんの作品は、こども時代に図書館で見たことがありました。
今は、30才を過ぎ手塚治虫さんの作品に再度ふれてから、私はこんなにもメッセージが込められていたことを感激と衝撃を受けながら読んでいます。
今現在の私たちに起こっていることを、手塚治虫さんは何十年も前に想像していたのです。
未来のこどもたちのために、地球を守るために出来ること、何か始めなくてならないと強く思います。
どうかどうか、手塚治虫さんの思いがたくさんの人に伝わり、どうかどうか、化学技術の発達が素敵な未来のためでありますように。
 

わたしは、不法移民: ヒスパニックのアメリカ

2023年08月08日 09時25分42秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
1100万の見えないアメリカ人
不当な労働によって搾取され、虐げられ、精神を病む
不法移民の実情を克明に描き、
彼らの人間としての尊厳を取り戻す珠玉のノンフィクション。

全米図書賞Finalist

2016年のトランプ大統領の当選に刺激され、本書の執筆を決意した著者は、
自らも不法移民である立場を利用して、不法移民コミュニティへの旅を決行する。
スタテンアイランドで不当に搾取される日雇い労働者、
グラウンド・ゼロの清掃作業でさまざまな疾患に罹患し健康被害に苦しむ労働者、
医療の恩恵を被れず、代替医療やブードゥーといった民間宗教に走らざるをえないマイアミの不法移民、
フリントの水汚染公害で鉛中毒の子を産み苦しむ母親、
父親が国外退去となり、打ちのめされるクリーヴランドの家族、
移民の親を持つことに悩み苦しむニューヘイヴンの子どもたち、
そしてカーラ自身の物語をこれらの記録に織り交ぜながら、
彼女を数年間エクアドルに置き去りにせざるをえなかった両親の決断や彼らへの愛憎などを振り返る。

ただ克明に不法移民を取り巻く状況やそのメンタリティを描き、
個人的で深い共感を呼ぶ彼女の明晰な筆致は、
人種主義的・反移民的な思想を抱く人びとへの静かで強力な反論となっている。

【目次】
はじめに
第1章 スタテンアイランド
第2章 グラウンド・ゼロ
第3章 マイアミ
第4章 フリント
第5章 クリーヴランド
第6章 ニューヘイヴン
謝辞
訳者あとがき
 
【著者】
カーラ・コルネホ・ヴィラヴィセンシオ 1989年エクアドルで生まれる。4歳頃にアメリカに渡る。両親とともに不法移民として暮らす。
2011年ハーヴァード大学卒業。イェール大学大学院でアメリカンスタディーズを研究。ABD(博士号取得に必要な研究論文以外完了)。オバマ政権下でDACA取得者となる。
現在はアメリカ市民権を取得済み。
2010年に『デイリー・ビースト』に匿名で発表した「わたしはハーヴァード大学在学中の不法移民」が注目を集めた。
2016年のトランプの大統領選出の翌日から書き始めた本書(本人はクリエイティブ・ノンフィクションと位置づけている)は2020年の全米図書賞ノンフィクション部門のショートリストに入り、ベストセラーとなる。
【訳者】
池田年穂(いけだ style="font-size: 18px;">1950年横浜市生まれ。慶應義塾大学名誉教授。タナハシ・コーツやティモシー・スナイダーの作品のわが国における紹介者として知られる。移民問題や人種主義に関心が深く、訳書も数多い。タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』(黒人)、アダム・シュレイガー『日系人を救った政治家ラルフ・カー』(日系移民)、ユエン・フォンウーン『生寡婦』(中国系移民)などテーマも多岐にわたる。また、2022年のマーシ・ショア『ウクライナの夜』のように、ウクライナ問題は2014年のティモシー・スナイダー『赤い大公』から継続して追求しているテーマである。
 
 
 
アメリカに1100万人いるというヒスパニックの「不法移民」(この呼び方についても凡例で取りあげられている。訳者は移民論の専門家である)についてのノンフィクションである。
 
 
全米図書賞や全米批評家協会賞のショートリストに入り、オバマの推薦図書でもあった『書類を持たないアメリカ人』
著者は1989年エクアドル生まれで、「不法(滞在)移民」として初めてハーヴァード大学に入学した一人です。
そのヒスパニックの中に「書類を持たない」アメリカ人が1100万人もいて、これらの「不法(滞在)移民」をどう処するのかは、アメリカ内政のイッシューとして大統領選挙の行方までも左右するものです。
さらに「不法(滞在)移民」の中に「ドリーマー」と呼ばれる者たちがいます。
カーラもその中に含まれるのですが、これは幼くしてアメリカに連れてこられ、その後一定の法的資格(DACA)を得た若者たちです。
国境越えを試みる人間たち、トランプの彼らへの攻撃や最近失効したタイトル42などの政策や、抑留キャンプで親と離されてしまう子どもたちといったところでしょう。
ただ、長期間居住している「不法(滞在)移民」をどのようなプロセスで合法的な存在にするのか、あるいは追い返そうとするのかといったテーマについては、あまり目にしません。
……わたしは、仕事を脇に置けば誰にだって強い個性があるという前提で彼らについて知りたかった。
……アンダーグラウンドの人びとについて何か読みたいと思う読者のための本であり、出てくるのは、ヒーローとは無縁の、行き当たりばったりに選んだ、さまざまな個性の持ち主だ。(本文14頁)
1歳で両親にエクアドルに借金のかたとして置いてゆかれ、4歳でファミリー・レユニオンを果たします。
両親へのアンビヴァレントな感情、英語を解さぬ両親のインタープリターや介添えとしての務め。パターナリズムのヒスパニック社会ですから、娘として老いてゆく両親を扶養せねばという義務感、そしてファザコン。<中略>本書の緯糸はルポルタージュです。
6箇所すべてが東部標準時間帯に収まっているのです。
ニューヨーク市のスタテンアイランドとグラウンド・ゼロ(マンハッタン島。9.11.の現場です)、フロリダ州マイアミ、ミシガン州フリント、オハイオ州クリーブランド、コネチカット州ニューへーヴン。
それぞれの場所に知っておくべきテーマがあります。「不法(滞在)移民」が教会をサンクチュアリにする(「教会アジール」と呼ぶそうです)とか、グラウンド・ゼロの汚染された瓦礫の除去を担って深刻な健康被害を被ってしまう(にもかかわらず立場の弱さから給金を踏み倒される!)とか、健康保険に入れないので民間医療や土俗宗教に頼るとか……。
 
 
 

 

 

ガス点検を装おう詐欺

2023年08月08日 09時16分36秒 | 社会・文化・政治・経済

注意】ガス点検を装おう詐欺についての見分け方&防ぎ方!

新型コロナウィルスの影響で高齢者の在宅が増えており、2020年からガス点検を装おう詐欺が頻繁しております。
2022年の現在でも東京都や埼玉県でも高齢者をターゲットにして犯行が繰り返されているようです。今回は相次ぐガス点検の詐欺について各ガス会社から出ている【注意喚起や詐欺の防ぎ方】をまとめましたので紹介していきます。
 

そもそもガス点検とは一体なんなんでしょうか?ガス点検とは4年に1回の法定点検になります。これはガス事業法という法律で決められて点検のことになります。ガスが漏れていないか配管の漏えい検査をしたり、給湯器やコンロを点検する義務がガス会社にはあるのです。

法律的には4年に一回ですが、ガス会社は安全を重視し1年ごとや2年ごとに点検をしている会社もあります。

ガスの点検は事前に連絡はあるのか?

ガス点検には事前にガス会社から連絡は来ないのでしょうか?

一般的な人の場合はいきなり自宅に来てもガス屋さんだったら信用して家にあげてしまう方は多いと思います。

なぜならガスは「何かあったときに怖いから」という感情が働くからです。普段からガス屋さんの営業マンに色々と相談している方は、「○○ガスの営業マン全員親切だから!いつも安心して任せているわ」と完全に信用してしまうケースもあります。

ガスの点検は事前に案内をするガス会社がほとんどですが、ガス会社によってはガス点検を委託している場合もありいきなり点検に来ることもあります。

ガス設備定期保安点検訪問日のお知らせとお願い(例)

【ガス点検事前周知案内分:引用元東京ガス】

ガス点検詐欺の事例

ガス点検を装い詐欺を行う手口はどのようなものなのでしょうか?各ガス会社からの公表されている被害ケースをみてみます。

  1. ガス会社の社員を装い、ガス工事を勝手に実施しガス工事代と請求する
  2. ・ガス会社の検針員を装い、「集金に来ました」と言ってガス料金を請求する。
  3. ・ガス警報器の取り付け勧誘として訪問し、代金だけもらって姿を消してしまう
  4. ガスが漏れていると言って給湯器を買い替えを不当にすすめる
  5. ・ガス漏れや警報器の点検と装って、宅内に上がり込み、目を離したすきに金品を盗み取る

そのほかにもたくさんの被害があります。ガス漏れの不安を煽って人を騙して金品を盗む、やり方がひどい。

ガス点検を装う詐欺に騙されないために

先程の事例のように詐欺を行う人は巧みな話術であなたに迫ろうとしてきます。もしこのような人が家に来たらどうすれば良いのでしょうか?各ガス会社は下記のような注意喚起をしております。

【ガス会社の注意喚起一例】

  1. 会社の社員証を携帯している
  2. 訪問する際は訪問目的を伝え会社名・氏名を名乗ります。
  3. ガス会社の制服や名札を原則として着用しています。
  4. 事前に案内文章を配っております。
  5. 検針票をもとにガス料金を集金することはありません。

【大手都市ガス会社の注意喚起】

・大阪ガスグループ注意喚起

・東京ガス注意喚起

“エネくらべ君”
“エネくらべ君”
エネくらべ:この人怪しいと思ったら身分証を確認することが大事です。

点検商法で契約してしまっときは?

ガス点検で営業された場合で契約した場合はクーリングオフや消費者センターに相談しましょう。

①クーリングオフ

ガス点検と装ってガスの切替契約などしてしまった場合はクーリングオフができます。ガス点検を装う営業行為は訪問販売に該当しますので契約書を受けっとてから8日以内であればクーリンオフができます。


私は誰になっていくの?―アルツハイマー病者からみた世界 

2023年08月08日 09時03分32秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 

Content (from BOOK Database)

世界でも数少ない痴呆症の人が書いた本―新鮮な驚きと貴重な発見!痴呆になればどのような経験をするのか、望ましい支援とは何か、本人の立場からしか書けない貴重な指摘。痴呆の人から見た世界が手に取るように分かる。

Content (from MARC Database)

痴呆になるとどのような経験をするのか? 望ましい支援とは? 痴呆症とともに歩んだ著者の感情的、身体的、精神的な旅についての記録から、痴呆患者が見る世界が手に取るようにわかる。実体験に基づいた貴重な指摘が満載。

Author Biographies (from BOOK Author Referral Information)

ボーデン,クリスティーン
1995年に46歳でアルツハイマー病の診断を受け、1996年にオーストラリア政府の首相・内閣省、第一次官補を退職。
1997年ごろから著しい症状の回復がみられ、1998年前頭側頭痴呆症と再診断される。1998年再婚、クリスティーン・ブライデンとなる。2001年10月、ニュージーランドの国際学会で講演。現在は、国際痴呆症支援ネットワーク(DASN)、オーストラリアアルツハイマー病国家プログラム運営委員会(Australian Alzheimer’s National Programs Steering Committee)のメンバー

檜垣/陽子
1975年、岡山大学哲学科心理学専攻卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
5年前に購入しました。当時は認知症本人からの発信が極めて少なく、貴重な本でした。家内が若年性認知症と診断され、少しでも情報が欲しいところでしたので、大変参考になりました。
機能は失なわれていくが、感情は残る、ということがわかったことは、大きかったです。
 

クリスティーン・ボーデン
1995年 46歳でアルツハイマー病の診断を受ける。
1996年 オーストラリア政府の首相・内閣省、第一次官補を退職。
1997年 著しい症状の回復がみられるようになる。
1998年 前頭側頭型痴呆症と再診断される。8月、本書を出版。
1999年 ポール・ブライデン氏と再婚。クリスティーン・ボーデンからブライデンとなる。
2003年 『私は誰になっていくの?─アルツハイマー病者からみた世界』日本語訳出版。市民グループの招きで来日、岡山・松江で講演。その様子がNHKクローズアップ現代などで報道され大きな話題となる。痴呆症を持って生きる本人として初めて国際アルツハイマー病協会理事となる。
2004年 10月、京都での「国際アルツハイマー病協会国際会議」に出席のために再来日、神戸・広島・東京で講演、『私は私になっていく──痴呆とダンスを』(クリエイツかもがわ)書き下ろし・日本先行発刊。

本書が非常に衝撃的なのは、認知症患者本人が記したものということではないだろうか。日本国内はもちろん世界的にみても認知症患者本人が記した著書というのは当時も今もそうはない。
だからこそ、本書に記されていること一つひとつが貴重であり、その価値は、出版から20年以上経った現在でも変わらないのではないでしょうか。
むしろ、高齢化が異常な速度で進行しているわが国こそ、あらためて認知症患者本人が記した著書である『私は誰になっていくの?』を読み直す必要があると私は思います。

日本でも最近、高齢者ドライバーの問題が騒がれておりますが、本書にもそのことが認知症患者本人の言葉として記録されています。本書からそのまま引用いたします。

「1996年中ごろ、運転しようと車に乗ると、困ったことが起こり始めた。どのペダルが何なのか、足をどこへ置けばよいのか、思い出せなかったのだ。」(106頁)

これが、認知症患者に起こっていることである。
認知症の高齢者ドライバーによる事故でも同じようなことが起こっているはずだ。日常的にこのようなことが起こっている中で運転を続けていればどうなるかは自ずから明らかだろう。

また、本書が特徴的なのは認知症患者本人がその経過を詳細に本人自身が記録しているということである。
だからこそ、どのように認知症が進行していくのか、そして本人がどのように感じているのかを本人自身の言葉で知ることが出来るのだ。

本書を読む意義は、まさにそこにこそあるのではないだろうか。
認知症患者のケアに携わるものも家族に認知症患者がいる方もあらためて本書に目を通すことで認知症患者本人の言葉を聞くことが出来るのだ。本書を通して認知症患者に必要なこととは何かをあらためて考え直す必要があるのではないだろうか。

本書で、著者は「信仰にすがることができて本当によかった。それがなくては、どうしてやっていけるだろう?」(116頁)と書いています。他にも、クリスチャンとしての信仰の深さがみてとれる箇所が随所にあります。
同時に著者は、認知症になっても最後まで「魂」はなくならないということを述べています。
著者にとってはクリスチャンとしての信仰が最後まで魂を確立する術になっているわけです。

しかし、クリスチャンではない多くの日本人はどのようにすれば著者のようになれるのか?

というのは普通に読んでいて感じる疑問のひとつでした。本書では、それについての回答も出ております。
「精神性とは宗教に限らない」(220頁)とはっきり語られています。日本人も宗教に変わる心の平和につながる何かを見つけることが大切なのではないでしょうか。
あるいは、ケアする立場にある者はそれを提供していくことが認知症ケアにおいてもっとも求められていることではないかと強く感じました。

最後に、ひとつだけ記しておくとアルツハイマー病と前頭側頭型認知症とは異なっているということを明記しておきたいと思います。認知症ケアにおいてもアルツハイマー病と前頭側頭型認知症とではケアの方法は当然変わってきます。

本書を通して私を含めたひとりでも多くの方が認知症についての理解を深めることが出来れば幸いです。
(2019.12.9記)
 
認知症の勉強のために読んでいます。当事者の立場から、考える重要性を教えられました。よい本であるとおもいます。
 
 
1. 始めて私が認識した 認知症の内情
- テレビを見ると、頭の中で話の筋のあちこちに抜け落ちがあって、あらすじをたどれないことが多い。短期記憶には長すぎるので長期記憶に移されるもの、そこから何が起こっているか全体を理解させるものを記憶できない。

- 騒がしい店は、色々な音がなり、疲れる。
- にぎやかな場所にいると周辺視野が狭くなる。=>自動車運転を難しくする 一因。

2 著者の生活の秘訣
- 教会活動(信仰、教会の人)に精神的に支えられている。
- 宗教観『神は私たちと共にあり、求め、感謝する気持ちがあれば、私たちになお多くのものを与えられる。』 
『世界の美しさに見とれ続け、家族や友達の愛を感じていたい。』

3 著者のスケジュール管理
- 前日の夜に翌日行うべきことを全て、リスト化しておく。(日課表を作る)
- 思いついたらすぐに、スケジュールを日課表に記載する。

4. 認知症の人とつきあうべき上で、周辺が理解すべきこと。
- 患者の心の平和をもたらすのが 何か知ることが必要。
(例:宗教、芸術、散歩等)(父さんは何? 散歩?、寺社訪問)
- 長所をはげますこと。
 
 
 
認知症になっていく人側からの体験が貴重な本。
どんな思いでいるのか、とても興味深く、難しくもないのでどんどん読み進められました。
 
 
クリスティーン・ブライデンの記録は貴重だ。普通は、聞くことのできない、認知症本人が、どういう状況で、どう感じて、どのような理由で、そのような行動をするかを、「こちら側の」論理で説明してくれるからだ。認知症の母は、自分がなぜ、こう感じるのかを、「こちらの論理」で説明することが、できない。ブライデンさんは、両方の世界の境界に立っている。

例えば、母は、認知症とわかる前から、耳が遠くなったと思われていた。これが、耳が遠いのではない、と、同居するようになってわかるのだが、クリスティーン・ブライデンは、これを、こう表現している。

「音がどこから聞こえてくるのかを言うことも、私には難しいことだ。誰かがドアを通って不意に来ると、しばしば驚いて飛び上がってしまうし、猫がミャーと鳴く声などを聞いて違う方向を振り向いてしまう、等々。
その音が実際に何の音かを知るのも同様に難しく、そのためにはかなりの時間がかかる。音を聞いて、それが何の音か、どこから来るのかを自動的に察知する代わりに、今の私は、脳がとる段階をほとんどそのままたどっている。音かな?そう、音だ。どこから?よくわからない。何の音?わからない。」

母は、真後ろから話しかけると、どんなに大きな声を出しても、反応しない。位置を変えて視界に入ると、「どこから声がするのかと思った」という。だから、パーソン・センタード・ケアでも言うように、相手の目を見て話せ、と。「話しているのは僕だよ。こちらに集中してね」と促す。もっとも目線を合わせる意味は、それだけではないが。

ブライデンさんが論理的に説明をしてくれるが、脳の処理能力が低下しているのは、はっきりとわかる。母は猫が好きなので、短くて、面白い動画を良く見せる。すると、笑うタイミングが、何秒か遅れる。

等など。これを読むと、母が、買い物をしたり、調理をしたり、会話をした後、くたくたに疲れるる理由がよくわかる。頑張っているのだ。

一つだけ、お願い。ブライデンさんの本を電子書籍で出して欲しい。母に、「ほら、こういう感じ?」って、聞いてみたいのだ。
 
 
まだ良く分からない病気でもあるし、身内での経験もないので参考になりました。
 
 
 
 
原著者のの初著作でしょうか、本筋・要点から逸脱した記述がしばしば見られます。
内容は、認知症本人が詳細に記した記録であり、刊行された当時このような記録はなく大変貴重だったと思います。
現在では、藤田和子さんや丹野智文さんらの書籍もあり、そちらの方が分かりやすく有用かと感じます。
一番の不満点は、日本語訳文のあまりな生硬さです。
訳者は心理学専攻で、これまで翻訳にはあまり携わっていないように推察されます。基本的に英語の構文・語順をそのまま日本語にしただけです。
こなれていないヘンテコな訳文だらけなので、読み進めるのが辛かった。
原文にある余計な比較級・最上級の表現や、形容詞・副詞、主語等も、訳出する際には適宜判断して省略するものです。版元の担当編集者も、相当な怠け者か初心者だったのではと感じました。
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私は私になっていく

2023年08月08日 08時47分10秒 | 社会・文化・政治・経済
 
認知症とともに生きる私の物語
ロングセラー『私は誰になっていくの?』を書いてから、クリスティーンは自分がなくなることへの恐怖と取り組み、自己を発見しようとする旅を続けてきた。
認知や感情がはがされていっても、彼女は本当の自分になっていく。
 
ロングセラー『私は誰になっていくの?』を書いてから、クリスティーンは自分がなくなることへの恐怖と取り組み、自己を発見しようとする旅をしてきた。認知や感情がはがされていっても、彼女は本当の自分になっていく。医学情報を最新に、「精神性」→スピュリチュアリティー、多数使われている「痴呆」→「認知症」ほか、訳を全文見直し。

Author Biographies (from BOOK Author Referral Information)

ブライデン,クリスティーン
旧姓・ボーデン。1949年イギリスに生まれる。1995年46歳でアルツハイマー病の診断を受ける。1996年オーストラリア政府の首相内閣省第一次官補を退職。1998年前頭側頭型認知症と再診断。1999年ポール・ブライデンと再婚、クリスティーン・ボーデンからブライデンに改姓。2000年認知症啓発支援ネットワーク(DASN)を結成(翌年、DASNIになる)。2003年市民グループの招きで発症後初来日し、岡山・松江で講演。その様子がNHK「クローズアップ現代」などで報道され、大きな話題となる

馬篭/久美子
1986年、津田塾大学英文科卒業。米国マサチューセッツ州スミスカレッジ・アメリカ研究プログラム修了。マサチューセッツ州立大学アムハースト校教育大学院教育修士号取得のち同博士課程に学ぶ

檜垣/陽子
1975年、岡山大学哲学科心理学専攻卒業(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
 
 
約1年間、80代の認知症の母の介護をしている。たくさんの本を読んだ。だが何故かブライデンさんの本は読む気にならなかった。若年性の認知症とは違うのではないか、と思ったからだ。

でも、違う。これは、介護をするすべての人が読む本だと思う。母が、こう感じているのではないか、という憶測は、当たっているものもあったし、目を開かされるものもあった。

認知症の人は、どう感じて、何を望んでいるのか。滅多にこない兄弟は、来ると母に「今日は何日か?」などと聞く。歯医者さんは、治療が終わると、母がそこにいないかのように、私に、治療の説明をする。(会計を待っている間、母は何度も「なぜお医者さんは何も言ってくれないのか?」と問い続けた。)家族が電話してくるときに、母に聞こえるので、携帯にしてくれ、というと、「どうせ聞こえていないから」という。
でも聞こえているのだ。(私も最初は酷い対応をしてしまった)母が台所にいるときに、どうせ聞こえないからと、隣の居間で母の病気のことを話したりすることも、今は無くなった。

母の人格は残っていて、敬意をもって接しなければいけない。

ブライデンさんが母と違うところは、自分が認知症であるという認識を一貫して持ち続け、それ以前の感覚と比較できてしまうところがすごい。

母は今は薬物を使わずに生活しているが、穏やかである。神経内科の先生で、認知症にきっちりと対応できる先生は非常に少ないと聞いている。私たちは、これで何年も時間を無駄にした。

なんの薬物も使わずに、モーリーンの問題行動を解決するエピソード。本来、こうあるべきだと思う。日本の医師会のガイドラインでは、問題行動に向精神薬を処方することが、どのガイドラインでも書いてあるそうだ。一方で、2017京都の国際会議のアブストラクトに、米国、カナダ、EUの問題行動に対するガイドラインをレビューした論文があった。16件中9件で、薬物は最後の手段。根本原因を解決すべき、とある。

最初に受診した神経内科の先生は、医療情報の公開で、家族の間であんなに問題視されていた暴力行為にはカルテに一言の言及もないことで愕然とした。薬を処方したとのみ書いてある。MRIとってMMSE測定して、アルツハイマーと診断して、薬を増やしていけば、儲かる病気なのだろう。問題行動を無視しさえすれば。

問題行動に対応するためには、隠れていた家族の問題と直面しなけれないけない。神経内科の先生にはそんなことはできないのだろうと思う。

100万人のサポーターも大いに結構。ビュートゾルフも大いに結構。将来、増大することが予測される認知症の患者を、効率的に処理することが議論の中心にならないことを祈る。
 
 
認知症の母の気持ちを理解したくて、前作の「私は誰になっていくの?」から続けての購入です。
前作以上に、力強いメッセージにパワーをもらいました。
人によって症状等の現れ方は異なるので、そういう意味では違うところもありますが、
どのように寄り添えばいいのか、基本的な心構えがわかります。
たくさんの方に読んでいただきたいと思いました。
 
 
( 『私は誰になっていくの?』の後編 46歳で認知症になった方が 56歳で執筆した本)
本の趣旨は下記の3点。
1 .認知症の方の心の中、2.認知症の方が 行うと良いこと、3.認知症の方が尊重して欲しいこと

1. 認知症の方の心の中

- 認知症の方は『スピリチュアル』の側面が大事と感じている。
- 似通った認知症レベルで集って話あって、経験、悩みを共有することが重要。

- 認知症の恐れは『自分がどの程度の速度で壊れるかわからない。こわれる感覚を伝えるのは難しい。』
 =>但し、治療、希望はある。
- 認知症の方は目の前の空間を正しく認識できないケースがある。混乱し、視覚、平衡感覚、
数の認識、方向感覚に問題が生じてくる。これは、老化でなく病気。
(作者も数字は単なる文字の羅列としか認識できない。)

-認知症の方は時間処理の感覚がないので、過去、未来もなく『今』しかない。
その『今』にエネルギーを注ぎ込むので、『後で』、『その時』ということは通用しない。
過去、未来の存在を感じれないので、過去。未来は不安になる。

-今日は何曜日か?何をすべきか、という今日の計画を覚えておくのも膨大な努力が必要。
 家でのんびりするだけでも疲れ切ってしまう。

- つまづいたり、ぐらついたり、こぼしたりすることは日常生活では当たり前。
- 人の話を聴いても2つ、3つの言葉を聞きのがすと理解しづらくなる。
言葉が抜け落ちると、ただの無意味な音になってしまう。
- 何をしてもすぐに忘れるので、記憶をよみがえらせる為に多くのヒントが欲しい。

- お金、将来、支払、整理すべきことやるべきリストを絶えず心配している。
 よって、予測不可能なことには全く対応できない。

⁻ 認知症で言葉を失った人は やりたくないことをやらされる時に暴れるのは、『いや』と
言葉で言えないから。

- パソコンで作業をしたり、本読んだり、長時間集中すると脳が非常に疲れる。

-目からの映像が脳に送られて解釈するのに時間がかかる。
その解釈から体を反応させるには更に時間がかかる。(反応時間がかかる。)
- 家事を誰かに行ってもらえば、楽になる。しかし、そうすると認知症の方の機能は日ごとに損なわれていく。
- 言葉がでてこない。(頭の中に視覚的なイメージはあるが言葉が出てこない。)
- 認知症の標準的なシナリオ『発病後5年で完全な認知症になる。そしてその3年後に死亡』

2 認知症の方が 行うと良いこと
- 写真、アルバム等を通じて自分の生活史を掘り起こして覚えるように努力する。
- 自分に力を与えてくれる、本、友達、景色等に接触続ける。
- 旅行、散歩等 なんでも自分の好きなことを行い、新しい思い出を作る。
(写真を一杯撮ろう。)
- 今日が何曜日であろうか、それは問題ではない。今日を楽しみさえすれば良い。
- 自分に生きる意味、心に平和を与えてくれる(スピリチュアル)をもつことが最も必要。

3. 認知症の方が尊重して欲しいこと

- 認知症の方自身に『何ができて、何ができないか』判断させて欲しい。
(やりたくないことを強制してはいけない。)
- 認知症の方にとって、社会は目まぐるしいスピードで動いている。
よって、もっとゆっくり進めて欲しい。
-どのような食べ物が好きか知っておいて欲しい。

-認知能力を失うとストレスを感じ易くなる。その結果感情に従い反応するようになる。
-将来の計画(認知症で完全に判断できなくなった時に備えて)つくりを手伝って欲しい。
- 心のサポート:アイデンティティが失われ、自分がバラバラになっていく危機にいる私達をあるがままに認め、
認知症の方の思い、苦しみに耳を傾け、尊重すべき人間として扱って欲しい。
 
 
認知症をもつ人の理解に役立ちました。認知症看護を学びたい方読んだ方がいいですよ。
 
一度は読まなくてはと思い購入しました。
本人の思いが語られ、認知症の人が感じている世界を知ることにつながると思います。
 
 
本の題のとおり、認知症を「私は私になっていく」という視点でみると、確かに人間の本質とは何かが見えてきます。ブライデンさんとともに歩み、「認知症のスピリチュアルケア」を著したエリザベス・マッキンレーさん、看護師で牧師である。彼女はただただクリスティーンの話に耳を傾け、「私はなくならない。私は私になっていく」とクリスティーン自身が希望を見出すまで旅路をともに歩んだ。
そしてその「旅路の歩み方」を、誰でも使える方法にまとめあげる研究を行い、実地に試し、世に問うと、著作「認知症のスピリチュアルケア」に書かれてある通り、認知症が魂の問いにつながることを理解することができた。
 

映画 恋のエチュード

2023年08月08日 08時17分47秒 | 社会・文化・政治・経済
8月8日午前3時5分からCSテレビのムービープラスで観た。
 
恋のエチュード』(原題: Les Deux anglaises et le continent)は、フランソワ・トリュフォーの監督による、1971年フランス長編映画である。

原作はアンリ=ピエール・ロシェの小説『二人の英国女性と大陸』。

エチュード(: étude)とは練習曲(音楽)、即興劇(演劇)のこと。

恋のエチュード

ヨーロッパが世界に誇る文明を享受していた今世紀初頭のパリを舞台に、十五年という歳月にわたって再会と別離を遍歴するイギリス人姉妹とフランス青年の愛と苦悩を描く。

原作は、「突然炎のごとく」の原作となった『ジュールとジム』を書いたアンリ・ピエール・ロシェのベストセラー小説『二人の英国女性と大陸』。

ロシェは生涯にこの二作品しか残さなかった。

なお、“大陸”とは、英国人である姉妹がフランス人の主人公を呼び親しんだ愛称に由来する。

監督は「野生の少年」のフランソワ・トリュフォー、脚本・台詞は「突然炎のごとく」でコンビを組んだトリュフォーとジャン・クリュオーが共同執筆。撮影はネストール・アルメンドロス、音楽はジョ

クロード(J・P・レオ)が最初にであったのはアンヌ(K・マーカム)だった。母の旧友の娘で、英国からパリに遊びにきていた。彫刻が好きでロダンに傾倒しているという。

ぜひ妹にあわせたいという彼女の誘いでクロードの英国行きが実現し、三歳年下の、眼を病む勝気な娘ミュリエル(S・テンデター)とあった。姉妹の家の客となったクロードを、二人は「大陸」と呼び、「フランス」と呼んだ。

年頃の美しい姉妹のどちらにも惹かれて、クロードの心は微妙に波立った。だがミュリエルが自分を愛しているらしいことを知った彼は結婚を決意するが、姉のアンヌもまた、彼を愛しているとは気づかなかった。

結婚について、姉妹の母ブラウン夫人(S・マリオット)は異存なかったが、一人息子を奪われる悲しみから、ロック夫人(M・マンサール)は猛反対した。その妥協案として、一年後、二人の情熱が変らなければ結婚してもいい。その間はあうことも文通も禁じられた。けれども一年は長かった。

美術関係の仕事を始めたクロードは、女流画家との情事にふけり、ミュリエルのことは忘れてしまった。彼は別離の手紙を書き、ミュリエルからは承知したという返事がきた。

時がすぎ、クロードは美術評論家として売りだし、適当に女遊びも重ねた。そんなある日、パリで彫刻の勉強に励むアンヌに再会した。

おたがいに胸にうずくものを感じた二人は、スイスの貸別荘で結ばれた。情事は重ねられ、女として目覚めたアンヌは、男たちにいい寄られるようになった。そしてディウルカというスラブ人とペルシャに旅立った。

アンヌは自由な女に変貌したが、日曜学校の先生になったミュリエルは、自分にきびしいピューリタンであった。その彼女が、姉に連れられてクロードの前に現われた。

四年ぶりの再会だった。不実とはわかっていながら、彼は心乱れ、今さらのように彼女への愛がこみあげてきた。

思いはミュリエルも同じだった。ミュリエルとクロードの愛の成就を望んだアンヌは、クロードとのことを妹に打ち明けたが、ミュリエルはショックのあまり気絶した。アンヌは妹を国へ連れ帰り、ミュリエルはクロードに別れの手紙を書いた。姉妹で同じ男を恋し、いまも愛する悲運をなげいた。クロードは胸を打たれた。

彼は苦しみ、絶望に沈んだ。その底から立ち直ろうと、最初の小説を書きあげた。「ジェロームとジュリアン」。

二人の男を愛した女の心を通じて、彼は姉妹への愛を綴った。それからしばらくして病に倒れたアンヌは息を引きとった。やがてクロードはミュリエルの消息を知り、あいにでかけた。

ホテルの一室で二人は激しく抱擁した。思えば、最初のであいから七年の歳月が流れていた。

だが、翌朝彼女は去った。人生に確信を抱いて。クロードは一人になった。--時が流れ十五年が過ぎていた。

風の便りに、ミュリエルは教師と結婚し、男と女の子をもうけたという。十五年--いまクロードは、かつてアンヌと通ったロダン美術館を訪れる。バルザック像に人が集まっていた。

英国の小学生たちが観覧にきていた。

もしやミュリエルの娘はいないか。たずねてみようか。いや聞いて何になろう。彼は静かに歩み去った。

タクシーの窓ガラスに映る自分の姿。これが僕か? 

まるで老人のようだ。背後で美術館の庭の扉が、ゆっくりと閉まった。それは青春の庭との訣別であった。

19世紀末から20世紀初頭のあたりのフランス・パリ。

青年クロードは母親と妹二人、父の残したアパートの家賃などで生活をしていた。

妹達とブランコ遊びで落ちて骨折してしまうような頼りなさがある。

そこへ母の旧友ブラウン夫人の娘アンが挨拶に来た。

パリで彫刻を学んでいるという英国人のアンは、クロードが本を書いている芸術家肌で英語会話も得意ということで夏の休暇へとイギリスに誘う。

そこでクロードはイギリス・ウェールズの海辺を見渡す丘上のブラウン邸でひと夏を過ごす。

そこにはアンの3歳年下の妹で眼を患うミュリエルがいた。

クロードは姉妹両方のことが気になり、 姉妹もまたクロードに恋愛感情を持つことに。

想いとは裏腹に気丈な妹ミュリエルは散歩を共にするが時にはつれない態度を示し、その感情に気付いた姉は身を引き妹を立てる。

クロードは曖昧に揺れ動く感情ゆえに姉妹を「大陸」などと愛称し「兄妹みたいな感じでいこう」と提案したりもする。

しかしクロードは昔話として15歳当時のとある事件を吐露したり、妹ミュリエルの肌につい触れてしまったり、パリの娼館事情など猥談に花咲かせたり、姉妹への恋慕を募らせていく。

とうとう姉アンは妹を想い(映像はアンのモノローグ独白イメージショット)、母ブラウン夫人へ三人の感情を伝える。

ブラウン夫人は三人の前で「クロードの母である旧友ロック夫人は早くに夫を亡くされ、その後も貞淑に貞操を守っている」と諭し、クロードを隣家のフリント氏宅へ宿泊を移すよう提案。

老練のフリント氏はブラウン夫人のとても懇意にしている相談相手(ブラウン夫人もまた夫を亡くしているため頼れる後見人)であった。

夫人は「もし国際結婚にでもなれば良しとしないが、ミュリエルの想いを尊重したい」と交流は勧める許可をした。

それを受けクロードは妹ミュリエル一筋と決め、手紙をしたためた。

しかし、ミュリエルは「クロードを振る返事」を手紙にして姉アンに持たせ、クロードへ伝えた。

ミュリエルの想いは「私は川の流れのように変わるの」(映像はミュリエルのモノローグ独白イメージショット)。

そんな中、クロードの母もウェールズの地へやって来た。

登場人物

フランス・パリ

ロック家

イギリス・ウェールズ

ブラウン家

その他

  • フリント氏:マーク・ピーターソン ブラウン家の隣人
  • ディウルカ:フィリップ・レオタール 出版社経営
  • ルータ:イレーヌ・タンク
  • モニーク・ド・モンフェラン:アニー・ミレール
  • ナレーター:フランソワ・トリュフォー

概説

  • あくまで観客があってこそ映画であると考えるトリュフォーにとっては、本作の興行的な失敗は苦い経験だった。
  • 不評の原因は娘がロウソクを持って暗い階段を昇るシーンに象徴されるようなあまりにも感傷的な演出にあると判断したトリュフォーは後に(本作、『アデルの恋の物語』、『緑色の部屋』を自ら「ロウソクの3部作」と呼んで)撮り方にこだわり続け改良を図っている。
  • (また、『アメリカの夜』には女優の顔を照らす照明をカメラから見えない位置に備え付けた特殊なロウソクの小道具が登場している。)このようにトリュフォーがひとつのシーンにこだわって見せた背景には、「run for cover(確実な地点に戻ってやり直せ)」というアルフレッド・ヒッチコックから学んだ「映画術[1]」が活かされている。一方で本作はネストール・アルメンドロスの撮影による映像美は高く評価されている。
  • オリジナル版は132分だが当初公開時に「ミュリエルとの初夜でシーツに血がベッタリというシーン」に抗議が殺到、その他諸々映画が不評だったため、劇場側の要請に応えてそのシーンなど20分ほどカットした118分のパリ公開版と、全体の流れをスムーズにするために更にカットした106分のアメリカ公開版がある。日本での公開は106分版であった(因みに日本で後にオリジナル版を『恋のエチュード 完全版』として1987年5月に公開)。
  • 死の直前まで医者を呼ばないアンのモデルは、『嵐が丘』の作者エミリ・ブロンテ。エミリは死ぬ2時間前まで医者を呼ぶことを許さなかったという。
  • ブラウン一家の住むウェールズの風景の撮影のほとんどはフランスのノルマンディーで行われた。これは、トリュフォーが『華氏451』での苦労以来、イギリスに滞在することを嫌がったためである。
  • 音楽担当ジョルジュ・ドルリューはワンシーンにカメオ出演。
恋のエチュード : 作品情報 - 映画.comeiga.com
恋のエチュード:映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER ...
 
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恋のエチュード : 暗闇の中に世界がある ーこの映画を観ずして ...
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忘却度70%】恋のエチュード|アッシュ・スミス 【忘却映画館】
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この国のかたち

2023年08月08日 06時07分14秒 | 社会・文化・政治・経済

合本 この国のかたち【文春e-Books】 by [司馬遼太郎]

 司馬遼太郎 (著)

『文藝春秋』の巻頭随筆として十年にわたり連載された「この国のかたち」。
長年の間、日本の歴史からテーマを掘り起こし、香り高く稔り豊かな作品群を書き続けてきた筆者が、この国の成り立ちについて研ぎ澄まされた知性と深く緻密な考察をもとに書き綴った歴史評論集。その1~6巻を合本のかたちで!
 
日本は世界の他の国とくらべて特殊な国であるとはおもわないが、多少、言葉を多くして説明の要る国だとおもっている――長年の間、日本の歴史からテーマを掘り起こし、香り高く稔り豊かな作品群を書き続けてきた著者が、この国の成り立ちについて研ぎ澄まれた知性と深く緻密な考察をもとに、明快な論理で解きあかす白眉の日本人論
 
司馬 遼太郎

1923年大阪市生まれ。大阪外国語学校蒙古語部卒。「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞、『梟の城』で直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂 の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』など構想の雄大さ、自在で明晰な視座による作品を多数発表。この他『街道をゆく』『風塵抄』『この国のかたち』な どの紀行、エッセイも多数。’96年逝去(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 司馬遼太郎と寺社を歩く (ISBN-13: 978-4334747213)』が刊行された当時に掲載されていたものです)

 歴史の裏側を語る


街道を行くを全巻読み終えた後、次に何を読もうか迷っていた。
司馬の時代小説は事実のごとき詳細さがあるが、なにぶんにも一作が長編すぎるので、街道を行くと同じようなエッセイである本シリーズ1,2巻を購入した。その間に網野義彦の日本社会の歴史(上中下)を読んだ際に、民俗学者である宮本常一をしり、その著作を読み漁り、60数冊に及んだ。
ふと本棚のこの国のかたち2冊をみつけ、数年ぶりに司馬の文章に触れることになった。
宮本の平易で分かりやすい表現に比べると、司馬の表現は素晴らしく、ある意味わかりづらく、何度も字面を追わざるを得なかったが、街道を行くでふれた文体の記憶が徐々によみがえりつつある。
司馬の小説やエッセイのネタは、宮本の著作を参考にしたといわれており、宮本に興味をもった初心者はまず、忘れられた日本人や庶民の発見などから読み始めるといいだろう

さて第一巻で記憶に残るのは、朱子学の作用:明治維新派革命的思想としては貧弱というほかにない、尊王攘夷でしかない。後醍醐天皇は宋学(朱子学として大成)というイデオロギーのとりこになって、天皇という歴史的存在から飛躍して中国皇帝のようなつもりになった
統帥権の無限性:参謀という得体のしれぬ権能を持った者たちが愛国的に肥大して謀略を企んで国家に追認させてきた。明治憲法は三権分立だったのに昭和になって統帥権が次第に独立し始めた。その万人が参謀本部で自分たちがそれを所有していると信じていた
藩の変化:奈良朝依頼、江戸時代まで公といえばお上のことであった。ところが桂小五郎と伊藤俊輔の関係で描かれる円はーつまり公はー上部構造ではなく仲間意識という意味に変化している  などである

今回を機にこの国のかたち3,4,5,6巻も購入したが、維新の歴史の裏側、戦国の世、武士の出現などに司馬らしい考察が書かれていて素晴らしいのだが、文芸春秋の連載エッセイなので、時系列に無関係に書かれていたり、同じ時代のことも飛び飛びで書かれていたりするところが、非常に残念である。時代ごとにかかれていればもっと理解しやすいのだが。
目次  この国のかたち  朱子学の作用  “雑貨屋”の帝国主義  “統帥権”の無限性  正成と論吉  機密の中の“国家” 明治の平等主義  日本の“近代” 尊王攘夷 浄瑠璃記  信長と独裁 高貴な“虚” 孫文と日本   江戸期の多様さ 若衆と械闘藩の変化 土佐の場合 豊臣期の一情景 谷の国 六朝の余風  日本と仏教 日本の君主 若衆制 苗字と姓とばらばらなのである


日本の将来への道しるべ


著者の詳細な分析から、今まで築かれてきた日本の心、坂東侍の精神が理解できた


昭和十年から二十年までの異質性


 雑誌「文藝春秋」の巻頭随筆を集めたもの。
敗戦当時、日本は昔からこんなにおろかな国だったのか、そうではないはずだと著者は思っていた。それから30年後。
この疑問に対して少しずつ随筆のかたちで解答を明らかにしてくれる。
私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。
ところが、昭和十年から同二十年までのきわめて非日本的な歴史を光源にして日本史ぜんたいを照射しがちなくせが世間にあるようにおもえてならない。
この十年間の非日本的な時代を、もっと厳密に検討してその異質性をえぐりだすべきではないかと思うので
ある。

 この第1巻で、私にとってとくに為になったのは、

○ 統帥権のもたらす非連続性(無限の権力)。
○ 日本が六朝の影響を脱するのに明治維新までかかったこと。
○ 価値の多様状況こそ独創性のある思考や社会の活性を生むのに、現在の教育は逆の均一性の方向にのみ走りつづけていること。
○ 日本人はいつも思想や新技術は外から来るものだと思っていること。
○ 日本の「帝国主義」が雑貨屋的であったこと。


 未完の「近代日本人の肖像」


「なぜ近代日本はあのような愚かな戦争をしたのか、それを解明したい」という問題意識を以て書かれている。
それを理解していないと、正直、重たい本である。
 これは25年前、青年だった頃に読み、中年になって再読した私自身の実感である。
なので、そうしたテーマに無関心な方は、無理して読むことをお薦めしない。気軽に読むにはしんどい本なので…。
 感想はこれだけでも良きですが、詳細は以下(とくに関心なければスルーで…)

 青年時代、これを読んだ時は卒読で済ませてしまった。
それから25年(ぐらい)経過して再読したとき、なぜ当時この本がイマイチよく判らない…と思っていたか理解できた。
 若かりし、というか幼かりし私(苦笑)はただの歴史小説ファンで、気軽に楽しく歴史エッセイを読むつもりでいたので、この本の抱える深刻なテーマがまったく理解できなかった。
 ただでさえ後期の司馬遼太郎の文章は、論旨が複数の文節にまたがり、読みやすい文章ではない。
 余談を行きつ戻りつ、突拍子もない形容で現実から飛びあがり、論旨のつながりもよく判らない話題転換はしょっちゅうで、どこに本筋があるのか首をひねるような文章、簡単に言えば四六駢儷体のように装飾的で、論旨が明確ではない文体で、「?」的な印象で読み流してしまった。
 司馬文学の愛読者には前提の事だろうが、彼は文学的出発点において「かつて従軍し、無残な敗戦に直面して自失していた22歳の自分に向けて書く」、愚かな敗戦に至った原因を究明したい、という現代史への問題意識を持っていた。
 筆者はかなり後になって、まったく別の関心から、半藤一利や保坂正康といった第二次大戦についての一般人向けの入門書を幾つか読んだので、「この国のかたち」を再読したとき、司馬遼太郎がこの本で書きたかったテーマは「なぜ近代日本はあのように奇怪な変化を遂げて破滅したのか」であり、彼はその前提の上でこの本を書いていることを漸く理解できた。
結論から言えば、司馬遼太郎は遂に自らを納得させる解答を考え得ることはなかったように思う。
 苦しみながら書いている。
 自らの問題意識を分解し、自らの抱えている宿痾をどう書いたものか手探りしながら書く、わだかまりのある文章である。
 戦時中の日本の異様さについて、その起源を古代日本の統一国家誕生から順を追って考究する周到さである。
 日本は、性格的に抽象的・普遍的思想を生み出さない、という定義から始まり、儒教の歴史・朱子学の攻撃的な性質、朝鮮と日本における朱子学の受容、近代明治には江戸期の多様性を切り捨てた貧弱さがあること、反面の江戸時代の藩ごとの多様性を指摘している。
 日露戦争から敗戦までの40年は日本の変質であり、異形であるという主張だが、シベリア出兵から1世紀が経過した現在からは、それは日本の体質のなかにあったものとしか(少なくとも筆者には)思われない。
 また、日本人が仮にそれを否定したいと思っても、戦時中の日本軍と日本人がしたことは、その次の時代の高度成長期の経済進出とともに、アジア諸国という他人の第一印象に刻印されている。他国の認識まで消去することは夢物語である。
 司馬は敗戦の原因を東条英機や、参謀本部の暴走や、天皇に原因を求めていない。
 山本七平もたどりついた結論…日本人の思考の平板さにたどりついた所で、司馬遼太郎は筆も思考も止まってしまったように思われる。
 
 彼は…これを考えるには、真面目すぎ、善良すぎる。山片蟠桃のような中庸が司馬遼太郎にはある。国家を蚕食し、国民の血肉と生命に寄生し、自国民を生贄にして恥じるところなく、他国を侵略することにいささかも躊躇を覚えない、近代日本の帝国軍であれ政治家であれ、彼らが持っていた人間性の暗黒面と、その膨張政策の欲望を自力で修正できず、それに盲従し、また賛同さえして付和雷同し、そして軍事を政治上の選択として使用する・しないに関わらず、その戦争中に露呈した自らの思考構造の欠陥を戦後も直視して改善することはなかった。
戦後を含めた近代日本人全体について、司馬遼太郎はそれを直視し、また認識もしながら、明確にそれを指摘することは出来なかったのではないか。中年になった筆者はそのように思うようになった。
しかし、彼の視野は他の歴史家にない広がりがある。古代に遡り、儒教を視野に収め、李氏朝鮮と江戸幕府の違いを指摘し、江戸時代の各藩の教育体制の違いから、明治は多様な思考方法が併存したことを指摘するなど、時間的・空間的な脚力は、現代史なり戦争史、特攻隊や軍の暴走といった個別テーマを扱う諸家にはない遠近法がある。
 だから、近代日本史を考え、また現代と未来を生々しく自分事として捉える方にとっては、この上ない参考書になると思う。
単純に、当時の大日本帝国の臣民は、世界観であれ、政治であれ、それだけの成熟を得ていなかったのだ、という結論で良いのではないかと思っている。
そしてそれは存亡の危機に陥ってさえ、自らを決定する気概も、また知覚も、持てることはなかったのだ、と。
 その結果は、司馬遼太郎が会津若松で戊辰戦争について講演し、経過を述べたあと「ここから先は皆さまの方がご存知です。ここでそれを語ることは忍びません」と同じく、以後の日本人なら誰もが知っている結末である。
 だが、そこで被害者の立場のみに立つことは、私は、公然と自らの愚劣を世界に発信することになると思う。結論を欠いている。
 だが、それは彼の性格に根差しており、彼にそのような悪魔的な地獄を求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものではないかと思う。
 司馬遼太郎が世を去って25年が経過し、なお私を啓発する書だった。
 そして司馬遼太郎の思考の域というか、その地平線なり、限界も考えさせる本だった。
 余りにも思い入れ、主観と感情に入り込んだ主題は、本来、司馬遼太郎が持っていた能力をこのテーマに対して発揮させることを妨げたように思われる。
  (肩の力を抜いた歴史エッセイを楽しく読むつもりで、面食らって本書を読んでから四半世紀。結局、重たい感想になってしまった。私も青年だった私自身に対して、こういう本だったんだよ、少なくとも中年になった私は、こういう風に読み直したよ、という自分なりの読み方ができて肩の荷が下りました。長々とスイマセン)


歴史を真剣に考える人に是非読んで頂きたい本です① 


「この国のかたち」全六巻は、司馬遼太郎さんがその持っている歴史知識を縦横無尽に駆使して、日本の国というものはどんなものかを示し、読者に考えさせてくれるシリーズ本です。
その中で特に、歴史を真剣に考える人に是非読んで頂きたい本①として、第一巻、主に「6 機密の中の“国家”」および「4 “統帥権”の無限性」の章を私は挙げたいです。
6章の内容の概略を述べれば、著者がかつて見つけた復刻本の古本『統帥綱領・統帥参考』に書いてあることに基づいて、統帥権がどのように参謀本部で認識されていたかを論じています。
この本の原本は軍の最高機密に属するもので参謀本部所属の将校しか閲覧が許されなかったものだそうです。
日本において統帥権がどのように考えられ、行使され、国をどの様な方向へ持って行ったのか、それを考える為に是非読んで頂きたい本です。
なお、近年『統帥綱領・統帥参考』の中の戦略・戦術部分をビジネスに活用するための本が出版されていますが、そのような捉え方ではなく、国家をどうしていったのか大きく深い問題としてこの本を捉えることが、まずは大切と思いました。


大変面白く読むことができる


日本の歴史に関するエッセイ集。
教科書的な羅列では無く、時代背景・現代との関連性などを有機的なつながりを持たせており、歴史に立体感を感じて、大変面白く読むことができる。
司馬史観と批判されることもある著者の作品だが、一つのものの見方として、頭に入れて損は無いと思われる内容です。
余裕があれば関連の原著を直接自分で調べて、自分の考え方を見つければ良いと思います。


 気楽に読める
 
良くも悪くも所謂「司馬史観」を楽しむためのエッセイですが、書かれた時代に捉われず読むことのできる内容でした。
過去の自作に対する言及も多く、非常に興味深く感じました。

90年ごろに著者が提示した日本の未来に関する危機感は、一つとして漏れることなく現在の日本が直面している問題になっています。
教育や社会システムから多様性を失わせて画一化することの結果が、その具体的一例です。

個人的に最も興味深かったのは富永仲基や山片蟠桃、井原西鶴を挙げた江戸期の多様性や朱子学に対する言及と、浄瑠璃に関するエッセイでした。
 
さすが司馬遼太郎
 
日本を見直すきっかけになります。
やはり、昭和初期から敗戦までの日本は異常だった。
この本に沿って歴史教育するべきと思う。
 
 時代が変わっても役立つ内容
 
日本の歴史・心を知るためにはとても有用です。
 
そういう時代  明治維新がキラキラしていた時代
 
時代としてこういう内容が好まれていた時代。
彼の言う思想と本質とはちょっと違う。
 

リズミカルな司馬遼太郎の言葉は、電子書籍媒体によく合っている気がする。
 
初めて「合本」を購入。新しい本の楽しみ方だと思います。
脳が読書に集中できる状態の時は、ちょっとした再読み込みや、次の巻に移るブランクもプチストレスになります。
合本は、集中が途切れず一気に読めるのがいい。
以前、紙の本でチャレンジして挫折したので、合本で完読できたことに驚き。リズミカルな司馬遼太郎の言葉は、電子書籍媒体によく合っている気がする。
 
面白すぎる
 
面白すぎる