アレクセイ・ナワリヌイ

2023年08月26日 12時56分30秒 | 社会・文化・政治・経済

アレクセイ・アナトーリエヴィチ・ナワリヌイロシア語Алексе́й Анато́льевич Нава́льныйラテン文字表記の例:Aleksei Anatolievich Navalny1976年6月4日 - )は、ロシア弁護士政治活動家[1]、大ロシア主義者。

2012年大統領選挙

12月20日に釈放されたナワリヌイは、2012年3月4日の大統領選挙で勝利をつかむと公言するプーチンに対して結束するよう市民に呼び掛けた。ナワリヌイは釈放されたとき、テレビのリポーターに「(自分が)大統領選挙に出馬することは無意味なことだ。クレムリンは公平な選挙をさせてくれないだろうからね。だが、もし公平な選挙が行われるのであれば、出馬する準備はできている。」と述べている。2011年12月24日には、選挙直後よりも大規模なデモ(西側報道によれば5万人規模)の組織を手伝い、「盛んに歓声を上げる観衆」に対し「今すぐクレムリンを乗っ取るのに十分な人数が集まった」と熱弁をふるった。

2012年3月の選挙でプーチンが大統領に選出された後、ナワリヌイはモスクワのプーシキン広場で反プーチンデモを行い、1万4千人から2万人が参加した。集会後、ナワリヌイは再度当局に身柄を拘束されたが、このときは数時間後に解放されている

2012年5月8日、プーチンが大統領に正式に就任した日、ナワリヌイと反対派のリーダーセルゲイ・ウダルツォフの両名はチスティエ・プルーディ(ロシア語Чи́стые пруды́。「綺麗な池」の意)での反プーチンデモに参加した後に逮捕され、2人とも禁固15日間を言い渡された

2013年モスクワ市長選と訴訟

2012年7月31日、彼は横領罪で起訴された。連邦捜査委員会によれば2009年の材木契約における彼の非公式顧問としての役割が捜査対象になっており、また連邦捜査委員会のウェブサイトでは彼が横領目的の犯罪グループを組織していたことが判明したと掲載された。2013年7月5日、当局は禁固6年と罰金100万ルーブル(約300万円)を求刑した。

フランス通信社(AFP)はこの裁判は異例の速さで進行していると報じ、同年9月のモスクワ市長選に彼が立候補する前に収監するためだという見解を掲載した。被告側は明らかにでっちあげの罪状だと主張していたが、7月18日、裁判所は禁固5年の判決を下した。この判決に対し、駐ロシア米国大使が失望したと述べるなど国際社会からは批判された

だが、翌日の19日、裁判所は上訴が可能な期間中は彼を収監しない旨を決定した。これにより、上訴審で1審判決が支持されるまでは被選挙権が剥奪されないため、彼は市長選への立候補が可能になった。AFPが報道した専門家の見解によれば、彼の釈放は前例がなく、明らかに政治的理由があるという。なお、大統領側は不正はなく法に基づいた処置だと主張している[46]北海道大学木村汎は「2013年のモスクワ市長選に、プーチン陣営は「横領」で執行猶予の判決を受けたナヴァーリヌイ氏を思い切って出馬させることにした。市長選が現職当選確実の単なるセレモニーにすぎないとの印象を払拭しようと考えたからだった。」「ところが同選挙でナヴァーリヌイ氏が予想以上に善戦したので、来年の大統領選で同様の処置をとることが難しくなった。」と述べている

同年9月8日、モスクワ市長選の投開票が行われた。彼は選挙に不正があったと主張、大統領側近で現職のセルゲイ・ソビャーニンの実際の得票率は半数以下だと述べて決選投票の実施を求めた

2018年ロシア連邦大統領選挙

刑事事件で有罪判決を受けているナワリヌイには2018年3月の2018年大統領選挙には出馬する資格が無いというのが中央選挙管理委員会の見解であったが、2017年12月24日に立候補届を提出した。選挙管理委員会は翌25日に全会一致でナワリヌイの立候補は無効との判断を下し、ナワリヌイは選挙ボイコットを呼びかけた

毒殺未遂

2020年8月20日、ナワリヌイは旅客機内で毒物によるものと見られる体調不良に陥り、同年9月7日に回復するまで意識不明の重体となっていた


ボリス・ベレゾフスキー

2023年08月26日 12時51分00秒 | 社会・文化・政治・経済

ボリス・アブラモヴィチ・ベレゾフスキーロシア語Бори́с Абра́мович Березо́вский、ラテン文字転写の例:Boris Abramovich Berezovskii1946年1月23日 - 2013年3月23日)は、ロシア企業家政治家

2000年3月の大統領選挙では、ウラジーミル・プーチンを支持するが、プーチンは逆に新興財閥の影響力を削ぎにかかる。ベレゾフスキーは、プーチンに対抗して反対勢力を糾合しようとするが、一般市民の間で「国賊」扱いされ、敵の多かったベレゾフスキーは賛同者を得られず、逆に同年7月下院議員を辞職。

さらに2001年、ベレゾフスキーは保有していたORTの株式49%を、ロマン・アブラモヴィッチに売却する形で放棄せざるを得なかった。ロシア最高検察庁は、アエロフロート資金の横領疑惑などでベレゾフスキーへの追及を強め、逮捕を恐れたベレゾフスキーは国外に脱出した。2002年10月、本人不在のまま、最高検察庁は、詐欺の罪でベレゾフスキーを起訴した。亡命先のイギリスではプーチン政権に対する批判を続け、2007年4月13日付けのガーディアン紙のインタビューでは「プーチン政権を武力によって転覆しなければならない」と発言し、ロシア政府の反発を招いた。

2007年6月21日、ベレゾフスキーに対する殺人謀議容疑でロシア人男性1人がロンドンで拘束された。

前年にアレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件が起こっており、イギリスはロシアに実行犯の身柄引き渡しを求めていた時期で、英国在住ロシア関係者の暗殺計画がロシアにある可能性が疑われ、両国の関係悪化に拍車がかかった。

容疑者は起訴されず2日後に釈放され、ロシアに強制送還された。7月18日にベレゾフスキーはロンドンで記者会見を開き、指示を出したとしてプーチンを非難した。

2013年3月23日、義理の息子であるエゴール・シュッペ(Egor Schuppe)がFacebook上でベレゾフスキーがイギリスで死去したことを公表した

その後顧問弁護士も死亡の事実を認め、死因については自殺であったと述べた。だが、他殺を疑う見方もある。

かつては実業家として巨万の富を得たベレゾフスキーであったが、最近の生活は妻との離婚訴訟に関わる費用や慰謝料、さらにはロマン・アブラモヴィッチとの訴訟も抱えるなど多額の出費を強いられており、アンディ・ウォーホルの「赤いレーニン」などの美術品や、1927年型ロールス・ロイスなどのクラシック・カーといった所蔵するコレクションを次々と売却するなど、資金繰りに窮していたとされる


ミハイル・ボリソヴィチ・ホドルコフスキー

2023年08月26日 12時22分54秒 | 社会・文化・政治・経済

ミハイル・ボリソヴィチ・ホドルコフスキーロシア語Михаи́л Бори́сович Ходорко́вскийMikhail Borisovich Khodorkovskii: , 1963年6月26日 - )は、ロシアの元実業家・企業家、政治運動家。石油会社ユコス社の元社長。新興財閥(オリガルヒ)のひとり。2017年現在は、英国ロンドンで事実上の亡命生活を送っている

逮捕・収監

2003年10月に、脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。

ロシア内務省に証拠文書を送付したエレーナ・コロング=ポポーワというフランス人女性は、後日に次のような告白をした。すなわち、ユコスの金融担当副社長だったアレクセイ・ゴルボヴィッチの指示に従って、1996年から2000年にかけて、セイシェルヴァージン諸島キプロスなどに秘密口座を開設し、それらを通じて毎年4億ユーロの取引を行ったという

ホドルコフスキーの逮捕・追及は、2003年後半にホドルコフスキーがプーチン大統領への批判を公言し始め、ロシア連邦共産党を含む野党に対し献金を行っていたことが直接的な原因であるが、さらにエリツィン時代に台頭したボリス・ベレゾフスキーウラジーミル・グシンスキー等のロシアの新興財閥(オリガルヒ)を抑圧するなど、これ以上のロシア政治への関与に反対するシロヴィキを中心としたプーチン政権側の警告というのが一般的な見方である。

また、ユコスシブネフチの合併で誕生するはずだった新会社の株式40%をアメリカ石油メジャーであるエクソンモービル社に取得させる交渉をしていたことも、石油の国家管理を進めるプーチン政権の反発を招いた。

検察当局は、ホドルコフスキーに対して禁固10年を求刑した。2005年5月31日、モスクワ市メシャンスキー地区裁判所は、ホドルコフスキーに対して、禁固9年の実刑判決を言い渡した。共犯とされたメナテップ社レベジェフ会長に対しても、禁固9年の実刑判決が言い渡された。

同年9月22日、モスクワ市裁判所は、控訴審判決で、ホドルコフスキーに対し、禁固9年とした1審の判決を減刑し、禁固8年を言い渡した。また、1999年から2000年まで約170億ルーブル(約652億円相当)を脱税したとして、詐欺罪、横領罪でも有罪とされた。刑の確定により、同年12月に予定される下院補欠選挙に立候補する資格を失った。プーチン政権による事実上の立候補妨害との観測が強い。

その後シベリアチタ州(現在はザバイカリエ地方)の刑務所に収監された。2005年10月、プーチン大統領(当時)の誕生日を前に、面会に来た親族や弁護士を通し「色々と大変でしょう、中佐殿」(プーチン氏は軍での階級は中佐で、階級の上では大佐など上司がいることになる)といった皮肉をこめた表現を織り交ぜて、誕生日を祝った。

半年後の2006年4月、刑務所で他の囚人にナイフで斬りつけられた。メドヴェージェフ政権発足後の2008年7月16日、刑期の半分が過ぎたことから仮釈放を申請したが、同年7月22日、ザバイカリエ地方チタ市の地区裁判所はこれを却下した。

2010年末、刑期の2017年までの延長が決定された

2011年6月、欧州人権裁判所は、一連の公判や拘置環境の中で重大な人権侵害があったとして、ホドルコフスキーに対し、ロシア政府が2万4500ユーロを支払うよう命じた。

恩赦と国外亡命

2013年12月19日、プーチン大統領は恩赦について明言。翌20日にホドルコフスキーは釈放され[7]、同日ドイツベルリンシェーネフェルト空港に到着。その後、ロンドンへ移った。

釈放の舞台裏には、ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー元独外相が仲介し、ドイツ政府も協力して秘密裏に行われた活動があったと観測されている

逮捕される二年前、ロシア開放財団(Open Russia Foundation)を設立し、そこにヘンリー・キッシンジャージェイコブ・ロスチャイルドを理事に迎えていた

2017年、『日本経済新聞』のインタビューに対して、プーチン政権後をにらんでロシアの改革派政治運動を支援する意向を語った。アレクセイ・ナワルニーやドミトリー・グドコフを高く評価した 


吉田有希「眞杉さんは天狗になっていなかったですよ(笑)」

2023年08月26日 12時15分18秒 | 未来予測研究会の掲示板

オールスター競輪決勝を語る/松戸競輪G3

 
 

猫は不思議な動物である。

2023年08月26日 04時27分38秒 | 沼田利根の言いたい放題

改めて思うのであるが、猫は不思議な動物である。

一度も我が家の前に来たことがない猫のタマが、庭に来て泣いていた。

タマは庭から室内を見上げて泣き続ける

家人は、大の猫嫌いであるで、タマのせつなそうな鳴き声を聞き「ああ、気持ち悪い、追い払って!」と感情を荒げる。

実は、警戒心の強い野良猫のチビ黒も、前日に我が家の門のブロック塀でくつろいでいたのだ。

その姿は、初めて見る光景であった。