「難民」とは誰か

2023年08月07日 17時13分39秒 | その気になる言葉

「難民キャンプ」をめぐって――小泉康一『「難民」とは誰か』より

小泉康一著『「難民」とは誰か』(明石書店)
小泉康一著『「難民」とは誰か』(明石書店)
個人は、移住を通じて自らの望みを追求する自由をもつ。一方、人口流入に対して国家が懸念を抱くことも避けがたい。では、両者の葛藤は克服しえないものなのか? 国際的視野から難民研究を牽引してきた第一人者が、人間経験の根幹をめぐる課題として考える。

◆目次
はしがき

第1章 前提として何を押さえるべきか
 論点① 難民は子どもの顔で描かれる
 論点② 難民は戦士、反攻勢力にもなる
 論点③ 難民の本当の数は誰にもわからない
 論点④ 発表数の魔術、人数の政治的操作
 論点⑤ 難民は難民キャンプにはいない
 論点⑥ 帰ることくらい良いことはない、という神話
 論点⑦ 拷問、ジェンダー、人身売買とのつながり
 論点⑧ 「家族」という理想化された概念
 論点⑨ メディア報道と政治の背景にあるイデオロギー

第2章 難民はどう定義・分類されてきたか
 論点⑩ 現代は紛争の性質に変化がある
 論点⑪ 逃亡の原因と結果、影響は複雑化し多様化している
 論点⑫ 逃亡の根本原因から、きっかけまで
 論点⑬ 避難する人と避難せず残る人、事前に予測して避難する人
 論点⑭ 先進国内の庇護経費は、UNHCRへの拠出額を圧倒
 論点⑮ 移民と難民、カテゴリーで分ける危うさ
 論点⑯ 「迫害された難民」とは呼べない避難民の人々
 論点⑰ 政策的に定められた定義がかかえる問題
 論点⑱ 難民条約は不要か?

第3章 難民はいかに支援されてきたか
 論点⑲ 人道主義は、現代資本主義の補完物?
 論点⑳ UNHCR、栄光というよりは苦闘の歴史
 論点㉑ UNHCRの構造とグローバル難民政策
 論点㉒ 難民キャンプで「ただ待つ」ことは人を病気にする
 論点㉓ 虚偽の申告は生きるための戦略であることも
 論点㉔ 歪んだ戦略を強いられる難民もいる
 論点㉕ 難民全員が弱者か? その後のケアは?

第4章 当事者視点を軸に、いかに視野を広げて考えるか
 論点㉖ 難民は安全保障上の脅威なのか?
 論点㉗ 移住を阻止するための開発援助の是非
 論点㉘ 「難民問題」ではなく、難民の問題を考える
 論点㉙ 難民キャンプは、技能オリンピックにして争いの場
 論点㉚ 援助活動と研究の違いと補完性
 論点㉛ 多くの難民調査に欠けているもの
 論点㉜ 研究者と難民の関係はどうあるべきか
 論点㉝ 国際制度における新たな分担のルールを求めて
 論点㉞ 難民の問題は、他のグローバルな諸課題とつながる

参考文献
あとがき
索引

キャンプの実情を知るために、歴史をやや遡って、悪名高かった香港政庁の1980年代のキャンプの様子を例として取り上げてみたい。

香港に流入したすべてのベトナム難民は、1982年7月以降、外部との接触を一切禁じられ、監獄のような「閉鎖キャンプ」に収容された。

この政策は、香港の資源が難民により圧迫されることへの危惧と、放置すれば将来ますます難民が流入してくるだろうという香港政庁の怖れを表していた。事実、狭い香港で難民のために土地が使われることは、本来なら地元住民のものである資源が他に回されることを意味していた。

香港政庁は、東南アジアから来た難民の受け入れを、地域の他の国々よりも不当に多く負担していると感じていた。政庁の目的はだから、これ以上の負担を拒み、キャンプの滞在者にはベトナムに帰ってもらい、新たな流入を阻止することにあった。

そのためにとられた方策は、香港での難民の生活状態、つまりはキャンプの生活環境を著しく劣悪にすることだった。高いフェンスとコンクリートの壁、四六時中の監視、食べること・寝ること以外に何も許されない生活、プライバシーのない蚕棚のベッド……。そうすれば難民は、香港が良い目的地ではないと考えて、流入数は止まり、すでに滞在中の難民はベトナムへ戻るだろう、というのが当局の政策における「意図」だった。

政庁は、キャンプが「一時の滞在場所」と公に認知されることを望んでいたので、キャンプ内の施設の処遇を改善して居心地を良くする試みには断固として反対した。娯楽室を一つつくるのでも、キャンプ内の居住者と政庁の役人の間で、際限のない話し合いが続けられた。

 待って、待って、ただ待つだけ

キャンプ生活ではあらゆることが不確かであり、将来を決める力も難民の掌中にはない。難民には、これから先の自らの運命の選択に関与することがまったくできない。運命を決めるのは、ときおりキャンプを訪れて難民を面接する、受け入れ国の係官である。

難民は、彼らの窮状を救うべくつくられたキャンプの中で、国際機関UNHCRの関心の対象となり、彼らの多くはただ「被収容者」として、何ヵ月いや何年もの間、「どっちつかずの曖昧な状況」のなかに置かれる。祖国からは離れて存在しているが、しかしまだどこにも受け入れられていないという中途半端な状態である。

難民は多くの場合、現政権の下では未来がまったくないと考えて国を脱出する。彼らは、自分たち自身が社会の「主流」からはじき出され、「行動の自由」を否定されたと考えている。現政権から陰に日向に妨害され、職を失い、新しい職にもつけず、財産を切り売りする毎日である。失うものはもはや何一つない。彼らはより良い生活を見つけるために国外へ逃げ出す。

難民はキャンプを、新しい生活へと移るための「代償」と考え、逃亡過程の「一部」として受け止めている。彼らは出国の際、どこか特定の場所に落ちつくという積極的な動機を初めからもつわけでは必ずしもない。

自分の意思に反して祖国を離れねばならなくなったという点で、移民とは異なっている。

しかし、キャンプから出発できる時期は、予想することができない。

キャンプにいる人々がもつのは、「待つ時間」だけである。大人にとってキャンプは、自分たちが逃亡し、国際難民制度に組み込まれる前に祖国で経験した「疎外」という長いプロセスの延長線上にある。

難民にとってキャンプ生活での目標とは、ただ一つ、「出発の日」である。

毎日の生活は、待つことを中心に営まれる。インタビューを待ち、祖国に残した家族についてのニュースを待ち、他国へすでに定住した親戚の便りを待ち、キャンプに新たに到着した難民のなかに縁者・知人はいないかとリストを見ながら、入国管理当局の役人が定住許可が下りたと知らせてくる日を待っている。

彼らはかすかな期待のもとに、仮の地位に留まることに甘んじ、現在を耐えている。

彼らの状況に最も近いのは、「戦争捕虜」かもしれない。捕虜には、自分では将来を選べない不確かな現在と、行動の制約、他者への依存がある。

しかし難民が戦争捕虜と違うのは、捕虜が祖国で再び家族たちと一緒になることを期待するのに対し、難民は代わりに外国での「受け入れ」を希望することである。

祖国で彼らが営んでいた以前の生活と、不確かな未来との間にポッカリとあいた難民キャンプというエアー・ポケット。そのなかで難民が滞在を引き延ばされ、孤立させられると、難民の感情には難民であること特有の性格と立場による影響が避け難く生じる。すなわち、難民の間に「故郷を失った」という絶望が広がり、強さを増していく。

難民の多くは家族と引き裂かれ、時には一生会うことがない。深い悲しみと悲劇は、共通のものである。

しかし何より注目すべきことは、「中途半端で、どこへも行けない」という難民たちの状況が彼らの主体性を損ね、無力感を与えることである。

倦怠、退屈、疲労、無力、希望の欠如……。難民は日々の生活のなかで、自分自身や家族に起こっていることに関心を失い、難民キャンプの中の自分たちのコミュニティについて、ほとんど意識を向けなくなる。

 「ただ待つ」ことは人を病気にする

難民が耐え忍ばねばならないことは、どこかへ行くために待つことである。ただ待つことは、彼らの健康を損なう。心理的には、憂鬱、不安、不満、ホームシック、あるいはこれらすべてが混合する。

選択肢が現実にないことは、当人の物理的、社会的な脆弱さを増す。ストレスや鬱の感情は、便秘や嘔吐を引き起こす。女性の多くが訴える痒みは、食物アレルギーと考えられるが、空気の汚染かストレスのような他の要因により引き起こされているのかもしれない。

移動中の人々は、食べ慣れた食料を入手できず、あまりなじみのない他の食料の摂取を増やすことになる。また避難中に食料消費の質と量が変化することは、難民の健康にとって深刻な意味をもっている

。たとえばカイロのスーダン難民は、難民キャンプには収容されていなかった。だがビタミンAと鉄分の不足が広く認められ、栄養失調の割合が非常に高かった。彼らはスーダン南部から首都ハルツームへ、それからカイロにやってきた人々である。

アフリカの難民は国境を越えて文化的類似性をもち疎外感を覚えないという考えに誤りがあることは、1980年代にすでに、アフリカ人研究者のカラダウィによって明らかにされている。

前述の香港のキャンプで支援に従事した援助団体のスタッフは、私に「難民にはキャンプの生活状況を改善する活動に参加する気持ちが欠けており、彼らは自分たちに必要なものを、責任ある大人として我々スタッフに依頼したりはしない。まるで〝何でも依存する子ども〟のようだ」と嘆いてみせた。

このように無気力となった難民の「依存症候群」のケースについては、もっと注意がはらわれてしかるべきであろう。

また、子どもの問題も深刻である。親が子どもだけを先に祖国から脱出させた場合や、移動中に親と離れた場合には、多くの子どもが亡命の意味を理解できない。

祖国の親元に帰りたいという願望と、「親が子どもに託した」先進国へ行くという使命感と興奮の間で、小さな胸は張り裂かれる。

そうした子どもは、彼らを見守る親も親類縁者も近くにいないことから、わずか7、8歳で一人前の大人のように振る舞うことを周囲から期待される。監督する親がいないので、まったく「独立的」に行動するようになる。

あまりに独立的になると、第三国に定住後、受け入れてくれた里親の家族内で、問題を起こすかもしれない。

キャンプ内で形成された新しい人間関係は、とくに重要な影響をもつ。

友人は、キャンプ内で自分の身に何か問題が起きたとき、頼りになる特別な家族となる。

友人の第三国への出発は、後に残された大人にも子どもにも、少なからぬ懸念をもたらすことになる。

しかし、大人の場合も子どもの場合も、たとえそうした友人関係が今や、祖国に残してきた親族や友達以上に重要なものとなっても、しょせん一時的なものとみなされてしまうのがつねである。個人がキャンプ内で友達との間に築き上げた絆は、つかの間のものとみなされるのだ。

香港のキャンプでは、ある年、はっきりした原因がわからないまま、一年間に五人の若者が死亡した。彼らは眠ったまま、翌朝、目を覚まさなかった。医者は、キャンプの生活状況が与えた「心理的ストレス」が原因だと診断した。

以上をまとめれば、多くの難民キャンプは、絶対的権威をもつ当局によって厳重に管理されており、難民が独裁、専制といった権力による迫害から逃亡してきたにもかかわらず、まさにそれらの権力を「再生産」し、乱用さえする。

キャンプでは多くの場合、庇護、安全、自己管理の回復といった難民の希望がともすれば損なわれ、他者への依存、無力感という新しい問題を生み出している。

囚人のように自由が制約され、そのために難民は過去を生き、将来を夢見るようになる。収容中の人々の間には、自分は「無視され、忘れ去られた」という感覚が共有される。彼らは「我々にはまったく権利がないし、まったく地位もない。我々は望まれざる者だ」という。

これは祖国を逃れはしたものの、どこにも永続的な庇護を見出せず、代わりに難民キャンプに何ヵ月、いや何年と滞在し「異常な現在」と「不確かな未来」に直面し続ける大多数の難民に「共通する経験」である。以前の社会的地位の違いはもはや、これらの人々の間では何の意味もない。

キャンプに長期滞在したことの否定的な影響は明らかである。人々が大きなストレスの下に生活していることは、疑いえない。キャンプそれ自体は、いかなる意味においても、自分自身で決定する未来へ向かって活発に能動的に生きるための動機を育むところではない。

キャンプ滞在によって、新しい国へ入国しようとする難民が何かを準備したり、前もって利益を得られたりすることはほとんどない。「監禁状態」にある難民に対する「責任をもつ組織」の間の気づきと改善が、重要性を増している。


生きることの意味を問う哲学: 森岡正博対談集

2023年08月07日 16時55分49秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 森岡正博 (著)
 
「生まれてこないほうが良かった」と言われたとき、 あなたは何を語ることができるだろうか
反出生主義はほんとうに自殺を導かないのか?
加害者であることは引き受けられるのか?
日本語で哲学することは可能か?
対話によって開かれる哲学とはどういうものか?
――戸谷洋志、小松原織香、山口尚、永井玲衣とともに、生きることの深淵を覗き込む。
現代における重要テーマをめぐって重ねてきた言葉たちを結晶化した対談集。

森岡 正博

1958年高知県生まれ。東京大学大学院、国際日本文化研究センター、大阪府立大学現代システム科学域を経て、現在、早稲田大学人間科学部教授。

哲学、倫理学、生命学を中心に、学術書からエッセイまで幅広い執筆活動を行なう。

代表作はいまのところ『無痛文明論』だが、そのほかに、男性セクシュアリティ論の話題作『感じない男』、草食系男子ブームの火付け役となった『草食系男子の恋愛学』、オウム真理教事件から哲学する『宗教なき時代を生きるために』、脳死論の古典『脳死の人』、生命倫理の重要作『生命学に何ができるか』、絶版になってしまったメディア論『意識通信』などがある。

日本語サイトは、http://www.lifestudies.org/jp/ 新刊『まんが 哲学入門』(講談社現代新書)は私自身がまんがの原画を描いた問題作。鉛筆描き原画はhttp://www.lifestudies.org/jp/manga/で見られます。反出生主義の克服を考察した『生まれてこないほうが良かったのか?』(筑摩選書)。

 

 

 

 
森岡氏はアカデミズムと一線を画した異色の哲学者である。
本書が対談形式であることも森岡節を一層際立たせているといえる。

そもそも「哲学」という言葉が哲学を一般人から遠ざけている。
日本語の「哲学」は明治の知識人西周が漢字を当てはめて翻訳したものだが、もとはギリシア語に由来する“philosophy”、すなわち「知を愛する」ことにほかならない。
それゆえ、プラトンの対話編ではソクラテスが弟子やソフィストたちと様々な論題を日常用語で対話しつつ問題を発展させていく。
本書では永井氏との対談で触れられる「哲学対話」がまさにそうした試みである。

こうした誰にもわかる言葉で問いを発して議論をし、考えを深めていく姿勢は好ましいし、欧米の輸入哲学だけで自分の哲学を語らないという森岡氏のアカデミズム批判も頷ける。

反面、森岡氏のそうした姿勢の根っこにある自己の内面への執着がどこまで普遍的な学問へと開かれているのか?
例えば、本書の最初の対談では「反出生主義」が取り上げられる。

「生まれてこないほうがよかった」という論題がまともに提起され、しかも、それを徹底しようとした「反出生主義者」が自死してしまう事件まであったというから驚くが、これに対して森岡氏は「誕生肯定の哲学」をめざすとしつつ、人類が絶滅する可能性は「肯定的に確保しておくべきだ」という。

しかし、ソクラテスのいう「死の訓練」はより善く生きることと同義のはずだ。

私のような凡俗には自己保存本能は与件であり、もはや神の領域としか思えない。
「生まれてこないほうがよかった」という言葉で私が想起するのは、マタイ福音書のイエスの言葉である。

これは最後の晩餐でユダの裏切りを予見していう言葉だが、子どもの頃に聖書を読んだとき、その救いのない厳しさに衝撃を受けた。もちろん、これは裏切りという行為に対して発せられた言葉であり、上記のような人間存在自体を否定するような問いかけにはやはり疑問が残る。
森岡氏は自らの「加害者性」にも強いこだわりを示し(「血塗られた」とまでいう加害体験は具体的に語られないのだが)、日本人の戦争加害責任や男性のジェンダー的加害者性ゆえに、被害者と「連帯」できるはずがないとまで断言する。

結局、「加害者としての私が私自身に向かって何を言えるか」という哲学的内省に向かうのだが、それでは被害者への償いも謝罪も何もしないだけだ。これについては、対談者の小松原氏から「本来の加害から逃げているのではないか」「自分以外の被害については、あくまで第三者として考えるべきだ」と反論されるが、そのとおりだろう。
このように自己の個人的体験への強いこだわりに今ひとつ理解できないところが多いのだが、「誕生肯定の哲学」や、アカデミズムのみを志向するのではなく「よりよい社会をつくる」ことをめざすというポジティブな思考は評価したい。

 
 
 
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対話を通じて課題を解決する

2023年08月07日 16時17分50秒 | その気になる言葉

▼人にはいろいろな悩みがあるものだ、だが、常に楽しい方向へと考える習慣を身に付けることで、悩みを克服できるだろう。

▼<幸せになりかい>という願いは、自分を別人に変えて実現することはできない。

また、他人と比較した結果の優劣でも決まらない。

今の自分の境涯をどこまでも開き、高めていく中に真の幸福はある。

境涯とは人間の器・幅=人間力のこと

▼誠実で実直な対話を生涯貫け―ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父・政治家)

▼人の長所を、率直に尊敬し、敬愛することだ。

▼異なる意見を互いに尊重し、対話を通じて課題を解決する。

 

 


利根輪太郎の競輪人間学 本命◎が格下に競り負ける

2023年08月07日 15時57分00秒 | 未来予測研究会の掲示板

7レース 3-2

9レース ?

出目作戦では、当然7レースの下がり目の3-1を買うべきであった。

だが、3番の五十嵐 力(44歳)は競争得点が96.45

本命◎の志村 龍己選手(36歳)は競争得点102.87

対抗の〇太田 龍希選手(22歳)は競争得点102.00

当然のように、3番は軽視した。

だが、7番は3番に競り負けて、番手を奪われる。

7-1-4 7-4-1 7-1-5  7-5-1の3連単で勝負した。

並び予想 1-7-4 5-2 3-6

レース評

3車構成の太田がレースの主導権を握る。番手有利に志村が抜け出し◎。3番手を朝倉が固めて本線。穴は吉田の捲り一発。

1番人気 7-1(4・0倍)

2番人気 7-4(5・7倍)

3番人気 1-7(6・6倍)

結果 3-1 2万3,960円(35番人気) 3-1-2 20万860円(188番人気)




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
1 3 五十嵐 力   11.6    
2 1 太田 龍希 1/8車輪 11.7 SB  
3 2 島田 竜二 3/4車身 11.6      
4 4 朝倉 佳弘 3/4車身 11.5      
  5 6 勝瀬 卓也 1車身 11.7      
6 7 志村 龍己 2車身 11.7      
× 7 5 吉田 茂生 5車身 12.5  

映画 あれが港の灯だ

2023年08月07日 12時30分11秒 | その気になる言葉
あれが港の灯だ
監督 今井正
脚本 水木洋子
原作 水木洋子
出演者 江原真二郎
音楽 林光
撮影 飯村雅彦
編集 長沢嘉樹
製作会社 東映東映東京撮影所[1]
配給 東映[1]
公開 日本の旗1961年2月26日[1]
上映時間 102分[1]
製作国 日本の旗 日本

解説

李ライン周辺に操業する漁夫の不安な生活を通じて、海をへだてた民族同士の悲劇を描いた「もず」の水木洋子の原作・脚本を、今井正が「白い崖」に次いで監督した。撮影は「弾丸大将」の飯村雅彦。

1961年製作/102分/日本
原題:Pan-Chonpali
配給:東映

ストーリー

日野漁業の底曳き船第一日乃丸と従船第二日乃丸は、後藤漁撈長の指揮で李ライン周辺に操業したために怪船に攻撃を加えられた。

第二日乃丸は拿捕され、逃げのびた第一日乃丸は銃弾を浴びて帰港した。

日野漁業の女船主日野千代は、第一日乃丸を矢坂に売り渡し、解散を決めた。

第二日乃丸の船長である長男一郎を奪われた漁撈長の家では、母きよ、嫁千鶴子が怒りと悲しみに泣く。

千鶴子は一郎の子を宿していた。帰ってきた第一日乃丸の若い船員木村と茂樹を、美果子が迎えた。

美果子は町で果物を売っている娘だ。

木村はそこで小学校で一緒だった石田に会った。木村の顔はなぜかくもった。

茂樹は木村を誘って町の女を買った。木村の傍に横になった女は、木村の生れを見抜いた。

木村は日本人ではなかった。木村は彼の故郷がひくライン問題に、複雑な境地に追われていた。

半月後、矢坂は第一日乃丸と第二矢坂丸を組ませ、出漁の準備にかかった。

第二日乃丸逮捕とともに銃弾を受けて死んだ西岡甲板長の長男浩も仲間に入った。

ライン内に突っこむ、漁撈長は心にそう決めていた。石田が美果子を誘って港へ出た。彼は突然美果子を抱いたが、彼女は拒んだ。

「木村が好きなんじゃな」石田は木村の故国の秘密を知っていた。出航の前日、木村は漁撈長に自分の故国を告白した。皆、木村を明るい笑顔で囲んだ。船は出た。燈火管制の闇の中で突如争いが起った。

漁夫松村が木村をスパイと罵ったからだ。松村は五年間の抑留のため、木村の故国を徹底的に憎んでいた。

二度目の網が投げられた時、怪船が現われ矢坂丸を追った。

網がペラにからんで、運転不能となった。ナイフをくわえた石田と茂樹が波間にとびこんだ。木村、続いて松村も。網はなかなか切れない。

浩が制止をふりきって波間に消えた。網はペラから切り離された。が、浩が浮き上らない。木村は再びもぐって浩を救った。だが、この時怪船が第一日乃丸に接舷した。

警備官が小銃を携えて一人日乃丸に飛び移った。その瞬間日乃丸のエンジンがかかって前進したが、再びストップした。警備官から奪った銃を抱いた石田は階段を駈け上った。

彼らに続こうとした木村を、石田が突きとばし銃口を向けた。巡視船あまつが急行し、彼らを救助した。木村は流れ弾にあたり、同胞であるべき警備官たちの私刑をあびながら死んだ。

怪船に曳航されている日乃丸を見守る漁夫たちは口々に木村を罵った。漁撈長だけが黙っていた。その背に、浩が「僕は一生船にのります」と決意をもらした。

出演者

以下の出演者名と役名は、特に記載がない限りKINENOTEに従った

受賞歴


忘れられた皇軍

2023年08月07日 12時25分03秒 | 社会・文化・政治・経済
忘れられた皇軍 浪漫堂シナリオ文庫 by [大島渚]
 
 
大島渚のテレビドキュメンタリー。
日本テレビのプロデューサー牛山純一が発足させた「ノンフィクション劇場」で放映された。
牛山から作品を依頼されていた大島は、日本テレビ局員がもってきた韓国籍のため補償を受けられない傷痍軍人の話にとびついた。
早坂暁の案で、補償の請願をする彼らを4台のカメラで追い、さらに大島渚に涙を流しながら訴える片腕両目失明の傷痍軍人に向けてカメラとテープを回し続けた。
シナリオには大島渚のコメントがナレーションとして下段に書かれており、それを小松方正が叫ぶように読んだ。
ナレーションが映像とあいまって彼らの心の深い傷をさらす。
放映後、日本のお茶の間に衝撃が走った。
白衣を身にまとった傷痍軍人のほとんどが韓国籍の人たちであるとは、夢にも思っていなかったからだ。
篠田正浩監督は「絞死刑」と「忘れられた皇軍」が大島渚たるイデオローグを確立した作品ではないか、と述べている。第一回ギャラクシー賞受賞。
 
 
 

 

 


志願兵の肖像 映画にみる皇民化運動期の朝鮮と戦後日本

2023年08月07日 12時13分51秒 | 社会・文化・政治・経済
商品写真
日本の植民地統治下で、朝鮮映画は戦場に向かう「志願兵」たちをどのように描いたか?
戦後の日本映画は、朝鮮人志願兵の面影をどこに残したか?

定価2,640円(本体2,400円+税)

四六判・並製、176ページ
発行・発売 編集グループSURE

四方田犬彦『志願兵の肖像──映画にみる皇民化運動期の朝鮮と戦後日本』 刊行のごあいさつ

日本統治時代(1910-45年)の朝鮮では、サイレントからトーキーへと、多くの映画作品が製作されました。

しかし、これらは、のちの時代に、日韓双方の社会から「負の遺産」「暗黒期」の作品とみなされたまま、今日まで十分な調査・研究がなされずに来ています。

 四方田犬彦さんは、当時の朝鮮映画に長く着目してきた、数少ない映画研究者の1人です。

日本で映画を研究する者にとって、植民地支配下に置かれた時代の朝鮮映画の解明は「責務」でもあると、四方田さんは述べています。  

本書『志願兵の肖像──映画にみる皇民化運動期の朝鮮と戦後日本』では、とくに日中戦争(1937-45年)下、「志願兵」制度に応募していく朝鮮人青年たちの描かれ方に注目しながら、四方田さんの論考が進みます。

これを通して、当時の「皇民化」運動が、朝鮮の青年にとって、外在的な官製キャンペーンから内発的な行動へと深化させられていく、切実な過程でもあったことがうかがえます。

 また、戦後の日本映画が、こうした朝鮮人「志願兵」の面影をどこにとどめて、新しい時代の表現に向かってきたのかということも、もう一つの問いとされています。  

本書は、読みやすい講義形式によるもので、聞き手は作家・黒川創らがつとめます。

 いまだ例のない、異色の映画史論です。21世紀の世界が、混迷を深める今こそ、隣人との相互理解に向かう一助として、ゆかりの読者のみなさまにご一読をお願いしたく存じます。

2023年 皐月

編集グループSURE(代表・北沢街子)


四方田犬彦さん 1953年生まれ。映画史家、評論家。著書に『アジアのなかの日本映画』『日本のマラーノ文学』『大島渚と日本』『李香蘭と原節子』『戒厳』『パゾリーニ』など多数。
 
◆娯楽通じ一体化浸透

[評]藤井克郎(映画ジャーナリスト)
 批評家、研究者には、かみ砕いて解説するタイプととことん追究するタイプがあるが、著者のトークや講演は極めて簡明で、ぐいぐい引き込まれる一方、著書の多様さ、研究熱心さにも恐れ入る。
その両面性を如実に物語るのがこの本だ。
 戦前の日本統治下での朝鮮映画の系譜が作家の黒川創氏らへの講義という形でつづられ、皇民化を映画という娯楽を通じていかに浸透させたかが明快に示される。
中でも朝鮮人監督による三本の映画の比較が興味深い。
一九三八年の『軍用列車』には国家を裏切る売国奴も出てくるが、四一年の『志願兵』の主人公は積極的に徴兵制を受け入れ、同年の『君と僕』では日本と完全に一体化。
民族を超えた恋の成就まで描かれ、著者は「皇民化政策の目標実現」と言い切る。
 戦中、朝鮮で国策映画を撮った今井正や、その作品をのめり込んで見た大島渚らの戦後の向き合い方まで論じるが、徹底して平易な語り口調でわかりやすい。戦時下における朝鮮半島の文化研究のとば口になる一冊と言えるだろう。
(編集グループSURE・2640円)
直販のみ。ホームページ=「編集グループSURE」で検索=を参照。問い合わせは(電)075(761)2391。
1953年生まれ。映画史家、評論家。著書『パゾリーニ』など。
 
◆もう一冊
『帝国日本の朝鮮映画 植民地メランコリアと協力』李英載(イヨンジェ)著(三元社)

映画 隣の女

2023年08月07日 11時34分15秒 | 社会・文化・政治・経済

8月7日午前2時40分からCSテレビのムービープラスで観た。

人生論的映画評論: 隣の女('81) フランソワ・トリュフォー
人生論的映画評論: 隣の女('81) フランソワ・トリュフォー
人生論的映画評論: 隣の女('81) フランソワ・トリュフォーzilge.blogspot.com
 

隣の女』(La Femme d'à côté)は1981年公開のフランスの恋愛映画フランソワ・トリュフォー監督。

偶然、隣の家に越してきた昔の恋人との愛の悲劇の物語。キャッチコピーはラストシーンでも使われたセリフ「Ni avec toi, ni sans toi(一緒では苦しすぎるが、ひとりでは生きていけない)」

ストーリーは、『黒衣の花嫁』のあとジャンヌ・モローシャルル・デネルの共演を想定して『愛の軌道』のタイトルで書かれたものをファニー・アルダンジェラール・ドパルデュー用に書き直したもの。

エディット・ピアフシャンソンにインスパイアされたという。

ストーリー

ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)とアルレット(ミシェール・ボームガルトネル)の夫婦と息子のトマ(オリヴィエ・ベッカール)が暮らす家の向かい側に、マチルド(ファニー・アルダン)とフィリップ(アンリ・ガルサン)の夫婦が引っ越してきた。

アルレットは夫婦を食事に誘ったが、ベルナールは残業で遅れると嘘を言ってすっぽかした。

ベルナールとマチルドはかつて恋人同士だったことがあり、彼女と顔を合わせたくなかったのだ。

しかし隣同士で逃げ切れるわけもなく、2人は昔のように深い仲になっていった。

フィリップが留守にしたすきにホテルの一室を借りて愛し合った2人だが、マチルドの方はもうこれっきりにしようと言い出した。

マチルドはフィリップと旅行に出かけることにしたが、出発前のパーティーで、ベルナールは強引にマチルドに迫り、2人の関係は衆目の知るところとなった。

旅先でマチルドとフィリップの間には気まずい空気が流れた。苦悩するマチルドは神経症の発作で病院に運ばれ、誰に対しても心を閉ざすようになった。

一方、ベルナールは妻の妊娠を知り、彼女につきっきりになった。

ある晩、ベルナールは空家となった隣家から物音を聞いた。行ってみるとマチルドの姿があった。2人は再び愛し合ったが、セックスの最中にマチルドは拳銃に手を伸ばし、ベルナールと自分の頭を撃ちぬいて死んだ。

町の住人が集うテニスコートの管理人で、マチルドとベルナールの激しい恋を見守っていたマダム・ジェーヴは、2人の墓碑銘として、このように告げる。

「あなたと一緒では苦しすぎる。でもあなたなしでは生きられない。」

キャスト

解説
役名 俳優  
 
ベルナール・クードレー ジェラール・ドパルデュー  
マチルド・ボーシャール ファニー・アルダン  
フィリップ・ボーシャール アンリ・ガルサンフランス語版  
アルレット ミシェル・ボートガルトネルフランス語版  
マダム・オディール ヴェロニク・シルヴェールフランス語版  
ローラン ロジェ・ファン・ホールフランス語版   
トマ オリヴィエ・ベッカール  
不明
その他
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隣の女 : 作品情報 - 映画.com
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映画『隣の女』のネタバレあらすじ結末と感想。無料視聴できる ...

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映画『隣の女』の概要:かつて愛した恋人が隣の家へ引っ越してきて、平穏だった2組の夫婦の日常は崩壊していく。正気を失うほど男を愛してしまった女の情念がすさまじい。フランソワ・トリュフォー監督作品。1981年公開のフランス映画。

映画『隣の女』の作品情報

隣の女

製作年:1981年
上映時間:86分

映画 情痴 アヴァンチュール

2023年08月07日 11時15分28秒 | 社会・文化・政治・経済
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8月7日、スイミングプールに次いで、午前3時45分からCSテレビのザ・シネマで観た。
 

夜の街を徘徊する夢遊病の女性と彼女に魅了された男性の関係は意外な方向へ。

「スイミング・プール」の人気女優L・サニエが魔性のヒロインを妖艶に演じたラブサスペンス。

「スイミング・プール」「焼け石に水」などフランソワ・オゾン監督との一連のコンビ作で小悪魔的な魅力を発揮し、フランス映画界きっての人気女優となり、近年もドラマ「Lupin/ルパン」で再注目を集めているサニエが主演。本作で彼女が演じるのは、夢遊病に冒されたヒロインだが、サニエはミステリアスなムードたっぷりに好演し、大胆なヌードも披露。

相手役を務めた「さよならS」のN・デュヴォシェルとは実生活でも恋に落ち、1児をもうけることとなった。共演は「不完全なふたり」のB・トデスキーニ。

 
夢遊病に冒された女と、彼女に魅了された男との危険なアヴァンチュールを描いた心理ミステリー。トラウマに苦悩するガブリエル役には、リュディヴィーヌ・サニエ(「スイミング・プール」)、ガブリエルに魅せられるジュリアン役には、ニコラ・デュヴォシェル(「さよならS」)が扮している。監督は「加速する肉体」のグザヴィエ・ジャノリ。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

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ジュリアン(ニコラ・デュヴォシェル)は恋人のセシルとパリのアパルトマンで同棲していた。ある日、仕事から帰ってきたジュリアンは、アパルトマンの入り口でガラス越しに彼を見つめる裸足の女性(リュディヴィーヌ・サニエ)に気づく。

思わず彼女を追いかけるジュリアン。しかし彼女は夜の闇に消えてしまった。

別の日の日中、ジュリアンはスーパーで子供を連れた彼女を見かけた。

まるで別人のように美しい彼女の後をつけるジュリアン。

彼女は彼の向かいのアパルトマンに恋人と住んでいるらしい。そしてジュリアンは、夜になるとフラフラ現れる彼女・ガブリエルが夢遊病患者であることを知る。

近所同士の友人として次第に親しくなっていく二人。

ガブリエルは次第にジュリアンの生活に介入するようになり、セシルは不快感を露にする。

ある晩、ガブリエルとその恋人ルイ、そしてジュリアンとセシルの四人で会食した後、ガブリエルの不安定な感情が爆発した。

ジュリアンは心に闇を抱えるガブリエルを救ってあげたいと思うようになる。実は既婚者であるルイから強制的にガブリエルを引き離し、精神科医の治療を受けさせるジュリアン。

少しずつ彼に心を開き始めるガブリエル。

しかし一方でジュリアンに不信感を募らせたセシルは別れ話を切り出した。

4人の関係は今や一触即発の危ない空気をはらみ始めているのだった……。

キャスト

リュディヴィーヌ・サニエ
ニコラ・デュヴォシェル
ブリュノ・トデスキーニ
フロランス・ロワレ=カイユ
アントワーヌ・ドゥ・プレケル
エステル・ヴァンサン

 
スタッフ

監督、脚本

グザヴィエ・ジャノリ

脚本

ジャック・フィエスキ

製作

エドワール・ヴァイル

 

 

 


映画 スイミングプール   

2023年08月07日 10時41分04秒 | 社会・文化・政治・経済
 
8月7日午前1時45分からCSテレビのザ・シネマで観た。2度面である。
 

『スイミング・プール』(Swimming Pool)は、2003年にフランソワ・オゾンが監督した映画。

ストーリー

中年の非社交的なイギリスの女性推理作家「サラ」は、漠然とした不満を、出版社の社長「ジョン」に訴える。評判高い「ドーウェル警部シリーズ」はマンネリで、テリー・ロングら新人作家の台頭も嬉しくない。ジョンは、自分が所有するフランスにあるプール付き別荘で、気分を変えた新作の執筆を勧める。

サラは共に暮らす老父をロンドンへ残し、ジョンが後から来るのを期待しつつ、南フランス山中リュベロンにある別荘へ管理人「マルセル」の案内で到着する。プールの覆いをめくると、枯れ葉が浮いている。

静寂の中、持ち込んで来た愛用のラップトップパーソナルコンピュータで執筆を始めたある夜、しばらく仕事を休むと言いながら、ジョンの娘と名乗る「ジュリー」がやって来る。ジュリーは清掃していない枯葉浮くプールを全裸で泳ぎ、静寂を乱されたサラと衝突する。

サラが昼食に通うカフェのウェイター、「フランク」は隣村から来ているという。
サラは昼食後、別荘へ戻り自室で午睡する。
ジュリーは、いつものビキニではなく白いワンピーススタイルの水着で泳ぎ、プールサイドでまどろむ。横に立つフランクはジュリーを見下ろしながら、互いに自分の秘所を自慰する。だが、これはサラの妄想だった。

ジュリーの振舞いに関心を持ち始めたサラは、執筆中の作品に並行して創作を始め、それを収めPCのデスクトップに置いた仮題フォルダー名称を「ジュリー」に変更する。プールサイドを掃除中のマルセルに連れ込んだ男を紹介するジュリーを眺め、ジュリーの日記を盗み読み、プールサイドに落ちていたジュリーの下着を自室へ拾い込んだりしながら、サラは執筆を進める。

サラが誘った食事の席で、ジュリーは男性遍歴と生育過程を語る。
母は、フランス人で今はニースに居り、私的な恋愛小説を書いたがジョンにけなされ燃やした、ジュリーの母とジョンは夏だけの関係で結婚せず別れた、などと告げる。

ジュリーはサラの作業机引き出しを漁り、自身が題材らしき作品原稿のプリントアウトを見つけ、食い入るように読む。

次にジュリーが連れてきた男はフランク。3人で踊るが、ジュリーはサラに興味がありそうな彼を引き留め、真夜中のプールで全裸で遊ぶ。サラはプールに石を投げ込んで牽制し、寝てしまう。

翌日サラは、目覚めのコーヒーを啜りながらプールを眺め、異変を察知する。庭へ出るとプールは覆われて怪しげな膨らみが見える。慌てて巻き取ると、ジュリーが使うクッションだった。安心して昼食へ出掛けた行きつけのカフェでは、フランクが休んでおり家を訪ねるが不在。マルセルの家では、彼の配偶者に見える小さな女性が自分は彼の娘だと告げ、ジュリーの母は事故で死んだと言いながら扉を閉じる。

ジュリーは錯乱し、自分の母と思い込みサラに泣きすがるが、落ち着いた後サラに問われて彼女の作品のためにフランクを殺害した、と告げる。死体を庭に埋め、衣類は焼いて後始末を終えるが、ジュリーは、サラの作品「ジュリー」も証拠になるから焼いて欲しいと頼む。読んではいないが、想像できるから、と。一夜明け翌日、サラは平静を装うため芝刈りをマルセルに依頼するが、新しい掘り返しの痕跡に不審を抱かれ、初老のマルセルを誘惑して口封じする。

ジュリーは、サントロペの知人のレストランで働くと告げて別荘を出る。燃やされたはずの母の小説コピーが、サラ宛に残されていた。

ロンドンの出版社で新作原稿に目を通したジョンは、感覚的だから出版しない方が君にも読者のためにも良いと、告げる。思っていた通りだとサラは笑い、製本された新作を一冊取り出す。表紙は金髪女性が白いワンピース水着で泳ぐ写真、題名は「スイミング・プール」である。

「私の最高傑作よ。サインしたから娘さんにあげて」、の言葉にジョンは黙り込む。「ドーウェル警部シリーズの新作で最高の扱いをするとテリー・ロングの母に伝えて欲しい」と言い残しながら、サラはジョンのデスクを離れる。オフィスから去り際、矯正用歯冠をはめた地味な娘を見かけ、受付嬢の会話を漏れ聴くとジョンの娘で名前は「ジュリア」らしい。場面転換してリュベロンの別荘でバルコニーから手を振るサラ、水から上がりプールサイドから歯冠をはめたジュリアが振り返す、手を振るサラ、プールサイドからジュリー振り返す、手を振るサラ……。

人物

サラ・モートン
イギリス人でフランス語も話す。推理小説作家で人気作「ドーウェル警部」シリーズの著者である。経済的には恵まれている。老年期を前にして[2]、職業的にもスランプで、「君はプロットに困っていないじゃないか」とは言われるが、「殺人とか、捜査とか、もううんざり」「(テリー・ロング、またはその他の)新人の相手ばかりして、私はほったらかし」と不満を口にする。カーキ色のコートなど服装は地味。アルコール依存の傾向があり、ロンドンで朝からバーでウイスキーをあおり、リュベロンの別荘でも酒を飲みながらテレビを見てうたた寝をする。老父と二人暮らし。非社交的で静謐を好み、ロンドン地下鉄車内で向いの席に座ったシリーズ読者に話しかけられ「人違いだ」と席を立ったり、別荘到着時に家に電話したときには老父から「誰かに会ったか」と聞かれ「いいえ、必要ないわ」と断っている。ジョンとは売れっ子作家と版元社長の関係だが、以前に男女の関係にあったことを示唆させる。食には保守的で、南仏でもノンカロリーヨーグルトにダイエットコークといった大量生産品にトマトの食事をとり、地元で加工された食品を購入していない。村のカフェでは食前酒(南仏に種々産する)やパナシェを勧められても(イギリスでは一般的だが当地ではコーヒーより一般的ではない)紅茶を注文する。

人物造形にあたって、ランプリングは実在の女性推理作家、ルース・レンデル、PD Jamesやパトリシア・ハイスミスを参考にしている[3]。1970年代で時間が止まったようで、男性的、レズビアン的、夢想に溺れやすい傾向も人物造形に反映された[4]。

推理作家の設定そのものはランプリングの経歴と重なる所は少ないが、若い頃には美貌で鳴らしたものの不振をかこち精神的にも鬱屈した時がある[5]ところなど、背景にある情動は重なるところが多いとする評がある[6]。また、共演のサニエは「最初は脅されているかと思った」と撮影終了後に打ち明けており[7]、この記事の筆者も個人的印象として「見かけと自制の気配がランプリングをわずかに威圧的に感じさせている」と記している。

また、"Sarah"は30年以上にわたって死因が自殺であることが伏せられていたランプリングの姉の名前である[6]。

ジュリー
フランス人で英語も話す。
ジュリー本人の弁によればジョンの娘で母はフランス人。
定職には就いていない。運転免許を持ち、プジョーを運転している。
「交通事故のため」という手術痕が上腹部正中にある。演じたサニエの表現では「誰から見てもわかりやすいセックスシンボルで[4]」「下品の一歩手前で、いつも裸[8]」「南仏の女の子のステレオタイプ。積極的で、ある意味かわいくて、セクシーで、情緒的で哀れを誘うタイプです。見てすぐにわかりますよね。でも、映画が進むとどんどんサラの想像力の対象になってきて、インスピレーションの源になるんです[9]」「あばずれで、無頓着で、苦しんでいて、構ってほしくて、愛情がほしくて、愛情の埋め合わせに毎晩違った男を連れ込んでいるんです」

サニエは肌を露出させるシーンが多いジュリーを演じるにあたって「まず減量です。ランプリングがラザニアを食べているところで、私は魚と蒸した野菜で我慢しなければいけませんでした」「日焼けしてこういう服を着て派手な化粧をして、ここまで細工をされては、鏡を見ても自分だとわかりませんでした[9]」と言っている。

監督の当初の構想では男だったが、女に変更された。
若い男と中年女という典型的パターンを避けるためという。

ジュリア
ジョンの娘でそばかす面をした平凡な外見、やや小太りのイギリス人。
ジョンの事務所に面会に来る結末のシーンのみ登場。
矯正用歯冠をはめているためジュリーより年下と推測される。
サラとすれ違っても視線を合わせず、面識はないと考えられる。

キャスト

サラ・モートン - シャーロット・ランプリング
ジュリー - リュディヴィーヌ・サニエ
ジョン - チャールズ・ダンス)
フランク - ジャン=マリー・ラムール
マルセル - マルク・ファヨール
マルセルの娘 - ミレーユ・モセ

監督は自身の公式サイトにおけるこの映画のインタビューで「次々と多くの映画を作り続けて、その想像力の源を聞かれることが多かったので、それに答えるため」、また「映画監督自身よりイギリスの女性推理作家に投影するのが良いだろうと考え」てこの映画を作ったという。

解釈
作中の現実と虚構の区別について様々な解釈が示されている。「……自分自身の態度について、あるいは誰の『現実』を見ているのか、我々は全く不明である」[12] あるいは「間違いなくこの映画の核心は、見ているものが信じるべきであるかどうかという疑問である」[13]などの評がある。 ランプリングとサニエの対談においても [8] 司会者の「見たものの信憑性がはっきりしない謎の作品ですね。現実なのか? 空想なのか? 文学上の創作物なのか? しかも結末も未解決です。監督から何か手がかりはありましたか?」という質問に対しランプリングは「いいえ、ありませんでした。そのうえ、監督自身もどんな結末を導くのが良いか判らないと、子供のような笑顔で言っていますね……」と答え、サニエも「この映画は空想を考察しているので、観客の側にも空想の可能性があるわけです。監督は、それについてはとても寛大なのだと感じました。」と述べている。

監督も、indieWIREのインタビュー[14]に「空想と現実がどのようにつながっているのか、すごくじらしていますね。現実が空想に転じる決定的な瞬間はあるのですか?」とたずねられて「鍵を渡したくありません。もちろん自分の意見はありますが、結末は謎のままにして、観客各人が思うようにしておきたいのです。観客が自分自身の映画を作ることが出来る映画なのです。」

ジュリーの正体については、「(ジュリーが何者かという)先ほどの質問ですが、結末から来るものです。多くの可能性があると思うのです。最初から架空の人物なのか、出版社社長の実在の娘を基にしているのか、実在の人物で空想に入り込んだのか。」という質問[9]に代表される。 サニエはこれに対して「それは皆さん次第ですね。この映画で私が気に入っているのは、ジュリーはサラの空想を映し出したに過ぎないとしてもいいし、出版社社長の娘で本当に頭がおかしくなっているとしてもいいし、あるいは全てサラの頭の中だと考えてもいい。どう考えるにしても、間違いというわけではないですから。」と答えている。

 


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

 
映画「スイミング・プール 」ネタバレあらすじと結末・感想 ...
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スイミング・プールの上映スケジュール・映画情報|映画の時間
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