人間は一人では生きられない

2025年02月12日 11時29分37秒 | その気になる言葉

▼大情熱こそ生の証であり、勝利の道を開く。

▼<自分には無理>という「諦めの心」。

人間の可能性を狭めてしまうのは悪条件という<杭>ではなく、過去の経験などからの<諦め>ではないか。

私たちの人生には、前進を阻むさまざまな悩みの杭がある。

しかし、境涯が開けば、大きかった悩みも小さく感じられ、悠々と勝ち越えていけるはずだ。

▼競争よりも協調が、効率よりもゆとりが、物の豊かさよりも、心の豊かさが、求められる時代だ。

自分が「してもらう」のではなく、わずかでもいい、自分には「何ができるか」を考える時代だ。

▼高齢社会は皆が人生をより美しく輝かせていく可能性を帯びている。

そのためには、確かな哲学と豊かな連帯が不可欠だ。

▼人間は一人では生きられない。

また一人も置き去りにしてはならない。

勇気を出して一人また一人と対話するほど楽しくなり、勇気も倍加するだろう。

▼労苦と使命のなかのみ、人生の価値は生まれる。

▼真実の勝利の人生を歩み抜くためには、自分を支えてくれる「善き友」の存在が絶対に必要なのだ。

▼どんな困難にも、希望を忘れず生きていける<人生の哲学・指針>が必要だ。


崖っぷち「立花孝志」/「執行猶予4年」の身の上に追い打ち

2025年02月12日 11時19分00秒 | 社会・文化・政治・経済

/東京地裁が「反社会的カルト集団」判決

本人は「執行猶予4年」の身の上。「サリンをまかないオウム」などと評しても違法でないとする判決が出た理由。

2025年1月号 DEEP 総合情報誌「FACTA」

国や自治体の選挙に出ては「NHKをぶっ壊す」と言い続けてきた立花孝志氏。

11月27日に党首を務める「NHKから国民を守る党(N国党)」を「サリンをまかないオウム」などと評しても違法ではないとする東京地裁の判決が出た。

なぜそうした判断となったのか。立花氏やN国党は、何を目的に活動しているのだろうか。

「違法性を欠く」と結論

判決が出たのは、選挙を取材してネットに有料記事を書く「選挙ウォッチャーちだい」(石渡智大氏)がXに投稿するなどした内容は名誉毀損として、N国党が160万円の損害賠償を求めた訴訟。

争点は、7月7日投開票の東京都知事選でN国党への寄付者が同党関連候補24人の選挙ポスター掲示板に無関係のポスターを張ったことなどを巡る次の三つの内容が名誉毀損かどうかだ。

▽今日も反社会的カルト集団「NHKから国民を守る党」が展開しているポスター掲示板のショバ代ビジネスについて、無料で記事にし ………


防犯カメラで<安心>高まる!

2025年02月12日 10時58分49秒 | 社会・文化・政治・経済

昨今、安心して暮らせる住環境を求める声が高まる中、一軒家の防犯対策はますます重要性を増しています。

特に防犯カメラは、犯罪抑止効果や不審者の特定に大いに役立つことから、多くの家庭で導入が進んでいます。

しかし、どのようなカメラを選び、どのように設置すれば最大限の効果を発揮できるのでしょうか。

この記事では、一軒家に最適な防犯カメラの選び方から設置方法、さらには実際に安心生活を手に入れたオーナーの成功事例までを徹底解説します。

これから防犯カメラの設置を考えている方はもちろん、既に導入している方にも役立つ情報満載です。

あなたの大切な住まいを守るための第一歩を一緒に踏み出しましょう。

防犯カメラ選びのポイント!一軒家に最適なシステムを徹底比較

防犯カメラの設置を考えている一軒家の皆さんには、それぞれに異なるニーズや状況があるでしょう。まず、選び方の基本として、住宅のセキュリティを強化するためのカメラシステムを選ぶ際のポイントを押さえておくことが重要です。

まず、カメラの画質について考えてみましょう。高画質カメラは、犯罪抑止力としても、万が一の際の証拠収集としても非常に有効です。特に顔の識別ができるレベルの解像度を持つカメラを選ぶと安心です。

次に、カメラの設置場所と視野角も重要です。玄関や裏口、ガレージ周辺など、侵入経路となりやすい場所をカバーすることが必要です。広い視野角を持つカメラを選ぶことで、死角を減らし、より広範囲を監視することができます。

また、夜間の監視を考慮するなら、暗視機能が搭載されたカメラを選ぶことがポイントです。赤外線対応のカメラを選べば、夜間でも鮮明な映像を記録できます。


公明党の存在意義

2025年02月12日 10時55分47秒 | 社会・文化・政治・経済

公明党の存在意義は、「三つの力」を力説することです。

その一つが「現場のニーズを把握するネットワークの力」であり、地域に根差した議員が互いに連携し、小さな声に耳を傾け、国政に反映させる公明党のネットワークは、連立政権にとっても重要な機能です

また、公明党は「大衆とともに」を貫き、国民の期待に応えるために、地域での党員や地方議員による日常的な活動を行っています

公明党は、〈生命・生活・生存〉を最大に尊重する人間主義を貫き、人間・人類の幸福追求を目的とする、開かれた国民政党です

連立政権での存在意義

公明新聞:2016年6月12日(日)付

ネットワーク、安心の税制、対話外交の「三つの力」生かす

公明党の山口那津男代表は9日の記者会見などで、自公連立政権における公明党の存在意義として、「三つの力」を力説しました。

その一つが「現場のニーズを把握するネットワークの力」です。地域に根差した議員が互いに連携し、小さな声に耳を傾け、国政に反映させる公明党のネットワークは、連立政権にとっても重要な機能です。

熊本地震の被災者支援では、現場に即したきめ細かな支援を次々と実現し、義援金差し押さえ禁止法を早期に成立させました。こうしたネットワークを生かしたスピーディーな政策実現は、公明党ならではの実績です。

二つ目は、「消費税の軽減税率導入など税制に安心感を生む力」です。公明党は、社会保障制度の維持・充実へ「社会保障と税の一体改革」を推進。この中で、所得が低い人ほど消費税負担が重くなる逆進性対策として、軽減税率導入の推進力となってきました。

公明党は、2019年10月の消費税率10%への引き上げ時に軽減税率が円滑に導入できるよう環境整備に全力を尽くす決意です。

三つ目は、「平和外交を進める対話の力」です。公明党は、中国や韓国との対話、交流を絶やさず続け、関係改善の突破口を開いてきました。「核兵器のない世界」に向け、オバマ米大統領が現職大統領として初めて被爆地・広島を訪れたのも、公明党が米国要人らとの対話を通し、実現を働き掛けてきたものです。

公明党の対話重視の外交姿勢は、日本の平和外交に大きな役割を果たしています。


こどもホスピス 全国に

2025年02月12日 10時50分02秒 | 医科・歯科・介護

「こどもホスピス」を全国に普及させたいー。こども家庭庁の展望。

こどもホスピス

この記事は約 7 分で読むことができます。

こんにちは、翼祈(たすき)です。

こどもホスピス』とは、小児がんなどの命に関わる病気や重い障害を抱える子ども達が、専門知識を持った看護師などの医療や教育の支援を受けながら、家族と一緒に暮らせる施設のことを指します。『こどもホスピス』では医療的ケアが必要な子ども達の一時預かりや、小児がんを患う子どもの緩和ケアなどを行います。

日本国内においては、2012年に大阪府大阪市の淀川キリスト教病院に併設されるカタチで『こどもホスピス』が産声を上げた後、医療機関併設ではない民間運営の「コミュニティー型」の『こどもホスピス』が大阪、横浜の2ヵ所に開設されました。開設を目指す動きは北海道、東京、長野、福井、福岡、沖縄など各地で拡大していますがそれには資金の壁があります。

今回は2022年11月に、こども家庭庁が取りまとめた、『こどもホスピス』開設までの展望について、お知らせします。

2022年11月、国が全国に『こどもホスピス』開設に向け、協議を開始

命に関わる病気や重い障害を抱える子ども達が、支援を受けながら遊んだり学んだりして、家族と一緒に生活出来る『こどもホスピス』に関して、小倉将信こども政策担当相は、2023年に発足するこども家庭庁を主になって、『こどもホスピス』の普及へのサポートの在り方を検討していく考えを話しました。日本国内の『こどもホスピス』の施設数がまだまだ足りないので、全国普及が目標です。

『こどもホスピス』開設や運営に背中を押す為、2022年11月17日、自民・公明両党の議員連盟の初会合が開催され、小倉こども政策担当相も出席しました。議連には、既に『こどもホスピス』を建設して子ども達を受け入れている施設や、今後『こどもホスピス』開設を目標に掲げる日本各地の市民団体の関係者や医師らも出席。行政側のサポートの課題を整理しながら、地域社会に『こどもホスピス』が根付くことの定義を確認し合いました。

「ホスピス」というと「みとり」のイメージが連想されますが、イギリス発祥の『こどもホスピス』がポイントとして挙げるのは「生きている今」を豊かにする取り組み

自宅と病院の間に立つ存在を『こどもホスピス』が担い、「もっと遊んだり学んだりしたい」という子ども達の願いを最大限叶えてあげたいという『こどもホスピス』が目標です。

議連は、会長に井上信治衆院議員、副会長に小倉こども政策担当相、永岡桂子文部科学相らが就任しました。設立総会では、井上衆院議員が『こどもホスピス』の財政面や認知度といった課題を挙げた中で、「来年の4月からこども家庭庁が発足するということですし、政府の方は『こどもホスピス』窓口を一本化をし、そして、関係省庁と連携を行いながら、この『こどもホスピス』の課題にも取り組んで欲しい。『こどもホスピス』に制度がないことでは、行政のサポートをなかなか求められない。介護、医療、教育、障害者福祉のはざまに制度が壊れてしまっている役所の縦割りの問題も起こっていて、何とかしていきたいと思います」とあいさつ。

また永岡文部科学相は「病院や自宅などで療養中のこども達に教育機会を保障することは誠に重要な案件。色んな課題を持つ子ども達の可能性を最大限発揮出来る様な、連携して『こどもホスピス』のことを実現していきたい」と語りました。

『こどもホスピス』の運営に関しては、医療や福祉、教育など省庁を横断する対応が行政に必要とされています。14団体が参加する「全国こどもホスピス支援協議会」は、行政の窓口を一本化する計画や「医療併設型」「福祉施設型」「コミュニティー型」という運営形態に応じた財政サポート、財政実態に関しての調査研究などを要望。行政の領域横断的な連携を取る事で、第4期がん対策推進基本計画などに導入することも要望しました。

議連では、認定NPO法人や医療関係者などが、『こどもホスピス』運営に応じる行政側の窓口一本化や財政支援を求めました。

議連に出席した小倉こども政策担当相はこの件に関して「こども家庭庁の大きな役目は縦割り打破です。『こどもホスピス』においては非常に重要なメインテーマでもあります。来年4月にこども家庭庁が発足するからこそ、こども家庭庁が文部科学省などと連携し、大きく『こどもホスピス』開設に向け、前進したと思って頂ける様にしたい。こども家庭庁は、病気や障害に苦しむ子ども達が幸せに生活出来る社会を実現する使命もあります。ご家族の負担を軽減し、子ども達に向き合うゆとりを持たせる」と話し、2023年4月に発足するこども家庭庁を主軸に、『こどもホスピス』普及に向け、前向きなサポートの在り方を検討していく意向を述べました。

具体例では、日本各地の『こどもホスピス』の現状を理解し、日本全国に浸透させていくためには、何が必要かを検証していく方向性です。

参考:こどもホスピス議連発足 普及目指し「縦割り打破へ」 毎日新聞(2022年)

議連には、日本各地の『こどもホスピス』関係者が出席し、オンライン上でも参加されました。この中で、認定NPO法人「横浜こどもホスピスプロジェクト」の代表理事の男性が挨拶を行いました。

認定NPO法人「横浜こどもホスピスプロジェクト」の代表理事の男性は今から24年前、次女を悪性脳腫瘍で亡くしています。当時6歳だった次女は「余命半年」と宣告を受けた後でも、右手が動かなければ左手を使おうとし、最期の時まで懸命に成長していきたいとしていました。

そして認定NPO法人「横浜こどもホスピスプロジェクト」の代表理事の男性は「短い命であっても、その生を全うした姿を介して、子ども達を大事にしていかなくてはと気付かされました」と『こどもホスピス』設立の取り組みを始めた理由を振り返り、「小児緩和ケアの医療体制が推奨されるドイツ、イギリス、オランダみたいに、どんなに重い病気を抱える子ども達でも、地域の方々にその姿を見守られながら成長していくことが可能な『こどもホスピス』を日本にも根差していきたい」と語りました。

以前、医療的ケア児について記事を書きました。

あの時の記事の最初の記事は、こちらにも出て来る、認定NPO法人「横浜こどもホスピス」が、移動式のメリーゴーラウンドを設置する為に、クラウドファンディングを呼びかけていたという内容でした。そのクラウドファンディングは目標額が集まり、無事「横浜こどもホスピス」のうみとそらのおうちにメリーゴーラウンドが設置されたとの後日談を観ました。

あれから数ヵ月経ちましたが、医療的ケア児の支援はまだまだ進んでいませんね。今では子育て本を出したり、写真展を開いたりするご家族もいらっしゃいますが、そこまでなるには相当な時間を要したと思います。支援が足りない中で、懸命にお子さんと向き合って来たと思います。私は子どもの頃は病気を風邪くらいしかしない子でしたが、今の自分が小さい頃の自分だったら、両親はもっと私にかかりっきりだったのではないかとも思います。

まだこども家庭庁自体は正式な発足は来年からとなりますが、『こどもホスピス』が全国に出来ることで、助かるご家族は多いかと思います。この議論が成立し、是非実現へと動いて欲しいですね。

 


映画 アイズ ワイド シャット

2025年02月12日 10時37分59秒 | 社会・文化・政治・経済

2月11日午前11時45分からCSテレビのムービープラスで観た。

アイズ ワイド シャット』(Eyes Wide Shut)は、1999年製作の映画。スタンリー・キューブリック監督の遺作となった。原作はアルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』(1926年)。

主演の2人に加え、結果的に監督の遺作となったという話題性も上乗せされて、7月以降のロードショーでは世界的なヒット作となった。

タイトルの Eyes Wide Shut は、英語の常套句 "(with) eyes wide open"(目を大きく開いて)をもじった一種の言葉遊びで、結婚にまつわるベンジャミン・フランクリンの警句が直接の出典とされ、さらに遡って『テンペスト (シェイクスピア)』をルーツとする指摘もある。なお、当映画の試写会5日後に監督スタンリー・キューブリックは急死する。死因は発作要因不明の心臓発作とされている。

アメリカでの公開は性的シーンによってNC-17(成人映画扱い)の指定を避けるため(ワーナーとの契約でR指定が条件だった)、キューブリックの右腕であったレオン・ヴィタリ監修で性交シーンには後ろ姿のヌード・モデルやローブを着た男女の人影などが合成されて、R指定で公開された。日本では無修正版で公開され、R-18(成人映画扱い)に指定されている(アメリカでのビデオ販売の際はVHS、DVDでは無修正のUnrated版とR指定修正版が併売されていた。Blu-rayでは無修正版のみ)。

あらすじ

ニューヨークの医者であるビルと妻のアリスは、ビルの患者で大富豪のジーグラーが開いた盛大なクリスマス・パーティーに招かれる。広間でピアニストとして演奏する旧友のニックと再会するビル。倦怠期を迎えているビルとアリスは、それぞれ相手を見つけてパーティーを楽しむが、ビルは医者として奥に呼ばれる。ジーグラーと裸でバスルームにいたマンディという若い女性がドラッグの過剰摂取で意識不明に陥ったのだ。ビルの適切な処置でマンディは一命を取りとめたが、ビルはこの一件を口止めされる。ビルが姿を消した理由を知らないアリスは、ビルが浮気したと邪推する。

翌晩、ビルを責めて、自分も色目を使ってきた若い海軍士官に興味があると挑発するアリス[3]。そこへ老患者のネイサンソンが自宅で逝去したという知らせが入り、ビルはタクシーで患者宅へ向かう。しかし、その車中で、ビルはアリスが海軍士官とセックスをしているという妄想を抱き、懊悩する。

ネイサンソンの枕元で娘を慰めていると、彼女は急にビルにキスをする。ほとんど会話したこともないハイミスの娘だが、愛していると迫られて、ビルは早々に屋敷を後にする。しかし、混乱して街を歩くうちにドミノという娼婦に声をかけられ、ビルは彼女のアパートに入ってしまう。

アリスからの電話を受け、ビルはドミノとはキスだけをして、金を払ってその場を去る。ピアニストのニックが出演しているバーを見つけ、ビルはニックと酒を酌み交わす。ニックはこの後、深夜2時から仕事があると言い、それが淫らな秘密パーティーでの演奏だと知ったビルは、ニックから無理に場所とパスワード(合言葉)を聞き出す。

深夜に貸衣装屋を叩き起こして、秘密パーティーに必要な黒マントや仮面を借り出したビルは、タクシーで会場の邸宅へ向かう。屋敷の中では裸の女たちと黒マントの客たちが仮面を被って享楽に耽っていた。しかし、ビルは大広間で黒マントの客たちに取り囲まれる。ビルが予定外の侵入者であることはバレていたのだ。仮面を外させられ、命の危険を感じたその時、ビルを知っている様子であった裸の女の一人が彼の代わりに罰を受けると申し出た。ビルは屋敷から追い出され、家に逃げ帰る。

翌日、ニックを探して宿泊先のホテルを訪れたビルは、ニックが早朝にチェックアウトし、同行して来た強面(こわもて)の男たちに連れ去られたとフロント係から聞かされる。ビルは貸衣装を返しに行き、マスクだけが無くなっていることに気づく。プレゼントを携えて、ドミノの部屋を再度訪れたビルだったが彼女は不在であり、同居人からドミノがHIV陽性だったと聞かされる。

そしてビルは、ジーグラーの屋敷で治療した若いマンディが麻薬中毒で病院に運ばれ死亡したという新聞の記事を読む。秘密パーティーで自分の身代わりになったのはマンディであり、そのために彼女は殺されたのだと考えたビルは困惑する。そんなビルを、ジーグラーが屋敷に呼びつけた。

ジーグラーは、昨夜の秘密パーティーに自分も参加していたと打ち明ける。パーティーに出席していたのは誰もが知る著名人たちであり、秘密厳守は絶対だった。ビルがパーティーのことを他所で喋ったり、これ以上の詮索をしないように、「死の恐怖という芝居」で脅したとジーグラーは説明し、マンディが身代わりで罰を受けると進み出たのも芝居だと語る。

ピアニストのニックは秘密を漏らしたペナルティでパーティーの用心棒に殴られたが、すでにシアトルの家に帰っており、マンディは麻薬中毒の娼婦で、パーティー終了後に自宅で過剰にドラッグを摂取し、偶然に事故死したのだという。

帰宅したビルは、無くしたと思っていたマスクが自分の枕の上に置いてあるのを発見する。ビルは泣きじゃくりながら、アリスにこの2日間の出来事を告白した。翌日、娘とともにクリスマスの買い物へ出かけたビルとアリスは、これから2人はどうするべきかを話し合う。アリスは「大事なこと」をすぐにするべきだと言い、ビルが何をするのかと尋ねると、彼女は一言「ファック」と返答する。

アイズ・ワイド・シャット

キャスト

 

製作

キューブリックがこの作品の映画化を志したのは、1970年代にまでさかのぼる。1972年には映画化権を取得するが、他作品の制作などに忙殺されるなどにより実現が危ぶまれた。1990年代に入りようやく制作が本格化し、共同脚本家に『ダーリング』でアカデミー賞を受賞したフレデリック・ラファエルが起用された。なおキューブリックは当初、作者と題名を伏せた原作をラファエルに送ったものの「古臭い内容だ。まさかシュニッツラーか?」との返事を受けた。2人によって内容は現代劇に改められ、またキューブリックの意志で儀式の描写が作品の要になることも決定した。

1995年12月、ワーナー・ブラザースは「キューブリック監督が新作を制作する。夫婦の嫉妬をテーマとした作品でタイトルは『EYES WIDE SHUT』、主演はトム・クルーズとニコール・キッドマンである」と発表した。私生活上でも夫婦であり、共に大スターでもあるクルーズとキッドマンの共演は大きな注目を集めるが(2人の共演は結婚後『遥かなる大地へ』から数えて2回目だった)、それゆえに「完璧主義の監督に、多忙なスターが合わせられるだろうか?」などと完成を疑問視する向きもあった。キューブリックは過去に、制作が中断した作品がいくつかあることも不信を高めた。

1996年11月から撮影が始まるが、キューブリックの意志により秘密裏に進められたため、その内容も全く外部へは知らされなかった。キャストの交代などにより撮影は長期化し、1998年4月まで延々400日以上に及ぶギネス記録となった(後述)。なおクルーズ夫妻はこの作品に臨むため、ロンドンへ移住していた。

撮了後はキューブリック1人の手で編集が行われる。音楽は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチの『ジャズ組曲 第2番 ワルツ2』(当時の名称)とジェルジ・リゲティの『ムジカ・リチェルカータ』が用いられた。キューブリック映画としては『時計じかけのオレンジ』以来となるステレオ録音である。

1999年3月2日、キューブリック、クルーズとキッドマン、WBスタッフの4人による極秘の0号試写が行われるが、5日後の1999年3月7日にキューブリックは急死する。その直後にキューブリック自身が手がけた予告編が公開された。

イルミナティによる秘密裏に行われていた儀式的娯楽を再現させた映画でこれを世間に公表したキュ-ブリックはイルミナティ幹部の逆鱗に触れ暗殺されたと言う説もある[要出典]

 


硫黄島 国策に翻弄された130年

2025年02月12日 09時32分51秒 | 社会・文化・政治・経済

小笠原諸島の南端に位置する硫黄列島。このエリアには複雑な日本近代史が刻み込まれている。
南方地域への進出を鼓吹する言説(南進論)の盛り上がりにより、農業入植地となり、日米の戦いでは凄惨な戦場となった。
その後は軍事基地として利用され、島民たちは島で暮らせない状況が続いている。
その知られざる軌跡を位置づける試み。
 
石原俊(いしはら・しゅん)
明治学院大学社会学部教授.1974年,京都市生まれ.京都大学大学院文学研究科(社会学専修)博士後期課程修了.博士(文学).千葉大学助教,明治学院大学准教授,カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員研究員などを経て現職.専門は,社会学・歴史社会学・島嶼社会論.

著書『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』(平凡社,2007年,第7回日本社会学会奨励賞受賞),『殺すこと/殺されることへの感度――2009年からみる日本社会のゆくえ』(東信堂,2010年),『〈群島〉の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島,日本・アメリカ,そして太平洋世界』(弘文堂,2013年),『群島と大学――冷戦ガラパゴスを超えて』(共和国,2017年). 共編著『戦争社会学の構想――制度・体験・メディア』(勉誠出版、2013年)など.
 
 もしもイーストウッド監督が本書を読んでいたならば と想像させる真実の書

最初に確認事項を先に述べておきます。
本書76ページに次のような記述があります。

1944年6月15・16日 米軍艦載機による硫黄島空襲があり、小笠原兵団長(109師団長)として赴任したばかりの栗林忠道中将(1891-1945)が民間人の本土への「引揚」について「阿南惟幾」陸軍大臣に具申しその返電が来た‥云々という内容です(本書 p.76)。

しかるに私の理解ではこの時点で陸軍大臣はまだ東條英機(1884-1948)が(首相・内相・参謀総長などのポストとともに)兼任していたのではないかと思います。
阿南惟幾(1887-1945)はこのとき第2方面軍司令官(階級は大将)でした。
この翌月の1944年7月サイパンが陥落すると東條英機内閣は総辞職し小磯内閣での陸軍大臣は杉山元(1880-1945)が再登板します。
最初の就任は1937年でした(林銑十郎内閣 → 第一次近衛内閣)。 
支那事変勃発時の陸軍大臣として(支那事変は日中戦争の当時の呼称)「支那は2カ月で片付きます」(ひと月説もあり)と上奏していたので日米開戦直前、参謀総長になっていた杉山は昭和天皇から「太平洋は支那よりずっと広いぞ!」と厳しくお叱りを受け頭を垂れて絶句し返す言葉がなかったという有名なエピソードがあります。
(例えば児島襄『児島襄戦史著作集volⅢ 天皇③』
文藝春秋 1979 p.63)
杉山再登板のあとの陸軍大臣は
①阿南惟幾(鈴木貫太郎内閣)
②東久邇宮稔彦王(東久邇宮内閣で総理が兼任)
③下村定(東久邇宮内閣 → 幣原内閣)となり
陸軍省廃止となって終わります。
果たして1944年6月15・16日当時阿南惟幾は東條英機に代わって陸軍大臣代行のようなことをしていたのでしょうか? ご専門の方にご教示いただけますと幸いです。

では次に硫黄島と私の関わりについて述べます。
要点は1)『数学セミナー』2)『硫黄島からの手紙』の2つです。以下で詳しく説明します。

1)私は十代のころ雑誌『数学セミナー』(日本評論社)で「硫黄島の激戦」という記事を読みました。
佐藤總夫(さとう・ふさお)(1931ー2002) による「微分方程式で解析する」(1977年5月-1981年4月)という連載のうちの一回です。内容は「ランチェスターの法則」(Lanchester's Laws) を用いて第二次世界大戦における硫黄島の戦闘(1945年2月19日-3月26日)を数学的に(量的に)解析したものです。

タテ軸に戦闘員数(単位は人)をとり ヨコ軸に日数(単位は日)をとり「ランチェスターの2次法則」(Lanchester's Square Law) から導いた微分方程式による理論値のグラフと米国海兵隊司令部発表による実測値のグラフがみごとに重なることが示されています。
つまり言い換えますと硫黄島の戦闘においては「ランチェスターの2次法則」が成立することが示されています。

さらに[日本軍が米軍に与える損害率]を[米軍が日本軍に与える損害率]で割った数値を[交換比]と呼びますが硫黄島の戦闘における交換比=5.132という結果が導かれています。
交換比の定義を考えますと「日本軍が米軍よりも5倍効率よく相手に損害を与えた」
ことを意味します。しかし日本軍の戦闘員数がほぼゼロになったとき米軍の戦闘員数は5万人以上ありましたから戦闘に勝利したのは米軍です。
戦闘に勝利することの定義は損害の大きさでもなく損害を与える効率のよさでもなく
「敵が全滅したとき(降伏したとき)生き残っている方が勝ち」だからです。

ちなみに「硫黄島の激戦」の記事はマサチューセッツ工科大学のJ.H.エンゲル(J.H.Engel)の論文
"A Verification of Lanchester's Law"(Operations Research,vol.2,1954)に基づいたものです。
また佐藤總夫による連載は後に単行本となりました。
具体例が豊富な名著です。
『自然の数理と社会の数理 Ⅰ』(日本評論社 1984)
『自然の数理と社会の数理 Ⅱ』(日本評論社 1987)をお読みになっていただけると幸いです。
「硫黄島の激戦」は「Ⅰ」の「第10話」です。

ちなみに「ランチェスターの法則」で知られるフレデリック・ランチェスター(Frederick Lanchester)(1868-1946)は英国の自動車・航空工学のエンジニアです。
"Aircraft in Warfare"
--The Dawn of the Fourth Arm--(1916)
において、現在ランチェスターの1次法則(Lanchester's Linear Law)
ランチェスターの2次法則(Lachester's Square Law)と呼ばれている法則を提唱しました。
同時にこの本はOR(オペレーションズ・リサーチ)の始まりとみなすことも可能です。

2)上記のように若かりしころ私は数学という分野から「硫黄島の激戦」を知りました。大人になってからクリント・イーストウッド監督(Clint Eastwood)(1930-)による映画『硫黄島からの手紙』(2006)(Letters from Iwo Jima) が封切られると劇場で5回観ました。
そのあとDVDも購入しました。
結果としてトータルで何十回も見ました。
もともと歴史に興味がありましたし「交換比=5.132」が何を意味するのがイメージとして知りたかったからです。

 

『硫黄島からの手紙』は本書を読んだ今となってはbest とは申せないかもしれませんが
pretty good な映画だと思いました。
いくつか理由を挙げますと
・「変な発音の変な日本人」に象徴されるステレオタイプな日本人は登場しない。
・日本人将兵にも(日本映画と言っていいくらい)人格が与えられている。
・帝国陸軍と帝国海軍の葛藤(仲の悪さ)(相互情報の不交換)を正確に描いている。
実は陸軍と海軍・海兵隊の仲の悪さは日本だけでなく米軍にも潜在的にありました。
・憲兵隊に象徴される統制主義・管理主義の一端を描いている。
あくまで私見ですがこの映画で描かれた憲兵隊とは民家のゴミ箱まであさって調べた
憲兵隊重視の東條英機(1884-1948)の象徴ではないかと思われます。
・陸軍にも海軍にも国粋主義の傾向がありファナティックな言動(端的に言えば「自決」)も描いている。
・大本営が硫黄島を「捨て石」にしたことが描かれている。
暗に大本営を批判している?とも言えます。
・例えば "Pearl Harbor" (2001)
に登場するような、欧米人の誤解に基づいた荒唐無稽で・漫画的な日本人将兵は描かれていない。
(あくまで個人の感想ですが"Pearl Harbor" に評価を与えるならばどう見ても bad な映画です)
・本書にも言及があります通り短いシーンではありますが硫黄島の集落や住人を初めて映像で描いた。
例えばィ)日の丸の小旗を振る婦人たちロ)一膳めし屋のような木造住宅の食堂ハ)ひとりで遊ぶ着物姿の子どもなどです。

しかし基本的には小笠原兵団長(109師団長)であった栗林忠道中将(戦死後大将に昇進)が主人公であり米国やカナダで駐在武官を勤めた知米派の知将として描かれています。
確かに陸軍幼年学校出身でみずからを「カデット」と呼び思考が硬直していた東條英機に比べると
旧制長野中学から陸士(陸軍士官学校)に進んだ栗林忠道には作詞や絵画の才能があったと言えましょう。
あえて例えるならば「日本におけるロンメル将軍」のような描きかたをしています。
つまり個人的にはリベラルな思想の持ち主だが「軍人としての義務を果たすこと」を優先し
「祖国の捨て石」となって死んだ英雄として描かれています。
そしてそれは日本でも米国でもドイツでもソ連でも職業軍人に共通する価値観であるのは間違いありません。
しかし本書はそれよりもさらに一歩歴史に踏み込んで論じています(あとで具体的に述べます)。

脇を固める一人が「バロン西」こと西竹一(1902-1945)です。
1932年のLAオリンピックの馬術で「ウラヌス」に騎乗し優勝しました。

さて以上のように『数学セミナー』と『硫黄島からの手紙』を主体として硫黄島に関する知識を成していた私ですが本書を読んで実は知らなかったことが多々あり初めて知る事実に驚かされました。

①硫黄列島‥そもそも硫黄島とは北硫黄島・中硫黄島・南硫黄島の3島から成る硫黄列島であり
通常「硫黄島」と呼んでいるのは中硫黄島のことです。東京都小笠原村に属しています。
現在は自衛隊の基地がありますが民間人(もと島民)は墳墓の地になんぴとたりとも戻ることができていません。

②「いおうとう」‥2007年以降「いおうとう」が正式な呼称となりました。「いおうじま」と発音しますと鹿児島県にある三島村の真ん中の島硫黄島(いおうじま)を指します。
「鹿ヶ谷の山荘」で平清盛(1118-1181)打倒の謀議をした俊寛僧都が流された島「鬼界ヶ島」の候補の一つです。
一方米軍は歴史的に"Iwo-Jima Island" と呼んできたのでIwo-Jima" の方が通りがよいようです。
(富士山を「マウント・フジヤマ」と呼ぶが如しです)本や映画やドキュメンタリーの題名として使われたこともあり特に戦闘に参加した元兵士やその家族・遺族にとっては Iwo-Jima なのでしょう。
なお『硫黄島からの手紙』が作られた2006年はまだ「いおうじま」と呼称しておりましたので
映画の中では「いおうじま」の栗林中将麾下の小笠原兵団の兵隊さんたちにラジオで子どもたちの激励の歌が届けられるシーンがあります。
「いおうじま」と呼んでいます。
最後の切り込みの直前くらいです。

③戦前・戦中の硫黄島
‥米軍が侵攻して来るまで硫黄島には住民が住んでいました。
「硫黄島拓殖製糖会社」がサトウキビ・コカ・レモングラスなどのプランテーションをやっており
その小作人に人たちが住んでいました。
中でもコカが主力生産物でした。
コカはコカインの原料です。

コカインは19世紀末ごろ局所麻酔として使われ始めました。
ウィーン総合病院のカール・コラーという眼科医が1884年9月11日コカインによる局所麻酔だけで
白内障の手術を成功させたのは有名です。
カール・コラーにコカインを勧めたのは若き日のフロイト(1856-1939)でした。
コカインを医療に用いることで一攫千金を夢見ていました。
と言うのもフロイトは婚約していましたが貧乏を理由に結婚を許してもらえなかったからです。
薬局から大量のコカインを買い求めモルヒネ中毒の友人にすすめたところモルヒネ中毒の治療には一定程度奏功しましたが友人はコカイン中毒になり死んでしまいました。
カール・コラーに先を越されたフロイトはコカイン療法をあきらめ精神分析に転じて後に大成功します。
春秋の筆法をもってすればコカインが精神分析を作ったことになります。

もっともその後リドカインやプロカインのようなすぐれた局所麻酔薬が開発され現在に至るまで使われています。
逆にコカインが局所麻酔に使われることはほとんどなくなり現在、日本では「麻薬及び向精神薬取締法」で「麻薬」に指定され、取り締まられています。
本書によりますと硫黄島のコカの生産量は台湾全体のコカに生産量に匹敵しその面積の差を考慮すると硫黄島のコカの生産量が飛び抜けて多かったことがわかります。
コカの葉は5つの製薬会社が買い上げ精製してコカインとなり
インドの闇市場で売られたり1940年代にはナチス・ドイツに輸出されました。
詳細は本書 pp.24-25をお読みいただけると幸いです。

いずれにせよ戦前・戦中の硫黄島におけるプランテーションはきわめて特異的で会社が警察組織を肩代わりしていたり島内でのみ流通する独自金券があったりしたようです。
小作人たちは朝だけお米を食べて昼・夜はサツマイモやトビウオ・サメの干物などを食べていました。でも総体として「暮らしはいい所だった」と回想しています。なにしろ本土(内地)に比べると暖かい(暑い)し毒蛇もいなくて快適だったと言えます。
こうした戦前・戦中の硫黄島の生活はまさに初めて知る話でありたいへん具体的に生き生きと記述されています。

④強制疎開
‥映画『硫黄島からの手紙』では硫黄島の住民の子どもの姿を見た栗林忠道が我が子の姿とダブらせ
人道主義的観点から硫黄島の住民を「本土に戻すことにしましょう」と決断するシーンがあります。
本書によりますとこの時点で島民の方々には50年以上の生活の歴史がありましたので
「本土に戻す」という映画上の表現は正しくなくて
実態としては国家による「強制疎開」であり戦後に至るまで長い間強制疎開された島民の方々は
事実上の「難民」としてたいへんな苦労をし辛酸を嘗めたことが記載されています。
硫黄島版「ディアスポラ」と申せましょう。
一家心中・自殺が少なくなかったそうです。
戦中・戦後の東京都などの行政の不作為・怠慢・非情が記述されています。

⑤軍務徴用
‥上述のように、島民の生活を奪う「強制疎開」がありましたが逆に16歳から59歳の健康な男性は
強制疎開から除外されて軍務に徴用されました。
103人の島民が海軍二〇四設営隊や陸軍硫黄島臨時野戦貨物廠の軍属として地上戦に動員されました。
本書によりますとこのうち米軍の捕虜となり地上戦後も生き残った人はわずか10人でした。
硫黄島民の戦没者数については93名とする資料と82名とする資料が存在します。
その齟齬について本書では硫黄島産業株式会社による「偽徴用」の問題がありその数をカウントするかしないかで生じたようです。詳細は本書 pp.113-115でご確認いただけますと幸いです。

⑥地上戦と住民
‥私たちは沖縄において多数の住民を巻き込んだ大規模な地上戦が行われたことをよく知っています。例えば「ひめゆり部隊」の話は映画化されるなどして有名です。
本書を読みまして硫黄島におきましても規模は違うかもしれませんが住民を巻き込んだ地上戦が展開されていたことを初めて知りました。
言い換えますと軍属として動員された島民を含む地上戦が展開されていたことになります。
不勉強にして私はこれまでこのことを意識したことがありませんでした。
本書においてはさらに思考を進め
例えば
・多数の住民を死に至らしめたマニラにおける日米市街戦
・ほぼすべての島民を巻き込んで行われたグアム島の戦闘などに言及されています。
私はサイパン島のスーイサイドクリフやバンザイクリフに思いをいたすと同時に
アジア太平洋の全域にわたって「地上戦」と現地の住民の人たちの関係を考え直すきっかけとして
硫黄島の地上戦における島民の存在と経験を意識する必要があると思いました。

⑦もしもクリント・イーストウッド監督が本書を読んでいたならば‥『硫黄島からの手紙』はまた違った内容になっていたかもしれません。
おそらくいっそう深化した作品になっていたことでしょう。
もちろん時間をさかのぼるのことは不可能ですからそれはありえないことです。
従来のステレオタイプの戦争映画と比較いたしますと『硫黄島からの手紙』は pretty good でしたが
本書を読むと better → best に向かってまだまだ多くの「歴史的視点」が存在することを理解できました。
やはり映画という媒体と一般向けとはいえ研究書という媒体では深化の度合いが違うのかもしれません。
いずれにせよ圧倒的に多くの方々にとって本書は「目から鱗が落ちる」内容であると
考えております。

歴史に興味がある方 映画に興味がある方 映画『硫黄島からの手紙』を見た方
ランチェスターの2次法則に関心がある方に本書をお勧めしたいと思います。

硫黄島に関心を持った

今まで硫黄島については、栗林中将と日米軍の激戦地、摺鉢山に星条旗を掲げる米軍兵士のことと、戦後の返還後自衛隊の基地があるぐらいの知識だった。本書を通読して硫黄島史、戦前の住んでいた人たちの帰島問題の複雑怪奇なことと現在の状況をはじめて認識できた。最近の逼迫した中国・台湾の政治情勢を考えると、我が領土である硫黄島の存在にもっと関心をもたいといけないことを痛感した・

 硫黄島のイメージが根底から変わります

本書の読了後は硫黄島のイメージが根底から変わります。今までは、硫黄島は太平洋戦争末期に島ごと要塞化し、圧倒的物量の米軍の猛攻に耐えて玉砕した孤島との認識しかありませんでした。勝手に岩だらけの人が住めない火山島と思っていました。実際は、最大で1,000人以上の民間人が暮らしており、それなりに豊かな暮らしがあったのです。34ページの小学校の写真には驚きます。なぜ、終戦後も元島民は帰島できないのか、多くの人に現実を知ってもらいたいです。

激戦地として知られる硫黄島に、かつては一般住民の生活があった事を再認識さてくれる貴重な書
Reviewed in Japan on February 24, 2022硫黄島というと、第二次世界大戦での激戦地としての印象が強い。しかしその硫黄島にも、かつては民間人が生活していた事はあまり知られていない。本書では、硫黄島に一般の日本人が住み始めてから現在に至るまでの歴史を解説している。

そもそも、絶海の無人島であった硫黄島の開拓と入植が始まったのは、大日本帝国の国策としての南洋への「進出」の足掛かりとしてであった。そのため、硫黄島の社会は特定の企業によるプランテーションであり、その社会構造は植民地の様な状態にあった。

しかしそんな中にあっても、南の島の自然の恵みは豊かであった事が語られている。現金収入には乏しくとも、食べ物に不自由はしなかったようだ。熱帯の野菜・果物・魚は豊富に獲れ、鶏・豚を放し飼いにし解体して食べる等、本土より遥かに充実した食生活が営まれていた。 特に、戦前でありながらパイナップル・パパイヤ・マンゴー・パッションフルーツまでもが日常的に食べられ、ラム酒が飲まれていたのは驚く。

しかしそんな島も、戦争によって過酷な運命に曝されていく。一般には住民は疎開させられたと言われているが、実際には軍に徴用され、戦争に巻き込まれた住民が多数いた。中には「徴用」と称して騙され、悪徳な事業に従事させられた人もいた。映画や戦記で硫黄島の戦いが描かれる時、そこに一般住民が居た事が無視されがちである。しかし、沖縄などと同様に、硫黄島もまた一般住民の生活があった事、戦争がそれを理不尽に破壊した事を再認識させられる。

戦争が終結しても、硫黄島はなお軍事に翻弄され続けた。冷戦下では米軍の太平洋における基地として利用された。冷戦が終結し米軍が撤退しても、自衛隊の基地として利用され続け、一般住民の帰還は未だに実現していない。日本政府は、火山活動や経済基盤の無さなど、何かと理由をつけて、この問題を放置し続けている。これを無責任と言わずして何と言えよう。硫黄島において「戦後」は未だ終わっていないのである。

もし、硫黄島が戦場になる前に日本が降伏していれば、或いは民間人が住めるように復興が行われていたら、と考えると悔しい気持ちになる。今頃の硫黄島は小笠原のように、熱帯の自然を活かした観光地になっていたのでないか、と夢想して已まない。

本書は、大日本帝国と戦後の日本、そしてアメリカと、国の思惑に振り回されて数奇な歴史を辿った島の通史と言える。戦争に偏しない硫黄島の歴史を知る上で、他にない貴重な一冊である。

激戦地は帰れない故郷に小笠原諸島の南方300キロにある硫黄島は、太平洋戦争の激戦地として知られる。現在は全島が米軍・自衛隊の基地で民間人は住んでいないが、戦前はプランテーション農場で作業に従事する住民もいた。本書は「場」としてよりも「島民」の側面に注目した硫黄島の歴史。

明治期以降、領土拡大や一獲千金を狙う南進論を受け、硫黄島は1890年前後から開拓が本格化した。戦前には、硫黄列島に600人ほどの島民が暮らしていた。だが、太平洋戦争の戦況悪化で、1944年に島民は東京へ疎開した。本書は、現地徴用され、軍属として丸腰で激戦地に取り残された100人前後の男性島民に注目している。中には正式な徴用令状も渡されなかった島民もいて大半が戦死した。著者は数少ない生存者の証言を基に、島民が見た凄惨な硫黄島の戦いを描いている。家も職もなく裸一貫で本土へ強制疎開させられた島民の悲劇は戦後も続く。米国に占領され、故郷へ帰れなくなった。戦後10年も補償も受けられず、生活苦で一家心中する島民が続出した。硫黄島は68年に日本に復帰したが、全島が自衛隊基地になったため、入島は厳しく規制され、旧島民も墓参以外では入れない。北方領土と違い日本復帰はしたが、「帰郷したい」という島民の思いからみれば、北方領土と同じである。帰郷を実現すべき日本政府が帰郷させないという点では、北方領土より状況は悪いともいえる。

本書は新書ながら、島民の語りが多い。戦前が収奪されるばかりの小作農業だったにも関わらず、旧島民は硫黄島とその生活を楽しく振り返り「生きている間に硫黄島に戻って暮らしたい」という。著者は「やや美化している」といいつつ、「故郷喪失の思いと戦後の苦難という経験あってのもので美化で片づけていいものではない」と記すのが印象に残った。


兵庫県元総務部長の告発検討

2025年02月12日 09時20分35秒 | 社会・文化・政治・経済

「前総務部長から聞いた」 告発者私的情報の漏洩疑惑 兵庫百条委に複数県議が説明

男性の懲戒処分を巡り、県は3月25日に、男性の私的情報が保存されていたとされる公用パソコンを回収。その後の県の内部調査で告発文書の核心的な部分が事実ではないなどとして、5月、男性を停職3カ月の懲戒処分とした。

男性は、7月初め、代理人を通じて百条委に「プライバシーに配慮してほしい」と要望。百条委は告発とは無関係な文書の開示はしないと決めていた。

関係者によると、百条委は今月16日に非公開で複数の県議に聞き取り調査を実施。4月中旬ごろに前総務部長から、男性の私的情報の記録を見せられたり、口頭で内容を聞かされたりしたとの証言があったという。

前総務部長は10月25日に開かれた百条委の証人尋問で男性の私的な個人情報を印刷し、所持していたことを認めた。一方で、漏洩(ろうえい)については「守秘義務違反の嫌疑を受ける可能性が生じる」などとして証言を拒否していた。

男性の私的情報とされる内容は、知事選(11月17日投開票)期間の前後から交流サイト(SNS)で拡散されており、県は第三者機関を設置して慎重に調査するとしていた。

告発した元局長の私的情報漏洩か 兵庫知事側近の前総務部長ら

「人事畑歩んだエリート」元県民局長、「兄貴分的な人だった」と惜しむ声

 

コメ買占め業者の存在?

2025年02月12日 09時12分20秒 | 社会・文化・政治・経済

コメ屋が嘆きの声「もうめちゃくちゃですよ」

コメ高騰の裏に“買占め業者”の存在か…「備蓄米放出で、売るタイミングをうかがっているのでは」

 

 
コメ屋が嘆きの声「もうめちゃくちゃですよ」コメ高騰の裏に“買占め業者”の存在か…「備蓄米放出で、売るタイミングをうかがっているのでは」

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昨年の夏に起こった“令和の米騒動”から半年以上が経過した。当初、数か月でこの騒動は収まるかと思われていたが、米の値段は下がることなく、今も家計を圧迫し続けている。この現状に、“米を売る側”は何を思っているのだろうか。街で話を聞いてみた。

【画像】高すぎる…二度見してしまうスーパーの米売り場

“米不足”なんて実は起こっていない?

昨年夏、米の流通の不足が全国的に大きな話題になると、たちまちスーパーから米が消えた。その後、米が入荷された際には買占めを防ぐため、店舗が米の購入制限を行なうなど対応をしていたが、その後も米の値段はどんどん高騰を続けた。

農林水産省によると、全国のスーパーで販売された米の平均価格は、2024年6月ごろまでは5キロあたり2000~2200円程だったが、今では3000円台後半。わずか1年足らずで2倍近くまで値上がりしている。

“令和の米騒動”が話題になった当初は、新米が流通する10月頃になれば価格はまた適正なものに戻るだろうと期待されていたが、まったくそうはならなかった。それどころか、新米が出た後もますます値上がりしている。

都内のスーパーで、米売り場の担当者に話を聞くと、値上がりには複合的な理由があり、今後も値段は下がらない可能性があると話す。

「“米不足”なんて言われていますが、ぶっちゃけ2、3年前と比べてもお米の全体の量は変わってないと思いますよ。農協や国の政策でお米は『相対取引価格』といって買取金額というか、相場がある程度決まっていているので、今も値下がりはしないままなのかなと。

あとは、米を入れる袋の“包装代”、米を運ぶための“輸送費”も上がっていることも、値上がりの理由と考えています。値上がりの原因は複合的で、一つを解決すればよいという問題でもないので、一度上がった値段が以前のように戻るのは難しいと思いますね」(都内スーパーの店員)

一方で、都内で米を専門に扱っている米穀店に話を聞くと、値上がりの理由は大きな企業の“買占め”が原因ではないかと話していた。

「農家さんには本当にお米はないんですが、仲介業者や大手の加工品業者、商社とかが抱え込んでいる可能性があると思います。そういうところは、こうした騒動が起こる前に前もっておさえていて、今まさに、放出するタイミングをうかがっているんじゃないですかね。今までは『ないよ』って言っていたのに、『実はあるよ』って売りだすのでは」(都内の米穀店の店主)

「米を買いませんか?」業者からの電話

米の高騰を受けて江藤拓農林水産大臣は2月7日、政府備蓄米の放出をできるだけ早急に行なう考えを示した。これで果たして米高騰に歯止めは効くのだろうか。仲介業者の間ではさっそく影響が出始めているという。

「先日、備蓄米の放出を検討しているといった報道があった後、うちに『米を買いませんか?』という営業の電話がいくつかかかってきました。おそらく、買い込んでいた業者が、備蓄米の放出で市場価格が下がる前に、米を売りさばいてしまおうと動き出したのではないかと思います」(米の仲介業者)

業者の買占めが本当ならば、備蓄米の放出は確かに、米の値段に大きな影響を及ぼしそうだ。

現在は安い米がどんどん買い占められて値段が上がり、それに伴って、もともと高価だったブランド米も値段が上がっていっている状況だという。一時期は安い米ばかりが買われた結果、急激に安い米だけ値上がりをしてしまい、“くず米”のほうが普通の米よりも高値で取引されるという異常事態も起こっていたそうだ。

前出の米穀店の店主は、そんな状況について「もうめちゃくちゃですよ」とあきれたように笑う。

「私たちが今までお付き合いしている業者に頼んでも、最近は『これ以上は売れない』と断られるケースが増えています。また、今年度は“新米が豊作”なんて言われていますが、農家さんからは『そうでもない』という声も聞きます。もう、なにが本当なのかわかりません。

でも今回の米の価格急騰で、農家さんが例年より収入が増えているらしく、それはいいことだと思っています。そもそも今まで、米の値段が生産コストに対して安すぎたのです。そういう意味では今の値段がスタンダードといえるかもしれません」(都内の米穀店の店主)

昨年夏から続いている令和の米騒動。“米の適正な価格”とはいくらなのか、国全体で見つめなおす機会にもなっていきそうだ。

取材・文/集英社オンライン編集部

“消えた21万トン”流通目詰まりか…備蓄米放出へ 価格高騰に歯止めか

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コメ高騰のからくり

2025年02月12日 09時03分30秒 | 社会・文化・政治・経済
  • 『令和のコメ騒動』(1)コメ高騰の歴史に学ぶ、今後の見通し

  •  

     
    日本人は海外より高いコメを買っている。
    根本原因は買占め業者の存在!
     
    食料自給率と安全保障 第10回
     
    2024年はコメ価格の高騰に注目が集まった。総務省「小売物価統計調査」によると、「コシヒカリ5kg」の2024年12月の店頭小売価格(東京都区部)は4,018円であった。前年同月(2,422円)比で1.68倍と、2024年産の出荷が始まっても高止まりの傾向が続く。この傾向はいつまで続くのだろうか。

    2024年の『令和のコメ騒動』の発生経緯を読み解く

    2022年2月のロシア・ウクライナ紛争の勃発以降、国際的な穀物価格ははっきりと上昇傾向に入った。食料価格が全般に切り上げていく中で、コメの価格だけは2023年夏ごろまでむしろ低位安定傾向を示しており、「国内自給ほぼ100%を達成しているからこその、価格安定だ」という声も聞かれていた。

    この地合いが変わったのが、2023年の秋以降である。2023年産のコメの作況指数は101と平年並みだったものの、北陸東北地方を中心に、酷暑の影響でコメの品質が大きく低下した。先行きのコメ不足の懸念が発生し始め、徐々に小売価格の上昇傾向が明らかになり、2024年の春以降、メディアで報道されることも増えてきた。

    決定打となったのは、気象庁による2024年8月8日の南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)発表と、お盆前後の台風被害の頻発である。これらの報道をきっかけに、買いだめと店頭での品切れの連鎖が始まり、コメ価格が急上昇した。
    図表1 コメの価格上昇の状況(2021年1月=100・比較対象:小麦粉・食パン)
    コメの価格上昇の状況(2021年1月=100・比較対象:小麦粉・食パン)
    出所:総務省「小売物価統計調査」(東京都区部小売価格)を基に三菱総合研究所作成
    https://www.stat.go.jp/data/kouri/doukou/3.html(閲覧日:2025年1月13日)
    コメ価格決定の背景となる需給バランスを確認しよう。2023年産の日本全国の計画供給量は約670万トンであったのに対し、前述のとおり作況指数は101と計画どおりの生産量が確保されていた。ただし、この計画自体、対前年比10万トン減(約1.5%減)の供給量であった。一方で、農水省発表によれば2023年7月から2024年6月までの1年間のコメ需要量は702万トンであり、前年比1.6%増(11万トン増)と約10年ぶりに需要増に転じたという。一部では「インバウンド効果だ」などの意見もあったが、農水省によればその影響は3万トン程度に過ぎないという。前述した酷暑による品質低下への対応として、コメ卸が精米時の歩留まり低下を見越して多めの調達を行ったことが、コメ需要増の主因と見られている。

    問題は、その後である。秋以降、2024年産が出回れば価格は安定するかと思われたが、供給が安定してきた9月以降も、コメ価格は低下傾向を見せていない。むしろ、8月の2,871円(前年同月比1.23倍/前月比1.07倍)に対して、9月3,285円(前年同月比1.42倍/前月比1.14倍)、10月3,787円(前年同月比1.60倍/前月比1.15倍)、11月3,985円(前年同月比1.65倍/前月比1.05倍)と価格上昇に拍車がかかった。12月は4,018円(前年同月比1.68倍/前月比1.01倍)と、対前月比こそ落ち着く傾向をようやく見せたものの、価格の高止まり傾向は変わっていない。

    2度のコメ価格高騰に学ぶ、今後の推移と中期見通し

    過去30年間でコメ価格高騰が大きく社会問題化したのは、1993年(平成5年)と2003年(平成15年)の2回だ。特に1993年は前年比で30%以上供給が減り(約1,050万トンから約780万トンまで減少)、減少量が当時の備蓄量を大きく上回った結果、消費者小売価格は前年比1.23倍となった。「平成の米騒動」と言われ、タイ米の緊急輸入を余儀なくされるなど大きな社会問題となった。2003年も、冷夏の影響で前年比約15%、110万トンの供給減となった(890万トンが780万トンに減少)。当時の政府米在庫量約150万トンに迫る減少量で、2004年の消費者小売価格は前年比1.14倍となった。

    2回のコメ価格高騰のその後だが、1994年の生産量は約1,200万トンまで大幅に改善した。2004年もおおむね2002年並みの生産を確保した。結果、1994年・2004年ともに小売価格はコメ価格が高騰した前年(1992年と2002年)並みの水準に沈静化した。

    過去2回と比べ、今回のコメ価格高騰の背景にある需給ギャップはそれほど大きくはない。2023年産の作況指数は平年並みだったが、酷暑による品質低下の影響で、700万トン程度の需要に対し約30万トン程度の供給不足が発生したと見られる。不足量も在庫量に比べて3分の1程度でしかない。このような状況にもかかわらず、消費者小売価格は、年間平均で前年比1.27倍となった。

    過去2回の経験を踏まえると、今後の生産量が安定的に推移すれば、いずれ価格は沈静化していくと予想できる。2024年産は作況指数、品質ともに問題なく、需要量は十分満たす生産量が全体としては確保されている。2025年産の生産も需要量を十分満たす水準で推移し、流通の混乱が沈静化していけば、2025年の秋以降には高騰前の価格水準に落ち着いてくる可能性が高いと考えてよいだろう。
    図表2 1993年・2003年と2024年のコメ需給と価格動向の比較
    1993年・2003年と2024年のコメ需給と価格動向の比較
    出所:各種データを基に三菱総合研究所作成

    価格安定に向けた「必要条件」とは?

    ただし、2025年後半にコメ価格が低下・安定するためには、絶対的に必要な条件がある。それは、前述の文章のうちの「2025年産の生産も需要量を十分満たす水準で推移していけば」という部分である。当たり前のことだが、市場で取引される商品の価格は、需要と供給のバランスで決定される。「足元の高価格がこのまま維持されるのか」「それとも過去2回のように元の価格に戻るのか」については、今後の需給バランスがどういう水準で実現されるのか次第である。

    さらに言えば、その見通しを検証する前に、そもそも、コメの価格はどのように決定されているのか、その実態を確認しておく必要がある。もし、「市場で取引されている」と言えないのであれば「需給バランスで価格が決定する」とは言えない。コメについては、一般的に「なんとなく、コメって普通の市場取引ではないんじゃないか」という印象を持たれている場合も多いように推察される。次回以降のコラムでは、この点について具体的に検証することとしたい。

    なお、本稿脱稿後、江藤拓農林水産大臣が1月24日の閣議後記者会見で、政府が備蓄するコメを放出し、全国農業協同組合連合会(全農)などの集荷業者を対象に販売できるように運用を見直す方針を表明した。昨年夏ごろからの価格高騰にあわせて、一部からその必要性を指摘する声もあったが、政府・農水省はその必要性を否定してきた。ここにきての方針転換である。次回以降のコラムでは、なぜ、これまで備蓄米放出に踏みこまなかったのか、現時点での備蓄米放出の意味や意義がどこにあるのか、についても考えてみることとしたい。