後藤新平の功績

2025年03月11日 19時35分16秒 | 社会・文化・政治・経済

今年ことしは、それからちょうど100年になります。関東大震災かんとうだいしんさい後、東京は、地震じしんや火事に強いまちへと大きく生まれ変わりました。その中心となったのが、当時の内務大臣ないむだいじんで、「都」になる前の東京市長をつとめた経験けいけんもあった後藤新平ごとうしんぺいでした。

1923年9月関東かんとう大震災だいしんさい発生 10万人以上いじょう犠牲ぎせい

後藤新平ごとうしんぺい(1857~1929年)は、仙台藩せんだいはん水沢城下みずさわじょうか現在げんざい岩手県いわてけん奥州市おうしゅうし)生まれ。愛知県あいちけん医学校(現在げんざいの名古屋大学医学部)の医師いして1882年、現在げんざい厚生労働省こうせいろうどうしょうにあたる内務省ないむしょう衛生局えいせいきょくに入りました。激動げきどう明治時代めいじじだいを引っぱった政治家せいじか児玉源太郎こだまげんたろうが、当時日本が統治とうちしていた台湾たいわん行政ぎょうせい管理かんりする台湾たいわん総督府そうとくふ総督そうとくとなると、その補佐役ほさやく抜擢ばってきされました。そして台湾たいわんでの行政ぎょうせい手腕しゅわん評価ひょうかされ、内務大臣ないむだいじん、東京市長、外務大臣がいむだいじんなど国家をささえる重要じゅうよう役職やくしょく歴任れきにんします。

関東大震災かんとうだいしんさい直後の1923年9月2日にふたた内務大臣ないむだいじんとなり、大きな被害ひがいを受けた東京を復興ふっこうさせるために新たに作られた帝都ていと復興院ふっこういん総裁そうさいになりました。

関東大震災の規模

関東大震災かんとうだいしんさい被害ひがいは主に東京都と神奈川県かながわけんに集中しましたが、千葉県、埼玉県さいたまけん静岡県しずおかけんなど関東かんとうを中心とした広い地域ちいきにおよびました。とくに東京では地震じしん後、130か所以上いじょうから出火しました。その日、関東かんとう地方は台風の影響えいきょうで強い風がいており、火はまたたく間に広がりました。現在げんざいの台東区や墨田すみだ区などの下町一帯いったい木造もくぞうの家屋や避難ひなんする人たちの荷物にうつり、はげしいほのおつつまれました。町はそのほとんどが焼失しょうしつし、東京は野原のはらになってしまいました。

野原のはらの東京復興ふっこうに力を注いだ後藤ごとう新平しんぺい

道路つくりとまちの区画整理

後藤ごとうはまず、はばの広い道路づくりや、まちを整った形にえる区画整理に力を注ぎました。現在げんざいの「昭和通り」、「靖国やすくに通り」(当初とうしょ名称めいしょうは大正通り)、環状かんじょう線となる「明治めいじ通り」(環状かんじょう5号線)などが、このときにつくられました。

当時は自動車がまだ普及ふきゅうしていなかったことから、歩行者の安全を確保かくほする緑地帯りょくちたいをそなえた広い道路は必要ひつようないという声も強かったそうですが、今はどれも、たくさんの自動車が走る東京の主要道しゅようどうとなっています。後藤ごとうがいかに未来みらいを見通していたのかが、この道路づくり一つをとっても分かります。

 

震災しんさい復興ふっこう大公園だいこうえん整備せいび

次に後藤ごとうは、火災かさいが広がらないようにし、災害さいがいがあっても人々の避難ひなん場所となるように、「震災しんさい復興ふっこう大公園」を整備せいびします。「隅田すみだ公園」、「浜町はまちょう公園」、「錦糸きんし公園」はこのときに整備せいびされたものです。

震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょう整備せいび

隅田川すみだがわにかかっていた橋の多くは、木製もくせいゆかちてしまい、大きな被害ひがいが発生しました。そこで、下流からじゅんに、「相生橋あいおいばし」、「永代橋えいたいばし」、「清洲橋きよすばし」、「両国橋りょうごくばし」、「蔵前橋くらまえばし」、「厩橋うまやばし」、「駒形橋こまがたばし」、「吾妻橋あづまばし」、「言問橋ことといばし」の計九つの鋼製こうせいの橋が、それぞれことなるデザインで「震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょう」として整備せいびされました。このほか、東京中の橋が計400以上もつくられ、「万世橋まんせいばし」、「聖橋ひじりばし」などが、当時の姿すがたのまま今も使われつづけています。

 
災害さいがいに強い鉄筋てっきんコンクリートせい復興ふっこう小学校

また関東大震災かんとうだいしんさいでは、東京市の市立小学校196校のうち、117校が焼失しょうしつしてしまいました。それまでの校舎こうしゃ木造もくぞうでしたが、火災かさいがあってもえにくい鉄筋てっきんコンクリートせいの「復興ふっこう小学校」としてえられました。そして、その大半には隣接りんせつ地に災害さいがい時の避難ひなん場所ともなる「小公園」が整備されました。

東京・銀座ぎんざにある「泰明たいめい小学校」の校舎こうしゃは、円形にした講堂こうどうと体育館、アーチがたをした三階のまどなどが特徴的とくちょうてきで、ほぼ建設けんせつ当時の姿すがたのまま、今でも小学校、幼稚園ようちえんとして使われています。

 
ツタがからまる建物たてものは今見てもモダンで、優雅ゆうがなたたずまい。東京都選定せんてい歴史的れきしてき建造物けんぞうぶつ経済産業省けいざいさんぎょうしょう近代化きんだいか産業さんぎょう遺産いさんにも指定されています。隣接りんせつする小公園、「数寄屋橋すきやばし小公園」も、銀座ぎんざ地域ちいき貴重きちょうな緑の広場として親しまれています。

今年4月に就任しゅうにんした荒川あらかわ比呂美ひろみ校長(泰明たいめい幼稚園ようちえん園長兼任けんにん)は、次のように話しています。

泰明たいめい小学校には今、かく学年2クラスずつ、計290人の児童じどうがいます。今年ことしで、創立そうりつから145周年しゅうねんになる大変たいへん歴史れきしのある小学校です。関東大震災かんとうだいしんさい後にてられた鉄筋てっきんコンクリートせい校舎こうしゃは、第二次世界大戦たいせんのときに空襲くうしゅう被害ひがいも受けましたが、大変たいへん頑丈がんじょうつくりで、今もてられた当時のままの姿すがたのこしています。銀座ぎんざまちの人々や、卒業そつぎょう生、保護者ほごしゃの方などから大変たいへん強い愛着あいちゃくを持っていただき、温かく見守っていただいています。とくに5000人以上いじょういる卒業そつぎょう生たちの『泰明愛たいめいあい』はあつく、学校行事などにも熱心ねっしん協力きょうりょくしていただいています。今後も、歴史れきし伝統でんとうあるこの校舎こうしゃを大切にし、関東大震災かんとうだいしんさいの話や防災ぼうさい意義いぎ児童じどうたちにつたえていきたいと思っています」

水洗すいせんトイレもそなえた同潤会どうじゅんかいアパート

また、震災しんさいからの住宅じゅうたく復興ふっこうを目的にした義援金ぎえんきんをもとに、内務省ないむしょう関連かんれん団体だんたいとして「財団法人ざいだんほうじん同潤会どうじゅんかい」が設立せつりつされました。同潤会どうじゅんかいは、1926年から、日本最初期さいしょき近代的きんだいてき鉄筋てっきんコンクリートせいのアパートを建設けんせつ鉄筋てっきんコンクリートせいであるため、地震じしん火災かさいに強いというだけでなく、ガスや水道、水洗すいせんトイレなどもそなえていました。当時としては最新さいしん設備せつびが整えられ、東京でらす人たちに新しい生活様式をしめす、斬新ざんしんなアパートでした。

同潤会どうじゅんかいアパートは1933年までの10年間で、東京都内や横浜よこはま市内に計16か所、やく2800戸がつくられました。このうち「大塚おおつか女子アパート」は、エレベーターや食堂しょくどう共同きょうどう浴場よくじょう、音楽室などまでそなえられた、当時最先端さいせんたん施設しせつで、はたら独身どくしん女性じょせいあこがれのアパートでした。

同潤会どうじゅんかいアパートは老朽化ろうきゅうかなどのため、すべてえられており、当時の建物たてもののこっていません。ただ、「表参道おもてさんどうヒルズ」としてさい開発された「青山アパート」は、東京の歴史れきし未来みらいにつなぐために東端とうたんの1むね外観がいかん再現さいげんされており、当時の様子を見ることができます。

 

これらのように東京は、関東大震災かんとうだいしんさい後、後藤新平ごとうしんぺいが中心となってさまざまな復興ふっこう事業が行われました。主要しゅよう道路や区画などそのときにつくられたまちの形が、現在げんざいの東京の街並まちなみの骨格こっかくとなっています。とくに下町地区ではその後、道路の新設しんせつは行われておらず、帝都ていと復興ふっこう事業によって整備せいびされた街区がいくが今もそのまま使われています。東京は、関東大震災かんとうだいしんさいで大きな被害ひがいを受けましたが、後藤新平ごとうしんぺいらの復興ふっこう事業によって、以前いぜんよりも災害さいがいに強い都市としてまれわったのです。私たちは今も、やく100年前の大事業の遺産いさんぎ、その上でらしているのです。

 


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