近代日本の宗教弾圧

2023年09月20日 14時07分28秒 | 事件・事故

 近代日本の宗教弾圧は明治初期から断続的にくりかえされてきたが、1930年代なかば以降、量的にも質的にも新たなステージに入ったといえる。

共産主義運動の抑え込みにほぼ成功した特別高等警察(特高)が、右翼・国家主義運動、さらに宗教へと取締りの手を伸ばしたのである。宗教の取締りにはじめて治安維持法が適用された第二次大本事件(35年12月)を皮切りに、疑わしい教団の監視や内偵が進められた。天皇・皇族や神宮に対する不敬、国体の否定や変革の意図、反戦・反軍的言動などを理由に膨大な数の検挙者が出た。

 こうした諸事件については、取締りの原因は何だったのか、検挙された宗教者はいかにして信仰を貫いたのか、といった点に注目されることが多い(それを通じてさきほどの善悪二元論的ストーリーが形成される)。もちろんそれも大事だが、ここで考えたいのは検挙の後、法廷という場で何が語られたのか、という問題である。

 戦時中の不敬罪や治安維持法違反がらみの事件でまともな審理など行われたのか、と疑問に思われる向きもあるかもしれないが、記録や回想録を見ると意外にも興味深い議論が展開されているのだ。

当時、特高は不敬罪や治安維持法違反をかなり強引に適用し、多くの宗教者を裁判所に送り込んだが、法廷でその犯罪を立証することは難しく、最終的に無罪や微罪、玉虫色の判断に落ち着くケースが少なくなかった。

宗教独特の論理に裁判官が翻弄される場面もあり、議論の過程で「聖戦」なるものの本質がえぐり出されていくことにもなる。ここでは、当時の弾圧事件のなかでは比較的マイナーだが、天津教事件と曼荼羅国神不敬事件という二つの不敬事件を例に少し見てみよう。
曼陀羅国神不敬事件は日蓮宗門七〇〇年未曽有の宗教弾圧事件である。

戦時下のためその実相は外部に知られることはなかったが、旧本門法華宗が組織をあげて抵抗し、裁判で弾圧の不当性を暴いた「昭和法難の血涙史」!事件の全貌を通して、国家権力の怖さと自戒すべき教訓が明らかにされる。
茨城県北茨木市磯原町に、「皇祖皇太神宮天津教」という宗教法人がある。
ここは、武内(竹内)宿禰の末裔を称する、竹内家の神社でもあり、代々伝えられてきたという資料約3000葉が保存されていた。
この資料を通称「竹内文書」という。
戦前、66代宮司竹内巨麿の時、この資料の一部が公開された。
天津教は、天皇家の紋章である菊花紋を使ったという咎で、「不敬罪」に問われ、竹内巨麿は逮捕された。
これを天津教不敬事件と呼ぶ。事件は最高裁まで争われたが、結果を先に述べれば、竹内巨麿は無罪となった。無罪理由は、これは宗教上の教義問題であり裁判になじまないという事であった。

 


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