4月16日の「しんぶん赤旗」の記事からです(写真も)。こうした事実を認識していくことが大切ですね。
日本の中国侵略時、旧日本軍は中国に数多くの慰安所をつくり、「慰安婦」にした朝鮮人や中国人の人権を踏みにじりました。
中国側の研究によれば、北は黒龍江省から南は海南島まで、日本軍が侵略したところには、どこでも慰安所があったといわれます。
二ヶ所の慰安所跡が紹介されています。
■アジア最大規模[南京市]
南京市には40以上の慰安所があったといわれています。市の中心部にあるのがアジア最大の日本軍慰安所といわれる利済巷慰安所の跡地です。
2005年までは低所得者の住宅として使われていました。居間は空き家です。
現在は、建物を保存し、慰安婦歴史陳列館に改装するための工事の真っ最中。来年の開館を目指しています。
日本軍は、南京大虐殺(1937年)の後に、当時の高級住宅街を慰安所に改装しました。45年の終戦まで使われ、総面積は4800平方メートル。一帯には三つの慰安所があり、50人以上の「慰安婦」がいました。
うち最も大きい「東雲慰安所」と呼ばれた建物は、1階に14、2階に16もの部屋がありました。主に朝鮮人の「慰安婦」が連れてこられました。2階には指示に従わない「慰安婦」を閉じ込め、つるし上げて殴る小部屋もあったといいます。
利済巷慰安所の保存を求めてきた南京師範大学の経盛鴻教授は「侵略の歴史を否定する日本の一部の勢力に対し、日本軍が『慰安婦』を使っていたという生きた証拠として、ここを保存する意義は大きい」と語ります。
■最初の慰安所[上海市]
上海には日本軍の慰安所が150以上あったとされます。1931年、侵略を開始した日本軍が中国につくった最初の慰安所が上海にある「大一サロン」です。
建物はほぼ当時のまま残されており、いまは住宅として使われています。内部は暗く、小部屋が並んでいて、日本式の木製ドアや観音開きの窓が当時のまま残されていました。中庭には、日本軍兵士が周りで踊ったという噴水の跡もありました。
45年の終戦まで使われ、多いときには約20人の日本人「慰安婦」がいたといいます。
蘇智良 上海師範大学中国慰安婦問題研究センター主任の話
河野談話見直しは
孤立への道で危険
私たちの研究では、日本軍に「慰安婦」にさせられた中国人は20万人以上にのぼると見積もっています。今まで証言してくれた元「慰安婦」は100人余り。多くの「慰安婦」は戦争中や戦後に亡くなっています。
生存者の多くは収入がほとんどなく、病院にも行けない状態です。地方政府が生活費を援助している場合もありますが、わずかなものです。私たちは寄付を集め、現在約20人の元「慰安婦」を援助しています。
旧日本軍が彼女たちを「慰安婦」にしたやり方は、
・家事労働などとだました
・捕虜になった女性兵士を慰安婦にした
・農村などから捕まえてきた
などで、すべて彼女たちの意思に反したものでした。
安倍晋三首相が「慰安婦」問題で旧日本軍の関与と強制性を認めた「河野官房長官談話」の見直しを示唆したことはとても驚きました。河野談話は日本側の資料で政府と軍の責任を証明したもので、最も基本的な認識です。
もし河野談話を見直すなら、日本はアジアや世界から孤立するでしょう。これはとても危険なことです。
安倍首相は日本の平和憲法も変えようとしています。日本は「古い道」を進むのでしょうか。私は日本の未来と前途を心配しています。