宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

梵鐘の響きⅠ

2006年12月02日 | Weblog

「写経」は平安時代やその前後の時代には
貴族などの間でしばしば行われていました様ですが、
その後はそれほど行われなくなり、昭和の戦後に
なって再び静かなブームが起こり、それは一時的な
ものに留まらずに定着し、現在に至っております様です。

経文を書写するというのは大陸に渡った僧侶達が
漢訳された膨大な経文を日本に伝え広めるために
写経したという事がありますが、その後も僧侶に
なる人の、一文字を一仏と見て心を込めて書写し、
その中から教えを得ようとする行として定着した
様です。

チベットではこの様な話しが伝えられています。

「チベットのパリ訳経官が、ドルジェデンパのもとで
学んでいた時、ヒンドゥー教徒と口論になり、
ヒンドゥー教徒に呪詛された彼は命を落としそうに
なりました。
そこで師のドルジェデンパに助けを求めた所、師は
彼に護符を授けました。
パリ訳経官が護符を身につけて真言を唱えて祈ると、
呪詛したヒンドゥー教徒は血反吐を吐いて死んで
しまいました。
驚いて師匠に報告した所、師は『この護符を身に着けて
いるのみで充分であったのに、真言まで唱えてしまった
ために相手は死んでしまったのだ。
滅罪のために経典を黄金のインクで書写しなさい。』と
命じました。」

「若し復た人あってこの経を受持し、読み、誦し、
解説し、書写し…善く菩薩の道を行ず…大願を
成就す」と説かれている通り、写経によって得られた
功徳の報告は現代にも無数にありますが、写経の功徳は
爽心である、御仏の御姿を写しながら文字が美しくなる、
写経させて頂けるという事のみで幸福な事であり、
御仏と自分への供養になるとも言われている様に、
自己への現世利益的な功徳に拘泥しすぎてはよくないと
されています。
しかし最初は現世利益を求めての写経であったのが、
日々続けるうちにそうした執着が自然に解消して
しまったとの報告もあります。

また写経は各文字を心を込めて書写する事が非常に
重要であり、可能な限り誤字や脱字の無い様にする事も
大切な事である様です。
ネット上で見かけた話しです。


写経はまた身内や自分の不幸や不運が重なった事が機縁で
始める場合も少なくない様で、
「写経180枚で倒産しかかった会社が立ち直った。」
「写経500枚で暴力的であった夫が別人の様に変わった。」
「写経1000枚で10年前に家を出た息子が突然戻った。」
「写経200枚で夫の癌が完治した。」
などの様な報告もありますが、わたくしがこうした報告を
読みます場合、人間の生き方に関心が向いているせいか、
得た功徳や利益の話しよりも、その当人の環境や思考などに
関心を寄せてしまいます。

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