宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

食すものと語る

2006年12月12日 | Weblog

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「『私は春から生物のからだを食ふのを止め
ました。

けれども先日"社会"と連絡を取る"おまじなゑ"に、
まぐろの刺身を数切れ食べました。
又茶碗蒸しをさじでかきまわしました。
食はれる魚がもし私の後に居て見てゐたら何と
思ふでしょうか。

"この人は私の唯一の命をすてたその体をまづそうに
食ってゐる。""怒りながら食ってゐる。""やけくそで
食ってゐる。""私の事を考へて静かにそのあぶらを
舌に味わいながら、さかなよ、おまへもいつか私の
連れになって一緒行かうと祈ってゐる。""何だ、おらの
体を食ってゐる。"
まあさかなによつて色々に考へるでせう。」』

この後にもし自分がこの食われている魚だったら
どうだろうという文章が続くのであるが、こんな
手紙を読むと、宮沢賢治にとっての食べるという行為は、
単に腹を満たすため、食欲のためというのではなく、
たぶんに哲学的、宗教的なものだという事が見てとれる。

目の前に置かれた食べ物について思いをはせ、その生きて
いた生涯や考えまでを想像している。
さかなを食べるという事は、そのさかなの生きてきた
生涯全部を自分の内に取り入れる事だとでも考えて
いるようだ。」
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

コメント (4)