山田風太郎 講談社文庫(電子版)
最初の刊行は昭和46年番町書房から。作家山田風太郎氏の、昭和20年1月1日から同年31日までの日記。当時山田氏は23歳で、東京医科大学(当時東京医学専門学校)の学生であった。医学生であったため徴兵は免れており(検査は受けたが病気のため入隊できなかったよし)、昭和20年は東京目黒、学校が疎開してからは長野県飯田で過ごす。終戦後ほどなくして学校も東京に戻り、年末は豊岡の親戚の家で過ごす様子が描かれている。
山田氏は刊行に際し、もとの文章に手を入れたり、現時点での注記を入れたい衝動にかられたという。年代を経て自身も変わり、読み返すと「日記中の自分は別人のごとく」感じられたという。
それは、社会の変化という理由だけではなく、一般に誰でも感じることだろう。僕自身20代の頃と今の自分が、同じ感覚でものを見ているとは到底思えない。
世の中の情報は、ラジオや新聞を通じて、かなりつかんでいたようだ。通信技術は今とは比べ物にならないが、昔は人とのつながりが密であったようだ。列車内で見知らぬ人が交わす雑談にも耳を傾けている。
降伏受諾はかなり受け入れ難いことであったようで、終戦間際には友人と徹底抗戦を語り合って夜を明かしたりしている。敗戦後秋になっても米ソ両国に立腹し、いつかは報復すると繰り返し書いている。戦中の、神がかり的な歴史教育には違和感を感じているが、全体に日本の国家精神を独自のものと考え、国家間の優劣を強く意識している。
改めて言うまでもないが、日本がひとつの国として、今もこうして存続しているということが、本当に奇跡のように思えることがある。国ごとに歴史上の節目はそれぞれあるから、日本だけが特殊な経験をしたわけではないが、こうして振り返ってみると、少し思うところはある。
・・こんどまた試練が訪れたら、どうなることやら。
空襲で焼け出されている。住むところがなくなり、知り合いを頼って山形に疎開。地方は別天地で、温泉旅行に行ったりしている。お金には不自由していなかったようで、飯田に学校が移ってからも旅行に出たりしている。ただ、物資、食料の不足にはかなり難儀していたようだ。疎開から戻ったとき、交通の混乱で自分の布団がなくなってしまい、晩秋の寒さに震えている。
これまで、終戦前後の日記として、徳川夢声氏、高見順氏のものを読んできた。3者とも共通して描いているのが、街や車内で見かける日本人のみすぼらしさだ。生活に追われ、戦火に追われ、なりふり構わなくなっていたのだろう。汚いサルのようだという書かれ方もしている。
風呂屋に行くと、靴が盗難にあうのだという。風呂の湯も極めて不衛生で、ドブのようになっていると。
日本国民が醜く見えるのは、この時代の人たちが等しく感じていたことのようだ。当時は西欧人との体格の差が大きかったこと、接する機会も限られており、コンプレックス的なものも強かったのだろう。
また、開戦直後の誇らしい、理想主義的な気持ちが反転し、精神的にも追い詰められていたという意識もあるかもしれない。
しかしなによりも、あらゆる物資が不足して、想像を絶するひどい環境に誰もがなっていたことは確かだ。
徳川氏は今の僕ぐらいの年代、高見氏は40代ぐらいで社会の中堅、今回の山田氏は若手世代で、それぞれ視点が異なる。その差異も興味深く感じた。