数日前のニュースだが;
という記事が気になる。
こういう分野では全然貢献できないし縁もゆかりもないが、部外者なりに日本の行く末が心配になる。
日本はノーベル賞受賞者も多く、世界的にも科学技術の分野では世界をリードする立場にある。
子どものころから、それはなんとなく当然のように受け止めてきた。だから(いきなり話があれだが)天才科学者の城ケ島博士(仮名)が開発したスーパーロボット、なんてストーリーも、それなりに物語として受け入れることができた。小松左京も「日本沈没」では野武士のような天才科学者(田所博士)やスマートな情報科学者(中田、のちに首相)を登場させている。
彼らが日本人であるが故に祖国を憂い、襲い掛かる災厄に自らの才覚をもって戦う、という物語になっている。異変に伴う各国の思惑にも毅然と対応している。
現実の日本では研究者は窮屈な日々を送っているとかで、今は毎年のようにノミネートされているノーベル賞もいつかは、などという話も聞く。
もっとも、先に触れたようにそういうアカデミックな世界のことはしょうじきよくわからない。ただし、今回ちょっと気が付いたことがある。
時折、というか最近は結構多いのだが、宇宙ロケットの開発に失敗したとか、旅客機の開発がとん挫したとか、半導体が作れないなど、ちょっと情けない日本、というニュースを聞くことがある。
そういう時僕は、それは残念だけどまあできないものは仕方ないし、それよりみんなが幸せに暮らしていければいいんじゃないか、と反射的に思ったりするんです。。
この発想、もしかしたらバブル期(というか日本経済が最高潮に達した昭和末~平成初期)前後を経験した人特有のものかもしれない、と、ふと思った。
僕自身も本当の本物は知らないのですが、その頃はまだ世の中に猛烈社員や会社人間がたくさんいて、そういう人たちが世の中を動かしていた。
今だとそういう事はブラックだとかいいますが、僕らの同級生も平日夜中まで仕事して、日曜は朝早くから社員行事で運動会に出て、とかいう話は普通にありました。
そういうのは良くない、日本人は働きすぎだ、これからはゆとりをもって生活をすべきだ、というナラティブが、そろそろ出始めていたのが昭和の末ぐらいからです。実際企業も自治体も、今みると浮ついたとかいう表現になりますが、急に何やら文化事業っぽいものを始めだしたりしていたのです。
がむしゃら過ぎるのは良くない、もっとゆとりのある人生を、というテーゼは、僕の若い頃に知らぬ間に染みついてしまったようです。
しかし、じっさい平成以後の30余年は、なんとかその猛烈さを緩める方向性でやってきたものの、それはそれで問題があるという状況になってしまったようです。人々が働かなくなったということではありません。たぶん昔の人の生活の中には、欠かしてはならない何らかのエッセンスがあったのでしょう。
昔の生活を変える過程で、そのエッセンスも失われてしまったのかもしれません。
昔のように懸命に働けば良いかというと、何かが欠けていれば結局それもうまくいかない。先に話題になった大手中古車会社も、芯に何かが欠けていたのでああなったのでしょう。
ではどうするか。答えはありませんが、個々人としては歩きながら考えていくしかないような気がします。。まあ世の中の流れは急に変わらないし、その前に自分がどこまで見届けていられるか、ってのもありますが。。