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9月20日
1807年(文化4年8月19日)
永代橋が崩落、深川富岡八幡宮の祭礼に詰め掛けた群衆が大勢巻き込まれ、1,400名もの死者・行方不明者が出た。
富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、東京都江東区富岡にある八幡神社。
別名を「深川八幡」ともいう。
2005深川八幡祭り(2)びしょびしょになってみる!?
toumorokoshi58さまよりお借りしました
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平成13年三社祭 荒れる宮出し
cg8maktさまよりお借りしました
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祭礼は、毎年8月15日を中心に行われる。深川八幡祭、深川祭とも呼ばれている。
当社の一の宮神輿は日本最大の神輿とされ、あまりの大きさに1991年(平成3年)に初渡御が行われただけで以後は神輿倉の展示品として扱われている。なお、2008年(平成20年)の連合渡御には、平泉の世界遺産登録を祈念して、平泉の神輿が特別に参加した。
渡御途中の中央区新川 (永代橋西詰付近) からは厚化粧して日本髪の鬘を被った女性の手古舞が加わる。
手古舞(てこまい)
tougeoyajiさまよりお借りしました
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【手古舞】とは 1
《「梃子前(てこまえ)」からという》江戸の祭礼で余興に行われた舞。
のち舞は絶え、特殊な男装をした女性が、男髷(おとこまげ)に片肌ぬぎで腹掛け・たっつけ袴(ばかま)・脚絆(きゃはん)などをつけ、紺たび・わらじをはき、花笠を背に掛け、鉄棒(かなぼう)を引き、牡丹(ぼたん)を描いた黒骨の扇を持ってあおぎながら木遣(きや)りなどを歌って、山車(だし)や神輿(みこし)の前を練り歩くもの。
もとは氏子の娘たち、のちには芸妓などが扮(ふん)した。 (goo辞書より)
【手古舞】とは 2
手古舞(てこまい)とは、ほんらい山王祭や神田祭を中心とした江戸の祭礼において、山車を警護した鳶職のこと。また、もとは「てこまえ」といった。現在一般には、この「てこまえ」の姿を真似た衣装を着て祭礼その他の催し物で練り歩く女性たちのことをいう。 (ウィキペディアより)
鳶職はその名が鳶口を扱うことからきているが、江戸時代にはほかに「てこ」または「てこの者」とも呼ばれていた。
これは鳶の者が土木作業をする際に、手棍(てこ)を使って木や石を動かしたことによる。
当時の江戸の町の鳶は、山王・神田の祭礼のときには山車を組み立てその山車を置く山車小屋を建て、さらにその山車を引き回すときには付き添って、木遣を唄いながら警護するのを役目とした。
このときの山車に付き添う鳶のことを「手棍前」(てこまえ)と呼んだ。「前」というのは、山車の前に立って道を行き警護したことによるという。
「手棍前」は「手古舞」とも書いたが、「舞」というのは当て字らしく、特に祭礼に当たって何か踊るというわけではなかったようである。
その格好は派手な着付けにたっつけ袴、花笠(またはざんざら笠という菅笠)を用いるというものであるが、袴をはかず着流しで東からげにするというのもあった。
のちに芸者や氏子町の娘たちがこの「手棍前」の格好を真似て、これも山車の引き回しに付き添うようになった。
これが現在見られる「手古舞」の起こりである。
本来の鳶職による「手棍前」の風俗は幕末にはすでに廃れてしまったものらしく、菊池貴一郎著の『江戸府内絵本風俗往来』には、山車を警護する鳶の「手古舞」の姿が揃いの「印袢纏」であると記されている。
しかし歌舞伎や日本舞踊では今もその姿が残されており、往時を偲ばせるものとなっている。(ウィキペディアより)
日程が現在とずれている。
旧暦がからんでいるのか…。
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