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(写真は龍門古鎮の川べりで、油絵を描く画学生たちの画材など。昼食を食べに行っていたのでは・・・。中国版モンパルナスの丘といった風情を感じる。)
記録だけ 2008年度 39冊目
『滑稽糞尿譚』 ウィタ・フンニョアリス
安岡章太郎 編
株 文春文庫
1995年2月10日 第1版
286ページ 450円+税
本日、『滑稽糞尿譚 コッケイフンニョウタン』(ウィタ・フンニョアリス )を楽しむ。
しかしこの「ウィタ・フンニョアリス」には笑わせていただいた。
題名からして洒落にならん。ではない、駄洒落がきつい。
たかをくくって読み始めたが、これがまた面白い。
初めに申し上げておきますが、私至って健全で、変な趣味は毛頭ございませんので、ご安心下さい。
有名な作家や著名人が軒を連ねてつくりあげた、トイレ云々?にまつわる一冊。
中でも面白く感じたのは、直球では、『小便がつまる』(入江相政)元侍長と、『食事と排泄』(星新一)。
曲屁の芸の見せ物である 『目出度三番叟屁』や平賀源内、果てはフランスまでも話を広げた、編者 安岡章太郎の『わが糞尿譚』は興味深い。
『粉屋の話』(チョーサー作・西脇順三郎訳)はオペラ或いはオペレッタになる。美女を中心において、まじめくさった顔で惚れたはれた以外に、このような馬鹿げた展開が繰り広げられれば、昔の貴族たちは作者に対してどのような態度をとるのだろうか・・・。考えると、楽しいではないか。衣装や歌声、声色まで思い浮かべながら へらへらと阿呆になって読むことをお勧めする。
ラブレー作の『尻を拭く妙案を考え出した・・・・・・』(渡辺和夫 訳)は、阿呆な詩を、声高らかに リズムに乗せて読むことに意義があると申せよう。ただし、私は黙読。申し訳ない。
ヘルマン・ポーテ作『オイレンシュピーゲル・・・・・・』(藤代幸一 訳)はいつもの通りで、笑った。
芥川龍之介や円地文子、吉行淳之介、金子光晴他、そうそうたるメンバーの中に、不思議にも 開口健の名前がないので 不思議に思っていた。案の定、安岡章太郎の文中に、開口健登場。こういった話は、彼抜きでは片手落ちというもんだ。
良かった、良かった、これで安心。
乱鳥様がお好きな石仏を、いやというほどBlogに上げました。今回、素敵な民話もご紹介しました。石仏紹介はこれくらいにして、また次回から神楽に戻ります。
素晴らしく美しい景色の所に、立派な石仏の数々があるのですね。あまりにも美しいので、見とれてしまいました。ここも、行きたい・・・。ひっそりとした場所だったのでしょうか。境界線というよりも海に臨むといった地形に置かれているように感じましたが、いかがでしたのでしょう。こういった所は民話、伝説も多いのでしょうね。しし様の書いて下さった民話も読ませていただきました。ありがとうございます。一度、そちらの地方の民話本も読んでみます。
娘の化身 深浦も拡大して拝見させていただきました。貴重なお写真をありがとうございます。
左から計って、
右目7、8㎝ 右顔の輪郭8、1㎝
上から
右目8、9㎝ あご下 10、2~10、3㎝
の所に浮かび上がった物は、お顔なのでしょうか・・・。私には分かりません。
浮き彫りは風化の激しい物によく出会います。目をこらしてもこらしても分からない場合も多く、まるで頭の中はパニックで、パズルを解く状態です。でも貴重な物だから、やはり気になってしまって・・・。帰ってから写真で何とか・・・なんて言う場合もあります。
乱鳥は料理と舞台と本が好きな、単純な馬鹿です。本のタイトルはすごいのですが、内容は結構まじめに論じられ、面白かったです。民話などでも『屁っぴり嫁』など、多くが残ってますでしょう。南方熊楠はそういった話抜きでは論ぜられないなんていう考えだったらしく、柳田圀男とは、意見の上で、対立の立場にあったらしいのです。(でも、仲はよい)柳田圀男はそういった部分がほとんど出てこないらしいのですが、文章も美しく、内容が好きなのでやっぱり柳田圀男を読んでしまいます。昨日から、第五巻の『一つ目小僧』を楽しんでいます。『一つ目小僧』を選ぶなんて、阿呆ですね!
しし様のこれからのご活躍を祈願しております。神楽の作品も、とても楽しみです!
長文、失礼いたしました。
娘の化身のビーナス石のお話は、書店や古本屋で昔話や民話の文献を調べた限り、どこにも見当たりませんでした。日本全国、どこにもこういった隠れた昔話があるのでしょうね。もう一歳とったら、探し歩いてみたい気がしています。
ビーナス石ではないのですが、義経に捨てられて 真っ青な石に化身した話も読んだことがあるますが、こちらは恋に敗れるパターンですね。確か東北か北海道ではなかったでしょうか。
一般的には、石も魔力を持った物と考えられている場合も多いですね。神社などに大きな石がまつられているのもよく見かけますでしょう・・・。これは古くは中国からではないかと考えていますが、確信は持てません。或いはもっと西(イランなど)かも知れません。
二月に雲崗石窟にいって知ったのですが、これらは仏陀の化身とされていますでしょう・・・。日本では 如来と菩薩、また、仏が神に化身した姿とあがめられている場合もあると 以前読んだことがあります。
奈良の斑鳩では、お地蔵さんの横に小石が置かれている場合があります。何だか生活に密着しているようで、不思議です。(笑)
石は鳥居や神聖な場所や境界線や辻や青森の恐山のような霊気の感じる?場所で、高く積まれているのを見かけますでしょう・・・。あれも何か意味があるのでしょうか?一人が置き始めると、次々に積まれる。まるでそれが、その瞬間に於いては、自分の宿命でもあるように・・・(笑)不思議ですね。
娘の化身のビーナス石のお話にぴったりの物は読んだことはありませんが、何かそのパターンに近い話があるかも知れませんね。今日は関西は一日中雨で、図書館に行くことができませんでした。何だか楽しそうなので、しし様にあやかって、少しでも近い物が調べられたら楽しいだろうなと感じさせられました。ありがとうございます。
後で考えたら、パソコンの拡大値などによって、数値が違ったのですね。私って、駄目ですね。失礼いたしました。
神楽の作品、拝見させていただきました。素敵ですね。とても嬉しく感じました。しし様のご友人の方のお作りになった鯛も、鮮やかですね。皆さん、神楽にお詳しい方ばかりで、一人、恥ずかしいです。
素晴らしい神楽の写真作品を今後も楽しませていただきたいと思います。ありがとうございます!
「賽の河原」…現世と冥土の間にある三途の川の河原に『賽の河原』があって、親より先に亡くなった子供たちは極楽には行けず、子供達自らが何か功徳を積んで仏の世界に行こうとします。子供達はそこでまわりの小石を積んで仏塔をつくり始めます。ところが漸く完成すると、そこに鬼がやってきて、やっと積み上げた小石の山を崩してしまいます。賽の河原とは、やってもやってもやり遂げられない事を際限なく続けるという苦しみや悲しさや虚しさを言ったものです。子供を先に亡くした切ない親の詫びる思いから出ているものだと思われます。子供達は、最後は地蔵菩薩が来て助けてくれます。日本中いたるところに賽の河原は存在し、そこには必ずお地蔵さんが奉ってあります。地蔵信仰の現れですかね。私の地方にも賽の河原があって(たしか広島では帝釈峡,山陰地方では大山や畳ヶ浦あたり)何処も何だか陰湿な感じがします。まるでこの世とあの世の異次元の入り口のような…。
石仏にしろ摩崖仏にしろ小石の仏塔にしろ、岩石=霊を宿すという石信仰が日本中に根付いているのではなかと思います。