久しぶりにミニバイクで斑鳩町にいって来ました。
中央公民館の駐車場裏手にまわりますと、女性お二人が発掘物を調べ分けておられる最中でした。
熱心にお仕事されておりましたので、どこから発掘されたものかは聞いておりません。
女性から離れ、その先を見ますと、おびただしい数の土器の破片が分類されています。
あまりに数の多さにビックリ@@
写真は一部分です。
京都にいた頃は博物館で見ていたような発掘物。
奈良に住んでからというもの 考古学博物館ばかリではなく各町の資料館に持たれていることも多く、発掘物を見る機会に恵まれることが多いです。
イランの多くの遺跡の近くには写真のような土器の一部が数多く砂に埋まっています。
中には彩色や文様のあるものもあり、ドキドキします(だじゃれかい?)
イランの場合は処理できないくらいの量なのだと感じます。
主なものはテヘランの博物館や地元博物館に収められています。
昨年の秋冬とイランに行く機会に恵まれておりませんでしたので、こういった光景に出会うと個人的には満足感は大きいです。
奈良 斑鳩町 中央公民館
家族と、梅林を歩く。
昨年より2、3日遅い
蕾、満開に加え、少し色あせた八重の紅梅も多い。
此所はしだれ梅は無いが、白、薄桃、赤と色とりどりの梅が集め 植えられている。
鶯のこえは、高いこずえから
メジロ飛び交う
上着を着込んでいるというのに、梅林では、春満開
奈良 馬見丘陵公園の梅林にて
3月19日
今日は何となく日本の画家で一日のスタートを切りたい。
藤島 武二 ふじしま たけじ
1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日
代表作 ウィキペディアより ▼
「池畔納涼」 1897年(明治30年) 東京芸術大学大学美術館所蔵
「天平の面影」1902年(明治35年) 石橋美術館所蔵(重要文化財)
「蝶」(1904年(明治37年)) 個人蔵
「黒扇」1908-09年(明治41-42年) ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)
「婦人半裸像」1926年(大正15年)
「大王岬に打ち寄せる怒濤」1932年(昭和7年) 三重県立美術館・ひろしま美術館所蔵(同名を2枚作成)
「旭日照六合」(1937年(昭和12年)) 三の丸尚蔵館所蔵
三重県立美術館 藤島武二(1867-1943):館蔵作品一覧
三重県立美術館 所蔵品 (画像なし 多い)
どこか 美術館へ行きたいわぁ~
49: 『名作歌舞伎全集 第十四巻』から
「伊勢音頭恋寝刃」「解説」
東京創元社
昭和44年
「伊勢音頭恋寝刃」154-224
「解説」 143-153
『名作歌舞伎全集 第十四巻』から「伊勢音頭恋寝刃」を読む。
藤十郎さん、片岡仁左衛門さんの台詞が心に舞い、気持ちが良い。
片岡我當さんの声が頻繁に聴こえてくる。
歌舞伎!が、みたい☆ 歌舞伎!(笑)を、みた~い!
まださ寒い日差しの三月、春仕様薄手のドレスアップには躊躇してるようす。
そんな風に感じる木立を見た。
木炭で輪郭を描き、間違いをで押し消したような、画面の不安定さが逆に光や奥行きを感じさせる場合もある。
今日の木立は、木炭デッサンとパンの耳を思い浮かべる。
♩木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
やたら背伸びした木立は、男に歩み寄り、「僕を写して」と言っているよう…。
なのに、カメラの男はやつれは手や木立には、目もくれず、そっぽをむいてカメラを構え始めた。
これが人生たるものか…
やつれたのっぽの穏やかな木よ お前にも 春あれ幸あれ 希望あれ
♩木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
木炭消すには食パンの真ん中。お腹がすいたらパンの耳。
馬酔木(アセビ) と、苔(コケ)
天気に恵まれなかったので、楽しみにしていた奈良県庁前の芝能見学をあきらめ、丘陵公園に行く。
昨年に見た馬酔木の花のかわいらしさと梅林はちょうど今頃が季節
朝には強く降ってた雨が、昼には上がったので、二人でのんびりと歩いた。
ピンク色の馬酔木は満開に近づき、白色の馬酔木はかたい蕾も多く、これから見頃をむかえそうだ。
第9回 大和郡山 盆梅展 1 郡山城跡 追手門・追手向櫓・多聞櫓 (奈良県大和郡山市城内町)
第9回 大和郡山 盆梅展を拝見させていただいた。
ひと鉢ごとに愛情深く育て上げられた盆梅に慈しみを感じる。
盆梅の美しさと、自分だけの静かなひとときを満喫した。
つづく
2012年3月12日
『新薄雪物語』一、二、三幕目
新薄雪物語~序幕 <字幕付>
出演:中村芝雀 中村錦之助 中村福助 市川染五郎 澤村由次郎 大谷桂三 市村家橘 市川段四郎 中村富十郎
2008年
87分
カラー
豪華絢爛たる義太夫狂言の名作。序幕「花見」はさくら満開の清水寺の境内で、園部兵衛の子息・左衛門と幸崎伊賀守の息女・薄雪姫が、歌に事寄せて偲びあう約束をする場面。かねて思い合う仲の二人に邪魔が入り、二幕目「詮議」では園部兵衛と幸崎伊賀守が互いの子の不首尾を詫びその処遇を相談する。三幕目「合腹」は、我が子を救おうとする兵衛と伊賀守が互いに腹を切り、夫の死を嘆く妻・梅の方と共に“三人笑”に興じる場面がみどころとなっている。芝翫の梅の方、富十郎の秋月大膳・葛城民部、幸四郎の園部兵衛、吉右衛門の幸崎伊賀守ほか豪華顔合わせでお届けする。 (2008年/平成20年6月・歌舞伎座)
新薄雪物語~二幕目 <字幕付>
出演:中村富十郎 中村吉右衛門 中村魁春 中村錦之助 松本錦吾 中村芝雀 坂東彦三郎 松本幸四郎
2008年
48分
カラー
豪華絢爛たる義太夫狂言の名作。序幕「花見」はさくら満開の清水寺の境内で、園部兵衛の子息・左衛門と幸崎伊賀守の息女・薄雪姫が、歌に事寄せて偲びあう約束をする場面。かねて思い合う仲の二人に邪魔が入り、二幕目「詮議」では園部兵衛と幸崎伊賀守が互いの子の不首尾を詫びその処遇を相談する。三幕目「合腹」は、我が子を救おうとする兵衛と伊賀守が互いに腹を切り、夫の死を嘆く妻・梅の方と共に“三人笑”に興じる場面がみどころとなっている。芝翫の梅の方、富十郎の秋月大膳・葛城民部、幸四郎の園部兵衛、吉右衛門の幸崎伊賀守ほか豪華顔合わせでお届けする。 (2008年/平成20年6月・歌舞伎座)
新薄雪物語~三幕目 <字幕付>
出演:中村芝翫 中村吉右衛門 中村芝雀 中村錦之助 市川高麗蔵 中村歌昇(現・又五郎) 大谷友右衛門 中村魁春 松本幸四郎
2008年
83分
カラー
豪華絢爛たる義太夫狂言の名作。序幕「花見」はさくら満開の清水寺の境内で、園部兵衛の子息・左衛門と幸崎伊賀守の息女・薄雪姫が、歌に事寄せて偲びあう約束をする場面。かねて思い合う仲の二人に邪魔が入り、二幕目「詮議」では園部兵衛と幸崎伊賀守が互いの子の不首尾を詫びその処遇を相談する。三幕目「合腹」は、我が子を救おうとする兵衛と伊賀守が互いに腹を切り、夫の死を嘆く妻・梅の方と共に“三人笑”に興じる場面がみどころとなっている。芝翫の梅の方、富十郎の秋月大膳・葛城民部、幸四郎の園部兵衛、吉右衛門の幸崎伊賀守ほか豪華顔合わせでお届けする。 (2008年/平成20年6月・歌舞伎座)
平成20年6月・歌舞伎座の 『新薄雪物語』
一幕目、色彩構図の華やかさあり。
二幕目、 花道での松本幸四郎と中村吉右衛門
素晴らしい業の見せあい
一、二、三幕目 歌舞伎やわぁ~~~
三幕目
中村芝翫、松本幸四郎、中村吉右衛門の 笑う場面の素晴らしいこと!
涙が止まらないほど、溢れ出る。
中村芝翫、松本幸四郎は、台本内容(『名作歌舞伎全集 第三巻』「新薄雪物語(新薄雪)」)に忠実な笑い方をされていたように感じる。
前半の中村芝雀、市川高麗蔵の言い回しも素敵だったし…
こんな舞台なら、劇場で見たいな…。
『名作歌舞伎全集』で読んだことだし、この三日間の(テレビ)舞台の余韻を思い浮かべながら、今夜は岩波古典で『新薄雪物語』を楽しもうと思う。
00: 『千両役者血染斧地獄江戸鑑』 江戸松 門番衛門
江戸松 門番衛門の『千両役者血染斧地獄江戸鑑』を読みました……の…でしょうか?
いえいえ そんなものはございませんと、遠まきに近松が、墓場の影から申しております。
1946年3月16日
片岡仁左衛門一家殺害事件(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)とは1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件がおこったという。
これ以降、ウィキから ▼
1946年3月16日、東京都渋谷区の歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかる。殺されたのは、片岡仁左衛門(当時65歳)、その夫人(元日活女優の小町とし子、当時26歳)、三男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)である。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。
捜査線上に浮かんだのは、同居していたが事件以後は行方不明となっていた女中の兄X(当時22歳)だった。捜査本部はXを指名手配。3月30日、Xは逮捕された。
捜査によって、犯行動機は当時の食料事情の悪さなどから1日2食(合計米1合3勺程度)しか与えられていなかったことと、夫人との諍いや仁左衛門が男を罵倒したことが犯行の動機になったと推定された。
Xはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時の記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学精神科教授内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。
1947年10月22日、Xは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、完全責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この減軽について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。にも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Xの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。
嵐寛寿郎のエピソード(ウィキ)では次のように記されていたのが思い出される。
1927年(昭和2年)十一代目片岡仁左衛門が、稽古のとき、「踊りが下手だ」と有望な若手俳優の顔面を真剣で殴打した。その場に居合わせた寛寿郎(当時は嵐徳太郎)は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」と衝撃を受け、映画界入りを決意したという。なお、その時の殴られた俳優はのちの片岡千恵蔵であった。
十一代目、十二代目と上によれば役者の奢り或は癇癪持ちのように読み取れるが、温和な面しか知らない現在の仁左衛門さんからは想像もつかない。
1946年(昭和21年)の片岡仁左衛門一家殺害事件だが、もし近松門左衛門の時代と時代が重なり作家が江戸に旅しこの事件を知ったなら、どのように脚色して描いたのだろうか…
3月に発生した殺人事件とは家、水など大量に使って、此所はひとまず夏芝居に仕上げてみたいと思うのだが、近松の名を出した生だろうか。
本日に限っては 目を閉じると、上方風の芝居が浮かぶわたしだなぁ~~~。
余談ですが、今読んでいるのは 近松徳二作「伊勢音頭恋寝刃」
あはは あはは は