「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

ご挨拶

2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。

介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。

今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。

タティング

タティングは↓こちらに 写真をアップしていくことにしました。
お暇が出来たらのぞいてやって下さい。
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今日はちょっとグチを…

2007-04-05 | ●介護録(~2015.2月)
気分的にはそれなりに落ち着いてめし、調子よく、予定を片づけていますよ、私。
でも、母がいる時間。荒れてます。

失禁も止まっている。
徘徊も玄関止まり。
妄想話もいつものこと。
モノがなくなるのも、メチャクチャになっているのも特に今始まったことではない。

げとね………すっごくイヤで、イヤで。
家の中のありとあらゆるものをぜーんぶ捨ててしまいたいとおもったくらい、モノの存在がジャマになった。
といって、何もない部屋で暮らせない。

モノのあれこれで私がストレスをためないためには、「母の使う空間」だけを隔離して、必要不可欠な最低限のものだけおいて、日常と切り離さなければならないと感じる。
しかし、これは一種の虐待。
母は認知症患者だけど一人の人間で、人間らしく生きる権利がある。

施設で手錠したり、檻に入れたりという拘束の仕方が問題になった。
とんでもない、と思う反面「そうしたくなる気持ちわからなくもないのよね~」と思う私もいる。
思っても出来ないのは、私が母に対して情かあるから。いえ、他人に対してだってそこまでの拘束は「人として」出来ないよね。
でも施設のように大人数になってしまうと、自分が処理すべき仕事として情みたいなものは脇におしやられてしまうのか?

認知症の介護って……救いがない。
私はいつも悪者にされてしまう。ホントに悪いのは……母?じゃなくて認知症って病?いえ、介護の専門家なら、あなたの接し方が悪いって言うんだろう。

認知症介護っていうのは「あきらめ」でもあるよね。
それをかっこよく言うと「受容」。
高齢者福祉においては、受容は=あきらめに近い、そんな気がする。

弦をはじく楽器で曲を歌うには…

2007-04-05 | ■ELECTONE
エレクトーンをやっていた頃、「もっと歌って~」と先生に言われることがあった。
楽器をやった経験がある人なら、言われたこと、あるんじゃないかな。
つまり、もっと表現豊かに~ってことだ。

文化箏を弾いていて、多少、なれてきたのか、こういう弦をはじく楽器で「歌う」にはどうしたらいいんだ?っていう疑問が湧いてきた。

鍵盤のように音が伸びない。エレクトーンは、鍵盤の叩き具合、その後の押し込具合で強弱がつけられるし(昔のは出来なかったのよね)、左足ペダルをぐっーーーと踏み込んでボリュームアップも出来る。
ところが、文化箏は、伸びている音も、一拍も、結局は一度はじくのみだから、なんか物足りない。盛り上がろうと強く弾くと音がよくない

なんて思っていたら、レッスンの時、やはり先生がいいましたよ。
「もっとふくらませて~」って。
ニュアンスとてもよく分かるけど、はて?箏の音はどうやったらふくらむのか…。

一応、自分なりに、心の中で歌いながら弾いてみましたが……ちゃんと「ふくらんで」いたのかしら?