「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

枯れ逝く命

2015-10-12 | ●介護回想(2015~)
母が肺炎になる前の私、胃ろうまでして生きるのは……と思っていた
でも
選択しなくてはならないかも?という立場になったら
人としての尊厳などという理屈は
ただの綺麗事にしか聞こえなくなってしまった。

尊厳死ってなに?

それを語れるのは本人だけ
自らそれを選んだ人だけ

そんな気がする


第三者が、
胃ろうって人としてどうよ?と言うと

100%自立して生きられないなら人としてダメって言ってるように聞こえる……
人間やめて死になさいってこと?
……
そんなふうにもちょっと思った。


認知症は本人の思いを確認出来ないから、想像するしかない。
きっと、そんな延命を望まないに違いない…と。
ただ、その決断を下すのは辛いこと。

赤いシャツと黒いシャツ、どっちにします?
と聞かれて
母は多分赤を選ぶと思うので赤にします
……というのとはわけが違うもの。


母は胃ろうになることはなく、中心静脈注射で約一年生きた。
簡単にいってしまうと、それは私の選択の結果ではなくて医師の判断。
世の中は何でも胃ろうという時期を過ぎ、反対する医師の声も出ていた。
(療養病棟の医師は鼻からの注入には反対)

もはや胃ろう云々の段階ではないんだと納得しつつも
(最初に担当した医師が胃ろうの話などしなければ悩まなかったのに……)
胃ろうで栄養状態が多少でも改善したらゼリーくらい食べられるようにならないかな?
という淡い期待もあったから

認知症が進行した高齢者に胃ろうをしても栄養状態の改善はほぼ見られない

というある医師のblogに出会って本当に色々腑に落ちるまではモヤモヤしていた。


ワタシは勝手に
もう食べたくないと口を開けなくなって、それで枯れていく命………をイメージしてたので、
入院直後はエア食べしてた母を見て、なんとかならないものか?と考えてしまったけど
きっと、肉体年齢よりはるかに脳年齢は老化してたんだろう
食べる気はあったみたいだけど
飲み込む力はなかった。
それも脳のせい。

想像していたのとは違ってたけど
枯れいく命だったんだ…と思う。

でも
もしも外から栄養を与える方法がなければ、食べられなくなったところで命の終わり……と考えだすと
点滴はいいけど、胃ろうはダメ…っていう線引きは何?とか……
頭が痛くなる。


「おひとりさまの老後」という本の中に
障害があって介護を受けている方が

「尊厳死は尊厳殺よ」

と話しているという記述があって

尊厳死ってなに?
という私の問の答えか?と思ったり………

難しい宿題なので解答出来ず…となりそうだけど。


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4 コメント

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あんずさんへ (ビゴ)
2015-10-16 17:20:25
難しいですね。
正直、よくわかりません。

ただ
第三者が軽々しく尊厳死を語るものではないって、それだけは今思います。

たしかに、胃ろうという医療技術がそもそも存在していなければ悩むことなどなかった話。
だから、胃ろうも考えて……と医師に言われた時は、なんで胃ろうなんてあるの?!と思いましたもん。
だけど、何かの病気や事故で一時的に食べられなくなった場合には、胃ろうの果たす役目は大きい。
まあ、そんな技術があるのだから、飲み込みが悪くなった高齢者にも胃ろうしましょうってことになったのも当然の流れだったのかも?
(病院がもうかるということも含めて)

長く生きればよいというものではないけど、本人ではない者が、終わりの時を決めるのもキツイことです。
無駄な延命は望んでないだろうと思っても、決断した者はずっとその事実を持ち続けるわけですから。

やはり、難しい宿題ですね
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もなかさんへ (ビゴ)
2015-10-16 17:05:58
なるほど、細胞が減るので栄養を吸収出来ないんですね。

こういう説明をされると、看取るほうとしてはとても納得しやすいと思います。
なにか哲学的な理屈ではないハッキリクッキリな理由。

よく、動物も死が近くなると食べなくなるといいいますよね。
人は変に知恵がついた分、自然の摂理に抗ってしまうのでしょうか?

脳内モルヒネみたいなものが出て苦痛を感じないのなら何よりだけど。
そういう状態になるのはどれくらいからなんだろう?

タン吸引は苦しそうだった。
夏頃、タンが絡んでむせこんで苦しい?と聞いたら(反応はないだろうと思ったのに)「うん」とうなづいてた。
亡くなったのは冬。どう亡くなったかは不明で、特に状態が悪くなっていたわけではないので、母がどのくらい枯れていたのかよくわからない。
もちろん、大きなくくりでは、枯れていく道のりにいたとは思うのですが……。
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こんにちは (あんず)
2015-10-14 23:05:32
尊厳死
毎日考えています。

まだ先のことなのかもしれないし、
急に何かが起こるかもしれない。
だから、その時どうすべきなのか?
考えてます。

認知症は、残酷な病気ですね。

その残酷な症状を作り出してきたものの一つに、
進化しすぎた医療技術とその行為にあるように感じています。
(もちろんそれだけではないでしょうが)

母の場合、
糖尿病による心筋梗塞を、
手品のように治してしまったあの日。

あの日が 本来の寿命だったのかもしれない 
と思うのです。

思い起こせば、あの日から。。。。
徐々に認知機能が衰えてきているのだから。

したがって、現在。
医療によって不自然に生き続けているということになるわけで。。。

寿命を超えて生きているのだから、
脳が衰えても仕方がないのでしょうね。

母には選択などできないから、
胃瘻の選択も含め、
様々な決定を私がすることになりますね。

尊厳死などというけれど、
人にゆだねられる死に、尊厳などないのかもしれません。

私にとっても、難解な宿題です。


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老衰についての番組を観ました (もなか)
2015-10-14 06:30:48
先日NHKでやってました
老齢期には細胞が減少していくので
栄養を吸収出来なくなると判明したそうです

肉体は自然現象で枯れていく
死を悪い事と捉えてはいけない




ある特養での看取りを取材してましたが
そこの医師は
全く点滴も酸素吸収もせず
口を濡らすだけで
看取りをしてました

食べられなくなるのは
自然現象

私は3年前に認知症の父を送りました
GHで誤嚥性肺炎を繰り返し
胃瘻にしないと
苦しんで死ぬ事になると訪問医に
迫られ、
悩み、ネットや本で調べまくりました

枯れゆく肉体の頃は
脳にホルモンが出て
苦痛を感じなくなるという説を
見つけました

私はこの医師の説に賭けて
父に胃瘻をしないと決断しました

GHに熱意が伝わり、別の訪問医に変更してくれて
GHで安らかに息を引き取る事ができました

昨年は17歳の愛猫も
食べなくなっても病院に連れて行かずに
安らかに逝かせました

私の経験を書いてみました
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