人生とは旅であり、旅とは人生である
~1992年7月7日-
俺が「選挙」という旅に出てから今日でちょうど14年の月日が経った。
29歳の七夕の日、国連ボランティアとしてカンボジアに旅立ち、その旅は始まった。
カンボジアの秘境ラタナキリ州。
国連が史上初めて一国の代わりに統治を行うUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の一員になり、選挙を成功させるため、毎日、夢中になって活動を続けた。
高床式の民家に住み、連日、地雷や不発弾の埋まったジャングルを歩き、何度もマラリアに襲われながら、俺の任地であるボケオ郡での選挙実施のため準備を行った。
脅迫に遭い、仲間が殺されても、ひたすらカンボジアの未来を信じ活動を続けた。
この旅が、こんなに長くなるとは、俺自身思いも寄らなかった。
カンボジアの後はモザンビーク、さらにボスニアに行き、そして、専門学校の教員に。大学院でも勉強を続け、その後、首藤信彦衆議院議員の政策秘書になった。
国会で秘書をしながら、インターバンドという平和構築NGOの事務局長も兼務した。
アジアの民主化支援NGOとともに、スリランカ、東ティモール、パキスタン、カンボジア、アフガニスタン、インドネシアなどの紛争地域で選挙を支援する活動を続けた。
また、平和構築活動において重要な除隊兵士を支援する活動の責任者になり、カンボジアでのプロジェクトを立ち上げた。
紛争地の現場と国会の両方で活動を行う中で、俺自身が国政に携わり、変えたいという強い思いに突き動かされた。民主党の候補者公募に応じ、2003年、衆議院選挙の候補者になった。
選挙は国の未来を決める大切なもの。
それだけに、候補者は多くの人前に晒され、また多くのジャーナリストから取材を受ける。
多くの期待や注目を集め、そして当選のための責任を負う。
地道な活動の苦労を忘れさせてくれる人のやさしさに感動することもあれば、自分の存在価値を全て否定されるような批判に苛まれる。
衆議院選挙の候補者になって以来、「選挙、好きですか」と言われても、「好きだよ」と素直に言えない自分がいた。
多くの方々の支援に感動を覚えると同時に、保守的な地盤、圧倒的に強力な対立候補の存在は、とてつもなく大きな壁だと感じていた。
けれど、総支部代表として2度目の挑戦になった昨年9月11日の総選挙の後、志を遂げるまでは、絶対にあきらめたくない自分が確かにいることがわかった。自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。
落選の翌日から一週間、俺は毎日駅に立った。
どこの駅に立っても掛けてもらった「がんばれよ」の励ましの言葉。本当に多くの方々に支えられていることを実感した。
選挙という旅の中でも「総支部代表」は、俺にとって特別に重い地位だった。
2度目になった2005年の衆議院選挙に向け、俺は、政権交代の必要性について、また、議員になった時に実現する政策について、連日、駅頭に立って訴え続けてきた。
「政治家として、俺は何を変えることができるのか」それだけを考えて活動してきた。
俺は2005年の総選挙、民主党の可能性はかなり大きいものと感じていた。
多くの候補者仲間が、政権交代という使命を胸に、地を這うような活動を続けていた。
俺も20000件以上の地域の方々と対話をし、岡田代表(当時)を招いてタウンミーティングを行い、そして凍えるような冬の日も、灼熱の夏の日も、毎日駅頭に立って支持を訴えてきた。
しかし、本当に残念だったのは、最初は民主党優勢と見られた選挙戦が、終始小泉首相のペースで進み、民主党が100%の力を出すことができなかったことだ。
「郵政民営化」をたったひとつの争点にし、次々に「刺客」を放ってマスコミの話題を独占する小泉首相の劇場型選挙戦略の前に、民主党が完全に埋没してしまったからだ。
89901票を頂きながら、当選という結果を出せないままに総支部代表を辞任するのは、とても辛いことだと感じている。しかし、民主党の規約に従い、再度、公募に応じて、チャレンジを続ける決断をした。
紛争地の選挙支援、そして自分自身の選挙活動の中で培った経験は、これからも俺が政治活動を行う上での基盤になるだろうし、自信になると思う。
みんなの声を胸に、これからも挑戦を続ける。
そう思えばこそ、これから先の新たな旅で、どんな困難なことがあろうと、乗り越えていけると信じられる。
新しい挑戦はこれから始まる。
いったんは、民主党神奈川17区総支部代表を辞任するけれど、政治への挑戦をやめることは絶対にないだろう。
駅頭で、民家の軒先で、また路上で、さらに世界各地で、人々の声を聞いて歩くだろう。
民主党の公募に応じ、最初に挑戦した時と同じ気持ちで。そして、14年前の今日、勤めていたキヤノンを辞めて、カンボジアに赴いた時の瑞々しい気持ちを持って-。
そして、最後まで信じ、応援して下さった方々に心の底から一言を。
ありがとう。more than yesterday. 明日を信じて。
さかぐち直人
さかぐち直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
~1992年7月7日-
俺が「選挙」という旅に出てから今日でちょうど14年の月日が経った。
29歳の七夕の日、国連ボランティアとしてカンボジアに旅立ち、その旅は始まった。
カンボジアの秘境ラタナキリ州。
国連が史上初めて一国の代わりに統治を行うUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)の一員になり、選挙を成功させるため、毎日、夢中になって活動を続けた。
高床式の民家に住み、連日、地雷や不発弾の埋まったジャングルを歩き、何度もマラリアに襲われながら、俺の任地であるボケオ郡での選挙実施のため準備を行った。
脅迫に遭い、仲間が殺されても、ひたすらカンボジアの未来を信じ活動を続けた。
この旅が、こんなに長くなるとは、俺自身思いも寄らなかった。
カンボジアの後はモザンビーク、さらにボスニアに行き、そして、専門学校の教員に。大学院でも勉強を続け、その後、首藤信彦衆議院議員の政策秘書になった。
国会で秘書をしながら、インターバンドという平和構築NGOの事務局長も兼務した。
アジアの民主化支援NGOとともに、スリランカ、東ティモール、パキスタン、カンボジア、アフガニスタン、インドネシアなどの紛争地域で選挙を支援する活動を続けた。
また、平和構築活動において重要な除隊兵士を支援する活動の責任者になり、カンボジアでのプロジェクトを立ち上げた。
紛争地の現場と国会の両方で活動を行う中で、俺自身が国政に携わり、変えたいという強い思いに突き動かされた。民主党の候補者公募に応じ、2003年、衆議院選挙の候補者になった。
選挙は国の未来を決める大切なもの。
それだけに、候補者は多くの人前に晒され、また多くのジャーナリストから取材を受ける。
多くの期待や注目を集め、そして当選のための責任を負う。
地道な活動の苦労を忘れさせてくれる人のやさしさに感動することもあれば、自分の存在価値を全て否定されるような批判に苛まれる。
衆議院選挙の候補者になって以来、「選挙、好きですか」と言われても、「好きだよ」と素直に言えない自分がいた。
多くの方々の支援に感動を覚えると同時に、保守的な地盤、圧倒的に強力な対立候補の存在は、とてつもなく大きな壁だと感じていた。
けれど、総支部代表として2度目の挑戦になった昨年9月11日の総選挙の後、志を遂げるまでは、絶対にあきらめたくない自分が確かにいることがわかった。自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。
落選の翌日から一週間、俺は毎日駅に立った。
どこの駅に立っても掛けてもらった「がんばれよ」の励ましの言葉。本当に多くの方々に支えられていることを実感した。
選挙という旅の中でも「総支部代表」は、俺にとって特別に重い地位だった。
2度目になった2005年の衆議院選挙に向け、俺は、政権交代の必要性について、また、議員になった時に実現する政策について、連日、駅頭に立って訴え続けてきた。
「政治家として、俺は何を変えることができるのか」それだけを考えて活動してきた。
俺は2005年の総選挙、民主党の可能性はかなり大きいものと感じていた。
多くの候補者仲間が、政権交代という使命を胸に、地を這うような活動を続けていた。
俺も20000件以上の地域の方々と対話をし、岡田代表(当時)を招いてタウンミーティングを行い、そして凍えるような冬の日も、灼熱の夏の日も、毎日駅頭に立って支持を訴えてきた。
しかし、本当に残念だったのは、最初は民主党優勢と見られた選挙戦が、終始小泉首相のペースで進み、民主党が100%の力を出すことができなかったことだ。
「郵政民営化」をたったひとつの争点にし、次々に「刺客」を放ってマスコミの話題を独占する小泉首相の劇場型選挙戦略の前に、民主党が完全に埋没してしまったからだ。
89901票を頂きながら、当選という結果を出せないままに総支部代表を辞任するのは、とても辛いことだと感じている。しかし、民主党の規約に従い、再度、公募に応じて、チャレンジを続ける決断をした。
紛争地の選挙支援、そして自分自身の選挙活動の中で培った経験は、これからも俺が政治活動を行う上での基盤になるだろうし、自信になると思う。
みんなの声を胸に、これからも挑戦を続ける。
そう思えばこそ、これから先の新たな旅で、どんな困難なことがあろうと、乗り越えていけると信じられる。
新しい挑戦はこれから始まる。
いったんは、民主党神奈川17区総支部代表を辞任するけれど、政治への挑戦をやめることは絶対にないだろう。
駅頭で、民家の軒先で、また路上で、さらに世界各地で、人々の声を聞いて歩くだろう。
民主党の公募に応じ、最初に挑戦した時と同じ気持ちで。そして、14年前の今日、勤めていたキヤノンを辞めて、カンボジアに赴いた時の瑞々しい気持ちを持って-。
そして、最後まで信じ、応援して下さった方々に心の底から一言を。
ありがとう。more than yesterday. 明日を信じて。
さかぐち直人
さかぐち直人政治活動ホームページ
阪口直人国際協力活動ホームページ
中田英寿選手が引退を表明したHP(nakata.net)の文章に倣って、今の私の心境を書いてみました。
29歳でサッカーをやめて新たな旅に踏み出す中田氏。私も同じ29歳の時に勤めていた会社を辞め、14年前の今日、新たな旅を始めました。
ひとつの世界を極め、しなやかに新しい旅を始めようとしている中田氏とは違い、私は、もがいているばかり。政治の世界では未だに結果を出していません。
しかし、中田氏の見事な文章力に心を動かされ、そして、今の私の心境やこれまでの経験と重なる部分が多くあると感じました。従って、多くの表現を拝借しながらも、それを自分の言葉に置き換えて、真面目に書いてみました。
人生は旅であり、旅とはまた人生である。
日本の七夕と同じ日にウクライナにも祭りがあります。大昔から伝わった伝統で、この日に恋人たちが手を繋いで炎の上を飛び越えます。飛び越える時に手を離さなかったら一生一緒に幸せに暮らせるだと言われます。
阪口さんは今大変な時で、炎の上を飛び越えるようなものですね。是非政治や自分が信じていたものと手を離さず乗り越えてください!
ウクライナの七夕も素敵ですね。Nさんも炎の上を飛び越えましたか?
私の人生は、きっと、ずっと炎の上を飛び続けるようなものかもしれません。ひとりだからこそ飛び越えられるのか、一緒に飛ぶ人がいれば、もっと楽しく飛べるのか、よくわかりませんが・・・。
でも、楽しいだけの旅よりも、炎や嵐に中を進む旅の方が、生きている実感があるのでしょうね。きっと。
阪口さんの経験と今の状況が、中田の文章に見事にシンクロしてしまいましたね。思わず「上手い!」と笑いながら読み始めました。が、読んでいるうちにジーンときてしまいました。いつもみずみずしい感性を持って生きている阪口さんらしい素敵な文章です。
ちなみに新しい挑戦ということは、別の選挙区に移ってしまうってことですか。僕は個人的には、もっと当選しやすい選挙区で頑張って欲しいと思っています。
阪口さんのような炎の上を飛ぶ人生は素敵ですね!夢や目標を持って生きている人は他の人には感じない特別な輝きを持っています。私も一般ではない人生を選んで、大変なことがあっても自分の能力を発揮出来て、それを沢山の人から応援された楽しみの感覚を知っています。この幸せの度合いがきっと阪口さんは言っていた炎を飛び越える時の感覚に近いです。阪口さんは皆の幸せのためにこれからも太陽のように輝いて、曇りの日があっても諦めず、皆がその輝きを待っていますから。
チェ・ゲバラがキューバを去り、ボリビアに向けて旅立つ直前、愛する両親に宛てて送った手紙の冒頭の文章です。
ロシナンテとは、ドン・キホーテが跨った老いぼれたロバの名前です。
キューバ革命を成功させ、フィデル・カストロに継ぐナンバー2となり、地位も名誉も手に入れたはずのチェは、しかしそれに満足することもなく、ラテンアメリカの解放と自身の冒険を求め、ボリビアに旅立ちました。それはまさしくドン・キホーテ的行為であったかもしれません。
しかしチェは、今なおラテンアメリカのみならず、世界中の人々の心の中に生きつづけています。「チェは生きている!」こんな落書きを、世界の街町で目にすることでしょう。
実は私はよく阪口さんとチェを重ね見ることがあります。すでに10年を越えるお付き合いをさせていただいていますが、同じ職場でともに過ごした日々も、少し距離をおいて過ごした時期も、常に阪口さんの姿にチェをダブらせてしまいます。
阪口さんが発する大いなるambitionがその理由かもしれません。
そしてまた、阪口さんは決して風車に突進していく夢想家ではないことも、私はよく知っています。
残念ながら私の中ではサッカーは不毛のものです。ヒデ中田がどのような人物であったのかもよくわかりません。したがって中田が発する「人生は旅…」のコメントの重みも肌で感じることができない故、これについてはなんら語る資格はないでしょう。
しかし愛する野球の世界で言えば、あの「炎のストッパー」津田恒美が野球帽のツバに書き込んでいた「弱気は最大の敵」という言葉が、阪口さんの生き様をまさに表現しているもののように感じています。
そしてまた、村山実投手の生き方にも、阪口さんに通じるものを感じます。村山実投手は札束を積んだ読売からの誘いを断り、あえてその読売を倒すことに生涯の生きがいを見出していました。
阪口さんにおいては、安定した一流企業におけるサラリーマンの道を捨て、あえていばらの道を行くことを選択されました。
これからも村山実投手譲りの猛虎魂を胸に、強気の活動で打倒自民の目標を達成してください。
私は息子達とともに、聖地(大甲子園)巡礼を果たすことに魂を燃やします。
そうそう、今日7月8日はここ神奈川の地で聖戦(神奈川県夏期大会)が開始されました。
チェ・ゲバラと比較して頂くなんて、光栄の至りです。彼の生き方は、いつも心の中にありますが、到底、足元にも及びません。
グランマ号に乗ってメキシコからキューバに向かい、生き残った僅か10数人の仲間と共に成し遂げたキューバ革命。それは神奈川17区での当選どころではない歴史的な偉業です。それ以上に、権力と名声の絶頂期にその座を投げ打ち、再びゲリラとして人々の解放のために闘いに身を投じた情熱の人生。それは、地位や権力にしがみつくために汲々とする多くの政治家とは対極ですね。CIAによって命を奪われたのは1968年。彼が38歳の時ですから、5年も長く生きていながら、まだ、その政治の舞台にさえも上っていない私は比較の対象にもなりません。
しかし「旅」は一生続くもの。今の世界で挑戦を続けるのも旅なら、再び新たな世界に飛び込んでいくのも旅ですね。しかし、今は、自分の経験や問題意識を活かすための使命として政治活動を受け止めています。
ちなみに私はサッカーファンではありませんのでご安心ください! 真実の愛を注ぐ対象は30年あまりただひとつ。それは、私が未だ独身であることからも明らかだと思います!?
実は、ザトペック投法の村山投手の伝説を知ったことは、私が阪神ファンになったきっかけのひとつでもあります。昭和33年、契約金2000万円を提示した讀賣を蹴り、500万円のタイガースに入団して生涯打倒讀賣に情熱を燃やした大投手。彼こそは猛虎魂の権化ですね。こんな愚直なまでの直球勝負の生き方を、私も追求したいものです。
長男は某県立高校2年生です。中三の時、高校選択に悩んだ長男に対し、村山投手の生き様を例に「私立の強豪校に行くよりも、公立高校から打倒私立強豪を目指した方がはるかにやりがいがあるのでは・・・」とストロングスタイルの激を飛ばしてくれたのが阪口さんでした。そしてそれは今、まさに正解であったと感謝しています。
ちなみに法政など、オレンジ色のメガホンで声援を送る高校に対しては、尚一層気合が入るのは教育の賜物?
追伸:横浜スタジアムにおける禁断のカード(神横戦)でお目にかかれれば幸いです。
本格派ピッチャーが長身から投げ下ろす快速球は、野球を観る上での醍醐味のひとつだと思います。しかし、体の小さな投手がストライクゾーンの内外をフルに使い、緩急をつけた大胆な投球で打者を翻弄していく姿には、それ以上の爽快感があると思います。村山投手も体は決して大きくありませんでしたが、たぎる情熱をボールに託し、また頭をフル回転させた、まさに一球入魂の投球で強大な敵に立ち向かいました。息子さんにはぜひ、小さな大投手として、甲子園、そしてさらに上のステージでも活躍を願いたいものです。
私が中学野球部の時も「必殺帳」という野球ノートをつけていて、一球入魂や、闘魂、さらに身長の伸びる予定なども書き綴っていたのを思い出します。