阪口直人の「心にかける橋」

衆議院議員としての政治活動や、専門分野の平和構築活動、また、趣味や日常生活についてもメッセージを発信します。

身を切る覚悟は安全保障法制でこそ示せー国会議員は身を捨てる覚悟で紛争地のリアリティを知るべき

2015年06月17日 14時10分21秒 | 政治

 国会審議の中で総理を追及し明らかにして欲しいこと、それは、安全保障法制に関して、米国は何を求め、その結果、日本は何を得るのかと言うことだ。この点を明らかにしなくては議論にならない。安倍総理の論理矛盾だらけの答弁からは「何でわかってくれないんだ。そりゃ、米国が要求しているんだからしょうがないだろ!」との苛立ちも読み取れる。

 維新の党としては必ず対案を出すべきだし、その対案は、修正→賛成を前提としたものであってはならない。この法案だけではない。維新の党はしがらみのない立場から、国民の未来にとって何がベストかという一点を判断基準とすべき。民主党寄りでも、自民党寄りでもない。右でも左でもなく真っ直ぐ前に進む唯一の改革政党であることが維新の存在意義だ。同時に、野党である以上、政府与党とは徹底した対決姿勢、厳しくチェックする姿勢を忘れてはならない。

 それにしても、紛争地のリアリティー、戦場のリアリティは、総理自身、国会議員自身こそが体験しなくては、本当の判断ができないのではと思う。

 橋下市長のツイッターでの発言、『自分が死ぬかもしれない状況の中で国会議員に判断させればいい。安全な環境で命が守られる国会議員に防衛出動の判断は任せられない。前線で国会議員が死んでもいくらでも替わりを選べることができる。その状況下で防衛出動の判断ができるかどうか』 

 暴論?いや正論だと思う。迫撃砲や銃声が飛び交い、自分も攻撃のターゲットになる可能性のある中で任務を行うとはどういうことか、国会にいてわかるはずがない。私自身も、停戦が破られ、実質的に内戦状態に戻ったカンボジアで、仲間が殺され、自分自身が襲撃、銃撃、脅迫を受けて『人が殺しあう日常』に対する認識が変わった。従って、もし自衛隊が海外に派遣される事態になるならば、国会議員こそ前線に行くべきだ。

 もちろん、単なる『視察』では無意味だし邪魔になるだけなので任務を持つべき。研修、いや訓練として、任務全体の理解は当然のこと、武装勢力に襲撃・監禁された時の対処方法、無線等の使い方、現地の人々のコミュニケーションの取り方などを学び、規律ある生活に耐えられる体力を持っていることを前提として、従軍記者のように自衛隊の活動を国会で報告することを任務とすればよい。

 首藤信彦元衆議院議員が参加したようにピアソンPKO訓練センターのような場所での定期的な訓練も必要。私自身がカンボジアPKOで活動した際は、停戦監視員としてベトナム国境沿いに勤務する自衛隊の方々が、私の活動拠点によく立ち寄って下さり、お互いの活動の実態について様々な情報交換を行い、問題意識を共有できた。究極の状況でお互いの生命の尊さ、活動の意味を確認し、隊員の本音を察知する。殺されるかもしれない場所に自衛隊員を派遣するのであれば、国会議員も同等の覚悟を持つのは当然だと思う。

 橋下市長は、『国民を戦争の不幸に絶対に陥れない。特にバカな政治家の判断で戦争になることはまっぴらゴメン。今回の安保法制で自衛官のリスクは確実に高まる。もちろんそれを極小化するあらゆる策を講じなければならない』とも言っている。私もここが安保法制の議論の出発点であるべきだと思う。

 国会議員が前線に行けば、ピンポイントで狙われる可能性も高いが、自衛隊を戦場(後方支援は武力行使と一体であると見なされ、ターゲットにされることは常識)に送る法律を通すことは、当然、リスクを自衛隊員に負わせるだけでなく、自分たちも同等の覚悟があることを示すべきではないか。身を切る改革と同じ論理だ。

 中国との軍拡競争は際限のない消耗戦になる。圧倒的にダメージが大きいのは日本だ。世界の平和に貢献するための大切な国民の税金は、日本だからこそ可能な国際社会の諸問題の解決にこそ効果的に投入すべきだと思う。紛争地のリアリティと国際社会のリアリティを踏まえ、徹底した現実主義者としての議論をしながらも、日本は何をもって地球社会に貢献するのか、理想を追うことも忘れずに徹底した議論が必要だ。このような法案を強行採決することがあれば、それは民主主義の自殺です。



23年前のカンボジアで。ベトナム国境で停戦監視員の任務に就く自衛隊の方々が、時おり立ち寄ってくれました。


昨年の今頃、橋下代表(当時)と集団的自衛権の在り方について議論後の懇親会で


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