さすがに高野山山上の朝の空気は冷たくてビシッとしている。
鶯になった横笛を胎内に収めたと言われる本尊阿弥陀如来像を
おまつりしている本堂で朝の勤行がある。
寺のHPから写真をお借りしました。
6時頃ボツボツお参りの人が来られる。
薄着では寒い本堂・・・持っている少ない服を重ね着してきてよかった!
朝食も部屋まで運んでくれて頂く。
学会の人たちは早朝から奥の院や大門まで散策に出ているようだ。
遠く関東、青森などからも見えているらしい。
昨日の文学会に出た人は霊宝館のチケットをいただけるので、荷物を預け、
2人で歩いて行く。I先生は今日、寺の行事のため朝食のあと帰阪された。
霊宝館の庭のきれいな緑と、宇治平等院の作りに似た霊宝館の玄関。
仏像、屏風画、剣、密教の修法の法具などをゆっくり見て回る。
その後10時頃に高野山大学の図書館集合で、
貴重な所蔵資料の説明を受け拝観させてもらう。
奈良時代、平安時代、江戸時代からの写しの古文書などを見せて頂く。
昨日の発表にあった鎌倉時代の「御遺告弘秘抄」の写し、
木食応其の書状、西行自筆の書など…
ちょっと聞いて知っている人のものだけでもすごい!
案内してくれる係りの人も、図書館の館長さんも口にはハンカチを
当てて説明してくれる。まるで鑑定団を見ているようだ(^_-)-☆
江戸時代の高野山の図・・・細かく立体的に書かれており観て楽しかった!
以前天理大学の図書館へ大阪歌人クラブから連れてもらったが、
大学の図書館というのは建物もすごい歴史的なものだし、
それぞれにすごい物を所有して、保存研究をしているのだということに
改めて驚く(^ム^)
11時頃、いよいよ文学踏査へ出発。図書館長、下西先生の案内である。
まずは不動院にある美幅門院の御凌へ・・・
鳥羽天皇に寵愛され、波乱の人生を送った美幅門院得子は
永暦元年(1160)11月23日、44歳の波乱に満ちたその生涯を閉じることとなる。
その遺骸は荼毘に付された後、女院の遺言により高野山に納骨されましたが、
実はこれは故鳥羽院の遺命に背くものであった。
故鳥羽院は生前に鳥羽東殿に二基の塔を建立し、それぞれに自分と得子を
葬るように定めており、鳥羽院の遺骨はその遺言どおりに葬られたが、
得子はなぜかこれを拒んで高野山への納骨を懇望し、
そのことを知った天台僧から女人禁制の山へいかが・・・との
抗議があったにも関わらず、彼女の強い遺志をくんだ弟時通の手によって
それは実現する(山槐記:永暦1/12/6)。
世に並びない寵愛を受けながら、最後の最後、真の安住の地に
鳥羽法皇の傍らではなく、遠く離れた高野山を選んだ得子――。
なんだか今の女性にも通じる美福門院の強固な意志は何を物語るのかな~
高野山の埋葬の折りに参列した人の中には西行の名前もある。
御凌内部は丸い小山があるだけで杉の木が茂っている。
横に周ってみると二人静がいっぱい咲き群れていた。
急ぎ足で歩いてくださいと先生は仰るが、なかなか老人も多いし
人数が多いので足並みも揃わない。
次は光台院裏手にある道助法親王の墓へ。
墓への道に通じる門には鍵が掛けられており、光台院の奥様が鍵を開けて
下さった。寂しい道を歩いて行くとひっそりと杉の林に御凌がある。
後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。
建久7年(1196)10月16日、生れる。七条院の猶子となる。
正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)11月、仁和寺に入る。
建永元年(1206)、11歳で出家、光台院に住む。
道法法親王により伝法灌頂を受ける。
建保二年(1214)11月、第八世仁和寺御室に補せられた。
寛喜三年(1231)3月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。
建長元年(1249)1月16日、入滅。54歳。
承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、
嘉禄元年(1225)4月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。
隠遁後、宝治2年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。
新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。
新三十六歌仙・・・というわけでいろいろ見たが、要は歌人であったらしい(*^^)v
少し下ったところに豊臣秀次の墓が粗末にある。
金剛峯寺で切腹をした秀次の首は秀吉のもとに送られたが、ここには胴体を
葬ってあるという・・・権力者に嫌われた人の寂しい定めが見える。
直ぐ近くには織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫の秀信の五輪塔がある。
豊臣秀吉がこれ見よがしに抱き上げてみんなの前に出た時の三法師である。
信長公のお墓を建立されたのは、この 三法師こと秀信だそうです。
信長には遺体がないのに・・・昔は、遺体が無い場合は本人の人形(ひとがた)と
なるものに着物を着せて土葬をされているそうです。
奥の院へ行く参道に立ち並ぶ諸侯の墓の他にもこういう知られざる墓が、
高野山にはいっぱいあるみたいです。
次は覚海聖人の御廟。
ここはもう人に忘れられたようにさびれ、朽ちかけた鳥居が傾いていた。
平安、鎌倉時代前期の僧侶で、高野山と吉野金峯山の間にあった
寺領界争論の際、この訴訟に苦心した僧であったらしいことは
「高野山文書」等に書かれている。
この後少し遅い昼食のため、各自時間を取り、それから学文路(かむろ)にある
刈萱堂の見学に行く予定だが、少し心を残しながら我々はここで
失礼をする事にする。
みなさんがバスに乗るのを見送ってから、宿坊へ荷物を受け取りに行く。
道すがら高野山の古い街並みを眺め、商店の看板などに面白いものが
あるので楽しみながら歩く(^_-)-☆
これは日本で一番古い印刷屋さんの看板。
文学散歩の時、同行の外人さんが教えてくれた。
旧い薬屋さんです。
高野の街で見かけた「うだつ」のある建物。ここも薬屋さんです。
陀羅尼助や薬草、お灸のもぐさなどに関するお店や数珠屋さんが多いみたい!
みんなより遅かったので気にかけてくださっていたお坊さんが、にこやかに
荷物を持ってきてくれた。振り返ると我々2人が門を出るまで玄関に正座をして
見送ってくれていた(*^_^*)
ケーブルで山を上り下りにかかる時間は片道7分。
先日孫と登った往路の不動坂は2時間半かかったけれど・・・
あっという間に下界へおりる。
山法師、空木、マタタビ、終わりかけのコデマリなど、時期的に白い花が
山の辺に多かった。
帰りの電車はすっかり草臥れて、2人ともうつらうつらして帰ってきました。
鶯になった横笛を胎内に収めたと言われる本尊阿弥陀如来像を
おまつりしている本堂で朝の勤行がある。
寺のHPから写真をお借りしました。
6時頃ボツボツお参りの人が来られる。
薄着では寒い本堂・・・持っている少ない服を重ね着してきてよかった!
朝食も部屋まで運んでくれて頂く。
学会の人たちは早朝から奥の院や大門まで散策に出ているようだ。
遠く関東、青森などからも見えているらしい。
昨日の文学会に出た人は霊宝館のチケットをいただけるので、荷物を預け、
2人で歩いて行く。I先生は今日、寺の行事のため朝食のあと帰阪された。
霊宝館の庭のきれいな緑と、宇治平等院の作りに似た霊宝館の玄関。
仏像、屏風画、剣、密教の修法の法具などをゆっくり見て回る。
その後10時頃に高野山大学の図書館集合で、
貴重な所蔵資料の説明を受け拝観させてもらう。
奈良時代、平安時代、江戸時代からの写しの古文書などを見せて頂く。
昨日の発表にあった鎌倉時代の「御遺告弘秘抄」の写し、
木食応其の書状、西行自筆の書など…
ちょっと聞いて知っている人のものだけでもすごい!
案内してくれる係りの人も、図書館の館長さんも口にはハンカチを
当てて説明してくれる。まるで鑑定団を見ているようだ(^_-)-☆
江戸時代の高野山の図・・・細かく立体的に書かれており観て楽しかった!
以前天理大学の図書館へ大阪歌人クラブから連れてもらったが、
大学の図書館というのは建物もすごい歴史的なものだし、
それぞれにすごい物を所有して、保存研究をしているのだということに
改めて驚く(^ム^)
11時頃、いよいよ文学踏査へ出発。図書館長、下西先生の案内である。
まずは不動院にある美幅門院の御凌へ・・・
鳥羽天皇に寵愛され、波乱の人生を送った美幅門院得子は
永暦元年(1160)11月23日、44歳の波乱に満ちたその生涯を閉じることとなる。
その遺骸は荼毘に付された後、女院の遺言により高野山に納骨されましたが、
実はこれは故鳥羽院の遺命に背くものであった。
故鳥羽院は生前に鳥羽東殿に二基の塔を建立し、それぞれに自分と得子を
葬るように定めており、鳥羽院の遺骨はその遺言どおりに葬られたが、
得子はなぜかこれを拒んで高野山への納骨を懇望し、
そのことを知った天台僧から女人禁制の山へいかが・・・との
抗議があったにも関わらず、彼女の強い遺志をくんだ弟時通の手によって
それは実現する(山槐記:永暦1/12/6)。
世に並びない寵愛を受けながら、最後の最後、真の安住の地に
鳥羽法皇の傍らではなく、遠く離れた高野山を選んだ得子――。
なんだか今の女性にも通じる美福門院の強固な意志は何を物語るのかな~
高野山の埋葬の折りに参列した人の中には西行の名前もある。
御凌内部は丸い小山があるだけで杉の木が茂っている。
横に周ってみると二人静がいっぱい咲き群れていた。
急ぎ足で歩いてくださいと先生は仰るが、なかなか老人も多いし
人数が多いので足並みも揃わない。
次は光台院裏手にある道助法親王の墓へ。
墓への道に通じる門には鍵が掛けられており、光台院の奥様が鍵を開けて
下さった。寂しい道を歩いて行くとひっそりと杉の林に御凌がある。
後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。
建久7年(1196)10月16日、生れる。七条院の猶子となる。
正治元年(1199)、親王宣下。建仁元年(1201)11月、仁和寺に入る。
建永元年(1206)、11歳で出家、光台院に住む。
道法法親王により伝法灌頂を受ける。
建保二年(1214)11月、第八世仁和寺御室に補せられた。
寛喜三年(1231)3月、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。
建長元年(1249)1月16日、入滅。54歳。
承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」、
嘉禄元年(1225)4月に企画された「道助法親王家十首和歌」などを主催した。
隠遁後、宝治2年(1248)の「宝治百首」に出詠。御集が伝わるが上巻を欠く。
新勅撰集初出。勅撰入集は計三十八首。「新時代不同歌合」歌仙。
新三十六歌仙・・・というわけでいろいろ見たが、要は歌人であったらしい(*^^)v
少し下ったところに豊臣秀次の墓が粗末にある。
金剛峯寺で切腹をした秀次の首は秀吉のもとに送られたが、ここには胴体を
葬ってあるという・・・権力者に嫌われた人の寂しい定めが見える。
直ぐ近くには織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫の秀信の五輪塔がある。
豊臣秀吉がこれ見よがしに抱き上げてみんなの前に出た時の三法師である。
信長公のお墓を建立されたのは、この 三法師こと秀信だそうです。
信長には遺体がないのに・・・昔は、遺体が無い場合は本人の人形(ひとがた)と
なるものに着物を着せて土葬をされているそうです。
奥の院へ行く参道に立ち並ぶ諸侯の墓の他にもこういう知られざる墓が、
高野山にはいっぱいあるみたいです。
次は覚海聖人の御廟。
ここはもう人に忘れられたようにさびれ、朽ちかけた鳥居が傾いていた。
平安、鎌倉時代前期の僧侶で、高野山と吉野金峯山の間にあった
寺領界争論の際、この訴訟に苦心した僧であったらしいことは
「高野山文書」等に書かれている。
この後少し遅い昼食のため、各自時間を取り、それから学文路(かむろ)にある
刈萱堂の見学に行く予定だが、少し心を残しながら我々はここで
失礼をする事にする。
みなさんがバスに乗るのを見送ってから、宿坊へ荷物を受け取りに行く。
道すがら高野山の古い街並みを眺め、商店の看板などに面白いものが
あるので楽しみながら歩く(^_-)-☆
これは日本で一番古い印刷屋さんの看板。
文学散歩の時、同行の外人さんが教えてくれた。
旧い薬屋さんです。
高野の街で見かけた「うだつ」のある建物。ここも薬屋さんです。
陀羅尼助や薬草、お灸のもぐさなどに関するお店や数珠屋さんが多いみたい!
みんなより遅かったので気にかけてくださっていたお坊さんが、にこやかに
荷物を持ってきてくれた。振り返ると我々2人が門を出るまで玄関に正座をして
見送ってくれていた(*^_^*)
ケーブルで山を上り下りにかかる時間は片道7分。
先日孫と登った往路の不動坂は2時間半かかったけれど・・・
あっという間に下界へおりる。
山法師、空木、マタタビ、終わりかけのコデマリなど、時期的に白い花が
山の辺に多かった。
帰りの電車はすっかり草臥れて、2人ともうつらうつらして帰ってきました。