「ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破って、
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。
生きていた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つていたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。
ホラホラ、これが僕の骨ーーー
見ているのは僕?可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見ているのかしら?
故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見ているのは、---僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつている。」
中也が病死する直前、
故郷に引き篭もることに決めて
友人の小林秀雄に出版を託した「在りし日の歌」のなかに収録されてる歌で
中也の研究家などは「自分の死を意識してた詩」だなんて言ってるけど
それはなんか、
ピントがずれてるような気がするなあ。
前に、「中也が何かを見出した」って書いたけど
この詩もやっぱり、その「何か」を表現してるんだと思う。
それは「美の真理」なのか、
「芸術の真理」なのか、
「宇宙との交感」なのか・・・。
言葉では表現しにくいんだけど・・・。
とにかく、
ここに出てくる「僕の骨」は
その、「詩の世界の一つの境地」を現してるんじゃないかって思うんだ。
んで、それは、自分の中に確かに存在してるんだってことが
言いたいんじゃないかな。
結局のところ、生前の彼は
まるっきり、他人と理解しあえなかったみたいなんだけど
それでも、「理解しあいたい!」って思ってたからこそ
こんな詩が歌えたんだと思うよ。
「詩人」が「普通の生活」を送るのが
実はすごく苦しいことなんだって
訴えてるというか・・・。
もうちょっと、生きていれば
うまく折り合えることもできたんだろうけど・・・。
結核性脳膜炎で亡くなったらしいから
ホント、無念だったろうね・・・。
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