自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

うら

2009-10-19 20:21:11 | Weblog
今、なぜか徳川家康に人気が集まっている。
その従兄、水野勝成が備後の国の城主になったのは関が原合戦で功があったからである。
勝成は江戸城で恩功褒賞の際
徳川家康から「この度の戦の功により、備後5万石を与える」と言われた。
が勝成は無言であった。
家康が再度「備後5万石を与える」と言うと
「ありがたき幸せ、5万石と5万石で合わせて10万石を確かにいただきました。ありがたき幸せでございます」と言う裏話で備後神辺城を手にしたのである。


神辺城復元図
神辺観光協会理事長に了解をいただいて載せています


ホタルの堂々川から神辺城址の遠景を見てもらう。



現在、山裾から見るとお城があった紅葉山は以下である。


正面の北側から見ると

裏面南側から見ると


今日は水野勝成の裏話から福山城等を裏から見ることにする。

福山城


お城として歴史は他の日本の城より新しい
昭和20年空襲で焼けて現在の城はRC製


この福山城は神辺城の資材・部材を使って新しく造っている。
福山城と神辺城の位置関係は


「芦田川見る視る館」にある電光板で見てもらう
下側中央が山陽本線福山駅、駅の7m北にお城がある
神辺城は右上約6kmの山の上にあった


神辺城の資材・部材を使った証拠は
福山城から1kmほど右上に実相寺がありそこの門が神辺城の山門だった。


裏から見た門

門の天井脇には木札が残っている
元神辺城山門
福山家老阿部なにがし寄付とある


家康から10万石をかすめ取った勝成のトンチ裏話
今考えるとこれには裏があるようだ。
神辺城から福山城へ移るようにアドバイスしたのは家康である。
家康が江戸城を造った時その場所は名もない漁村であったいうのが定石話である。
が深く周囲を見れば品川と言う港、浅草と言う門前町があった。そして江戸城のそばの川は関東奥深まで物資を運べる水運の便利地でもあった。
これを頭に入れて福山を見れば
鞆の津と言う瀬戸内海有数の潮待ち港があり(遣唐使、遣隋使、足利尊氏再活の地)1673年の大雨で流された草戸千軒と言う門前町があり、芦田川と言う府中等の奥まで行ける水運の川がある。
家康と言う男、地方の地理まで計算して城を建てさせ、
西国外様大名の抑えとして譜代大名を置いたのである。

少し長くなったがお付き合いできる方は次へ・・・
福山の芦田川の水運
山陰には金銀を産出する三瓶山、石見銀山がある。
この運搬を考えてあった。従兄弟がお金を守ると言う仕組み。



神辺が陸の要衝、旧山陽道の拠点であっても大きい観点から見れば一部であった。


太閤秀吉が朝鮮征伐の帰りに宿泊されたとする神辺駅跡

昔から人通りがあったと証明できる本陣


以上表話に裏話をしたが
廉塾(菅茶山師率いる藩校)や堂々川の砂留(1673年大水害発生)が出てこないので不満な方もおられよう。
神辺城から福山城へ
本当の狙いは裏話、裏のうらです。
おまけの情報
草戸千軒と言う門前町も1673年の芦田川大洪水で埋まり、
その遺跡から発掘された品は広島県立博物館(駅裏)で見られる。