闇夜の烏の変な世界

とりあえず、何にでも興味持ちますw
日々、気になった事を日記感覚でアップしてみようかと。

フェアレディZ に試乗してきました

2022-10-21 23:05:51 | 日記

長らくBLOGを放置してました。
家族が亡くなり、人生初の一人生活は気持ちの混乱が激しく日記をつける気にはなれなくて。
まだ身辺がバタバタしてますが、徐々に元来のダラダラ生活に戻ってきてますw

以前ほど頻繁では無いにせよ、少しづつでも書き込めるようになりたいですねー。

さて、今日は日産グローバル本へ。

横浜は学生時分に2年、会社に入って28年通った街。
そして私が生まれた街でもあります。
およそ10年前に退職し、今の会社に移ってからは何年も行ってません。

今回も何年ぶりか分かりませんが、アクセラで流れの悪い保土ヶ谷バイパスから横浜新道へ。

見慣れた懐かしい建物が次々と見えてくると感慨深いものが。

LMTに至っては開業初年度、27Fに自分の席があったので笑える懐かしさ。

 

今回、約7年ぶりに日産グローバル本社へ向かったのは、やーーっと予約が取れたフェアレディZの試乗が目当て。

今年販売が開始され注目されるも部材不足でほとんどデリバリーが為されないままオーダー終了。

来年度のオーダーも未だ開始されるか不透明という国産車でありながら珍しいスポーツカーです。

 

横浜駅東口の地下駐車場にアクセラを停め、空中通路で川を渡って向かいました。

1Fのギャラリーには2台のフェアレディZと、限定車のGT-Rが展示されて誰でも触れますね。

 

嬉しくてつい何枚も写してしまいましたw

 

写真でしか見た事無いですが、実際に目の当たりにすると案外コンパクトでグラマラス。

色気があってセクシー(特にリア周り)さがグッときますね。

但し、GRヤリスのような徹底的にマッチョでゴリゴリな感じとは違って 近寄り難いオーラはありません。

何というか、ロードスターみたいにフレンドリーに相棒として馴染めそうな優しさが魅力でした。

並ぶGT-Rが 「ゴジラ」の愛称が相応しく徹底的に威圧してくるのとは対極で面白いです。

 

約束の10分前にギャラリー内のカウンターで手続きに入ります。

実はフェアレディZ以外にも、日産の主要車種の多くがココで試乗できます。

が、フェアレディZやGT-Rは制約付きの特例試乗扱いなので、事前手続きも本格的なモノに。

他の車種の方は簡単な手続きでそのまま車に向かいますが、画面で詳しいテキストに目を通したり、チェックボックスの付いた書面にサイン(誓約書ですね)をしていきます。

まぁ、試乗車で規定以外のレース走行をしたり無茶したり、やってはいけないと言われた事が守れれば当たり前の話ばかりです。

それにそもそも車の価値(値段や市場にある実車の数)を考えれば気軽にとはいきませんよね(汗


フェアレディZは2シーターで、9AT仕様が試乗車になります。

※これは展示車の車内、6MT仕様(試乗車は9AT仕様)

 

助手席に日産の方(開発者?とてもお話が詳しくて勉強になります)が乗り、コースのナビゲートや各種操作の説明等を行って下さいます。

必然的に運転手1名のみの試乗となるため、助手席に合い方と一緒というのはできません。←ここ注意

 

私はレバーを前後にガチャガチャって動かすATばかりに乗ってきたので、最近のスティック式とかオモチャっぽい(失礼)のは一切分からない。

フェアレディZもシフトレバーを見てどうやるのか皆目予想できず、日産の方に詳しくお話を伺いました。

握るのかと思ったら、これもチョンチョンと動かすだけで、直ぐ元のポジションに戻る構造なんですね、ちょっと可愛いw

 

パドルシフトの説明もしてくださいましたが、基本的に他の車でも初めての時はパドルシフトは使わないってのが自分の決め事(何かあったら困るし)なので、事前に不使用を伝えました。

というのも、ネットには雨の走行動画が多数アップされてますが、不用意にアクセル開けると空転して車が振られるってのが判ってましたし。

先代のZもよく高速道路で単独事故(タイヤが減ってるとか、不用意にアクセル開けて制御不能とか)のニュースがあったように、Zはこのサイズにして過激なエンジンがオーバースペックなのか素人には難しい車なの有名ですし、私にはそんなの回避する腕は無いので。

 

日産の方も、確かに普通にも乗れるスカイラインの400Rと基本同じエンジンだけど、そこは400psの過激ユニット。

本気だせば凄いのは確かですしねって笑ってましたw

 

試乗の基本手順、サイドミラーとルームミラーを合わせ、シートとステアリングも自分にしっかりと合わせます。

特にスポーツカーは姿勢が合ってないと予想以上に辛かったりしますから。

驚いたのはシートスライドの量。

先日レンタルしたGRスープラRZは一番前にしても短足な当方だとギリでつま先がちになってしまい、標準体型の方なら問題無いのでしょうが、小柄な女性とかだと恐らく足が届かない。

フェアレディZは運転席左側にあるレバーを操作すると私でも余裕のポジションまで設定できた。

これなら小柄な方でも安心して運転できますね、流石生粋の日本車w

 

同じく、ウィンカーが国産車と同じ右側にあるのが助かります。

GRスープラはBMWとの混作なので、外車と同じ左ウィンカーなので馴染めない。

 

画像が無いのですがメーターパネルはフル液晶。

基本的に針のアナログ式が好きな当方ですが、ほとんど気になりませんでした。

というか、道を間違えないようにと前方に集中しててメーターパネルは数回しか見てないし(汗

 

エンジンを掛けると、拍子抜けするほど静かでスムーズ。

効けば昨今の騒音対策で派手な演出は抑えてるのだとか、これなら早朝の始動でも近所迷惑にはならないw

 

ルーフは平らで低いから、いくら着座位置が低くても頭上クリアランスはほとんどありません。

ただ、意外と足や腰回りの横方向のクリアランスは窮屈感無いですね。

 

ハンドルは小径で握りやすく、いかにもスポーツカーって感じでリッチです。

シートのサポートはしっかりしてますが、基本的にはグランドツアラー的な快適な作りでしょうか。

前方視界はボンネット中央の盛り上がりしか見えませんね。

GRスープラのようにタイヤハウスがモッコリと盛り上がってると車幅の感覚が掴みやすい事を考えると、車両感覚を掴むのはややZの方が難しいかなぁ。

 

サイドミラーの見切りは思ったより範囲が広く、見やすくて安心感高い。

但し、リアのフェンダーの派手なモッコリが映るので、自分がただならぬ車に乗ってるのを思い知らされます。

ルームミラーはこの手の車はどれも見切りが悪い通り、やはり後方視界はかなりタイトです。

特に上側がルーフで遮られるので、かなり横長の隙間から覗く感じです。

 

ホイールベースが短く、不用意に車高を落としてないので道路との段差も気にせずスタート。

ドキドキですw

 

ハンドルの重さは可もなく不可もなく、癖も無くていたってニュートラル。

足回りはと言えば、極太で超扁平タイヤを履いてるとは思えないほど動きがスムーズで乗り心地が良い!

ボディー自体をしっかりと作り込んだ結果、足回りの動きを最適化できたのだそうです。

この乗り心地の良さは普段使いにしてもいいなー、本当♪

路面の荒れた場所を通ってもハンドルがとられる事もほとんどなく、実に快適な走りをします。

ただ、静かで快適なので気を付けないと あっという間にスピードが出てます(汗

ハンドルを切っても驚くほどロールせず、路面をガッチリと掴んでる感じが安心します。

普通に運転してるだけでもワクワク楽しいあたり、ロードスターにも似た気持ちよさがたまりません。

もっとも、Zのパワーは桁違いですし、車体も重いからあちらとは随分印象が違いますが。

 

試乗コースはかなり立体的なコース設定が絶妙で、何か首都高速の地下を走ってるような場所もあったりとなかなか楽しませてくれます。

ほど良く慣れてきた頃、日産の方が 「スポーツモードにしてみませんか?」って提案してくれた。

切り替える余裕が無いのでお願いしたら、結構いいエンジン音が響いてきてゾクゾクっ!

それでもGRスープラやロータスエリーゼのように獰猛に吠える感じとは違って、もっとおしとやかなんだけど迫力ある音に、いいですねー。

と同時にアクセルを開けた瞬間の 「ツキ」が明らかに良くなって ああっスポーツカーなんだねーって嬉しくなって♪

 

同じフレーズを繰り返すけど、ともかく普通に乗るには当たり前に走ってくれる。

でも、心臓部は400psをただき出す強心臓ですから注意と自制心が必要なのは間違いない。

何というか、大人の車って感じに思えました。

まだ経験値の浅い若い方だと走る棺桶と化す危険があるなーってのが実感。

 

試乗も後半に入ると人の多い場所が。

赤レンガ倉庫とかだと歩いてる人がけっこうこっちを振り返ります、目立つー。

交差点だとスマホで撮影する人もいて、注目度の高さが刺さるようで(爆

話が飛びますが、私は過去に運転したフェアレディZといえば、S30型のGノーズしかありません。

すごく綺麗な車です。

今回のフェアレディZは歴代モデルへのオマージュがデザインの随所に行かされてます。

ただ、運転した感じは座る位置が随分と前に移動したかなって雰囲気です(S30はかなり後ろ乗り)。

そういう意味では運転する上での緊張感は薄かったかも。

 

日産の方と開発秘話や、雑談をしてるとあっという間に試乗終了。

戻ってきて少々スマホで撮影させてもらい、あとは建物に入ってスマホを使ったアンケートに回答すれば全て終了です。

このため、試乗時にはバーコードの読めるスマホを必ず準備しましょう。

 

 

正直、写真で見たフェアレディZはあちこちが中途半端なデザインに見え、過去は忘れてオリジナルでデザインするばいいのにって勝手に思ってました。

が、実車を前にすると惚れそうになるほどセクシーで美しいさまに魅せられてしまいました。

恰好いいとか悪いとかではなく、美しいって言う表現が合ってるのかもしれません。

 

近年の日産といえばVモーショングリルを必要以上に誇張したり、奇をてらったデザインがとても我慢できず、サニー50アニバーサリー、プリメーラUKと日産を乗り継いできた我が家でしたが、プッツリと他社へ乗り換えてしまいました。

未練は無し。

その後はゴーン時代に迷走を極め、完全に興味の対象外になってた日産。

最近はやや元気が戻ってきてるようで嬉しいですね。

今回のフェアレディZにしても、実車がこれだけ惚れそうに魅力的なもの、運転すれば驚くほど肌になじむ感じ等々、ワクワクが止まりません。

 

でもでも、世界は間違いなくEV方面に傾向してるワケで、フェアレディZにしても生粋のエンジン車は恐らく今回が最後ではって話です。

まだATが普及する前から運転を始めた当方としては実に寂しい時代の節目です。

有難いのは、まだ国内だとトヨタ、日産、マツダ、スバルに生粋のエンジンスポーツカーが残ってる事。

世はマイクロバスの個人仕様たるミニバンが全盛です。

だからこそ、あえて若い方にもフェアレディZみたいに無駄を省いたスポーツカーに触れてみて欲しいなーってのが古い人間からの純粋な気持ち。

まぁ車ってのは昔も今も、若い世代には高価な買い物だけに難しいのはどの時代も変わりませんね(汗

 

といった感じで、秋晴れの気持ちがいい横浜で、素敵なフェアレディZに出会い、ハンドルを握った素晴らしい一日でした。

皆さまも是非、ハンドル握ってみて下さいませ(全国から試乗に来てるそうです♪)


明日は葬儀 お別れの時

2022-01-22 23:06:49 | 日記

明日はいよいよ母の葬儀です。

 

昨年、10月にグループホームへ入所した母。

痴呆症が悪化してたので頃合いと親戚が判断し、私も同意して家を出てもらった。

当日の朝は仕事で送り出せず、何も知らない母は出社する私に門のところで手を振ってくれていた。

実際に迎えに来た時は、兄弟に「聞いてない」とかなり怒っていたという…。

 

それでもコロナ禍で面会が規制されるなかで会った母は、髪の毛も衣服も整えられて元気そうだった。

施設の方によれば数名の仲の良い友達もできてるとの事。

 

それが11月のある日、職場で午前の業務を終えた私のスマホが鳴った。

「気分が悪いと言ってたが 嘔吐を繰り返すうちに吐血。これから緊急搬送します。」と。

 

職場から直に国立相模原病院に駆けつける。

母の腹部にはプックリと丸い出っ張りがあり、紫色に皮膚の下に何かが見える。

 

緊急を要するということでCTをとった結果、腸が腹膜を破って皮膚の下に出てきてるらしい。

 

母は中学生の時、私と同じで腹膜炎を患っている。

その時、お腹の中のウミを出すために腹部に複数の穴を開けてガーゼを突っ込んだ跡がある。


施設でもかなり便秘が酷かったらしいし、元気にチョロチョロ動き回っていたという。

推測だが、便秘で腸の内圧が高まってるところで腹膜の弱いところを突き破ってしまったのではないか、と。

 

母は腹膜炎の時、父親(お爺さん)が建設省にいたコネを使い、当時のGHQが緊急用にと持っていた「ペニシリン」を懇願して分けてもらったと聞いている。

まだ抗生物質の無い日本で、ごく初期にペニシリンを投与して助かった一人なのです。

 

施術は即日行われ、壊死しかけてる腸を切り取り、繋ぎ合わせる方法でおこなわれた。

その後は順調に回復、2週間後には歩行リハビリを始めるから上履きを用意してくださいと言われたくらい。

 

状況が変わったのはその一週間くらい後。

病院から電話が入った。

「酸素レベルが1/10程度になり危険な状態です。病院に来れますか、と。」

何が起こったのか判らなかった。

 

面会はコロナ禍のため一切不可だが、いつ心臓が止まっても不思議ではないのでと言われ 許可された。

病室での母は様々な機器がベッドの周りを仰々しく囲み、呼吸はしてるが眠ってるように反応しなかった。

その後、唾液やタンが肺の方に入って肺炎を起こしてる可能性が高いと言われ、後日のレントゲンでも肺が真っ白だと伝えられた。

 

それでも抗生物質の投与でゆるやかに回復してると言われ、年末に面会した時は酸素吸入器を外した翌日だったせいか、何か話そうとするのだが声が出ず 結局 何を伝えようとしたのかほとんど判らなかった。

幾つか話しかけるうち「退院したらお母さんが買ってたお茶の銘柄おしえてもらいたいな。自分で買ってるけどやっぱりおいしくないから」と言うと 「お茶?」と少し笑ったような顔で返答したのが印象的でした。

 

それから年が明けるまで特に病院から連絡は無し。

自分は元日以外は仕事の会社なので、普通に年末年始も仕事してました。

 

1月7日、また病院から電話が鳴った。

連絡が無いのは無事な証拠と勝手に思っていたが、事態は決して余談を許さない状況だったようです。

当日は久しぶりにドカッと雪が降り、意識レベルの下がった母に 「外見える? 雪が降ってるよ」と言うと精いっぱい頭の向きを変えて外の方を見て「雪?」と言った。

そのまま母は胸が苦しいのか 自分の胸を搔きむしる動作をしたのち 眠ってしまった。

同日、母の姉が駆け付け、前日に見舞いに来て会えなかった弟が移動中に引き返して面会してくれた。

 

私にとって 生きてる母を見たのはこれが最後になった。

 

 

1月16日夕刻、病院からまた電話が鳴った。

「お母さまが危険な状況です。息子様、親戚の方 急いで来れますか? もしかしたら間に合わないかもしれませんが急いで!」。

職場から病院へと急ぎ、病室に着くと測定器の表示は全て0になっていた。

母は眠るようにベッドで酸素マスクをしたまま動かない。

触れるとまだ温かい。

間に合わなかった。

 

暫く遅れて向かっていたお姉さんが到着 母が亡くなった事を伝えると大粒の涙を流していた。

 

結局、母は肺炎のため回復することなく亡くなってしまった。

PCR検査は陰性だったが、重症患者と同様に肺炎で一月近く苦しんでしまった。

無力感が半端無い。

 

その日のうちに病院の安置室に移され、母が入っていたくらしの友に連絡して来てくれた霊柩車で斎場へと運ばれた。

 

直ぐに葬儀の準備に入るも、亡くなる方がとても多くて焼き場(火葬場)が空いてないと苦戦する。

結局、ウチの宗派は友引でも葬儀可能という事で 友引で空いてる所に葬儀を入れたものの 一週間も待つ事に。

弟も焼き場が空いてないと一週間 ドライアイスで持たせたが まさか母まで同様に長く待たせることになるとは。

 

とりあえず斎場の霊安室に安置してもらい、葬儀の準備と連絡を親戚に手伝ってもらってすすめる。

 

そう始めて気付いたが、母のように高齢になると知人が亡くなってたり、病気で動けないというのが次々に出てくる。

基本的に親族のみのコンパクトな葬儀にしようとなった、コロナ禍で人を集めるのも考えてしまうので。

ところが、来ると思ってた親戚までが仕事で無理とか、オミクロン株を考えるとすみませんと次々に辞退。

結局 母の残ってる兄弟とその他数名の かなり寂しいお葬式になってしまった。

 

それでも母にとって最期の旅立の儀です。

喪主なんてやった事無いから明日はどうなるか全く見当がつきませんが、何とか無事に送り出せればと今は緊張しています。

 

今回は人が少ない事、お通夜をやらない等を考え、斎場には誰も泊まってない。

最後の晩を母一人で寝かしておくのは申し訳無いとおもいつつ、誰も泊まれる人がいない上、私もプレッシャーなのか物凄く疲れて体調が厳しいので、母には怒られるとおもうけど、自宅で明日の葬儀に備えさせて頂いてます。

ほんと、最後まで親不孝な息子です。

 

さて、母の身体が焼き場の扉をくぐってしまえば、いよいよ私は一人になります。

元々 ワガママで親に甘えて生きてきた私が今後どうなるか 自分の事ながら見もの です。

 

こんな精神状態だから考えてしまうのか 葬儀とは 故人最後の旅立のセレモニーなんだろうなって妙に実感してしまう。

 

日頃 宗教というものを 必要悪 だとか 昔の人が考えた都合良いシステム とか毛嫌いしがちな私です。

でも、こんな時だからこそ神さまだの仏さまだのを信じ、魂というものがあると願うのは罪なのでしょうね。

 

不肖な身ながら、頑張ります。


激動の2021年でした 来年は…

2021-12-31 21:58:43 | 日記

あと少しで2021年も終わりです。

大晦日の今日 無事(?)に仕事納めもできた。

 

今年はいろいろな事が折り重なって 激動の1年でした。

世間的に 新型コロナウィルスの ベータ株 で緊迫の年明けに始まり 今は オミクロン株 で再び大流行の兆しに世界中が翻弄されてる。

 

それでも夏頃まではいつもの時間だった。

晩夏に普段の生活にも支障が出始めた母を 親戚が主導でグループホームに入れた。

生まれて初めて 私は一人で生活をするという状況に置かれ ダラダラと過ごしてた休日がほとんど家事に追われて気づけば年末。

洗濯 炊事 その他 全て母にお願いしてたので 自身で行うのはこの歳にして初めての事ばかり。

今更だが これ等をこなしてた親の偉大さに気づいた次第。

 

先月、仕事中にグループホームから電話が入った。

「お母さまが嘔吐し 吐血した。 主治医の判断でこれから救急搬送します」。

「は?」

状況が呑み込めない。

 

ただ事では無いと 職場の先輩にお願いして早退 そのまま病院へ。

状況は厳しかった。

母は私と同じ腹膜炎を中学生の時に患っている。

ほぼ絶望とされ 親族が集められたという。

お爺さん(母の父)が公務員だった利を伝い 当時の進駐軍が持ち込んでいた「ペニシリン」を懇願して分けてもらい 母は一命をとりとめた。

日本で極初期に抗生物質を投与された一人だったとの事。

 

腹膜炎によってお腹の中に広がったウミを出すため お腹に複数の穴を開け ガーゼを押し込んで出した。

その時の穴の跡が残っている。

その腹膜が癒着した弱い部分を押し破って 腸 が外に出ていた。

腹部がプックリと膨らみ 何か黒っぽいものが下に見えていた。

CTの結果、それが腸だと言われ 緊急手術となった。

 

吐血する前、かなり酷い便秘だったというから お腹に大量に溜まった便の圧力で腸が弱い場所を突いて出たのだろうとの事。

たかが便秘とはいえ 怖い。

 

手術は無事に終了。

壊死しかかっていた腸は切り取られ 繋がれて 腹部を縫合となったらしい。

コロナ禍のため 退院するまで患者との面会は一切認められない。

あとはその時を待つ そのハズだった。

 

一週間ほどしたある日 病院から容体急変の連絡があった。

頭が真っ白に。

突然 酸素濃度が下がり 通常の10倍まで悪化してるので 蘇生措置の許可をお願いしますとの事。

考える時間は無く、できるかぎりお願いするとして 輸血や人工呼吸器 その他の事後申請を電話で伝えた。

きわめて危険な状況に その後の検査で 肺炎だろうとの結論が出た。

術後で寝てる時に タン等が気道に入り 肺炎を起こしたらしい。

 

怖くて 怖くて 家でグッスリと寝られず 眠い目をこすって職場に立った。

「もしもの事があったら… 考えるだけで震えるほど怖かった」。

 

申請書があったので 病院に出向き 別室で必要書類の作成を行う。

看護士の話ではICUに入っているので最善を尽くしますというものだった。

 

数日後、緊急病棟から一般病棟に移しますと連絡があった。

人工呼吸器等が外され 意識も戻ってるという。

ただ 肺炎は相変わらず危険な状態で 抗生物質が投与されてるが効くか否かは体質と体力次第だと言われた。

85歳とう年齢を考えると 希望的観測は厳しい。

 

医師から連絡を貰い いつ急変してもおかしくないので 例外措置として親族の面会を許可しますとの事。

…それって、いつ何があってもいいように 生前に会わせましょうって事では…。

 

翌日 職場で上司に相談し早退 その足で病院に向かった。

病状は相変わらず厳しく 面会は5分以内でお願いしますと言われ 病室で。

 

顔に酸素マスクをされ、多数の測定器がベッドの周りに並ぶ中 母は横になっていた。

恐らく手足を留められている中 うつろな目で私の顔を見ていた。

痛々しくて 走りだしたくなる。

 

声を掛けると何かを話そうとするが 声はほとんど出ず 何を言いたいのか判らない。

問いかけると 頭を動かし 頷く事で こちらの話が理解できてると判る程度だ。

 

思えば何度も入院してきた当方を 母は足を運んでお見舞いしてくれてきた。

逆の立場は初めてです。

 

もっともっと沢山話したりしたかったが 時間制限(もしコロナ等の病原菌が患者に悪さしたらまずい)があり 「また来るから 頑張って」と声を掛けて病室を後にした。

母の誕生日は1月3日 正月だ。

今は退院が見えないので なんとか次の誕生日は迎えて欲しい それだけが頭をまわっていた。

 

後日 叔母は母の見舞いに行ったと連絡があった。

母の姉は高齢なのか 術前のストレッチャーにも素手で触ろうとしたり 病気への配慮が著しく掛けてる。

感情的になって患者に触れようとしたり 自分のしてる事がいかに患者に対して危険かが判らない。

お見舞い中もいろいろと話しかけたとの事。

肺炎で危険な状態の患者に多くを喋らそうとした事にも腹が立ったが 看護士が呼びに来なかったからと40分も病室にいたと聞いた時はさすがに声を荒げて怒りが口を突いた。

 

何故 2~3分でと言われたか。

外部から病原菌を持ち込む危険 体力が厳しい患者にとっては死活問題になるという事実である。

結局 母の姉は母に負担をかけ 危険に晒したのである。

 

考えさせられた。

母の弟 叔父からもメールをもらった。

医療関係だった叔父すらも 「大丈夫 医者は大袈裟に言うだけで問題無いから」と軽く言われた。

高齢者の 「大丈夫」 は何の意味も無い。

これは何時の時代にも言える事で 世の理は常に時と共に変わるもの。

その人の常識が 今の常識として通じる事はあまりないのである。

若い人は状況を考えて 「大丈夫」 を見極めるが 高齢者は記憶を頼りに 「大丈夫」と言う。

根拠の無い 又は薄い 大丈夫は時として危険なのですね。

 

あと 高齢者の大丈夫 は責任を持てないというのもある。

もし 勝手な判断が大事になり 長い法廷問題に発展しても 10年後 20年後 も生きて責任を全うできる高齢者は現実問題 ほとんどいない。

最後まで責任を持てて はじめて 「大丈夫」に意味が生じるが 責任持てない輩の言葉は単なる戯言 危険ですらある。

 

どの角度から考えても 高齢者の無責任な 「大丈夫」が最も危険な事が浮き彫りになってくる。

「大丈夫」 と道路を確認せずに渡って交通事故。

「大丈夫」 と古い食材を料理し食して食中毒。

「大丈夫」と無理して怪我。

「大丈夫」と免許返納をせず交通事故。

ETC。

若い世代にも増して 高齢者の 「大丈夫」 には危険がいくらでも潜んでいる。

 

医師の指示を無視して長時間居座った叔母の 「出ろと言われなかったから大丈夫」 も 「危険な容体と言われても 実際は大丈夫だから」 との叔父も 何れも自己判断で危険な事を理解できていない。

今回の事で 以前にもまして高齢者の「大丈夫」 がいかに危険で迷惑かを痛感させられている。

 

人はいつまでも若く 柔軟な判断ができるわけではない。

勿論 これは自分にも言える事。

もしまだ長生きできるなら 少なくとも周りに 「大丈夫だから」 と無責任な断言を言う人間にはなりたくないと今は思ってしまう。

若い世代 今の主役 からすれば 断言系でモノ言う高齢者は 単なる「迷惑」以外の何物でも無い事実。

 

もし、今も病床で病気と闘ってる母が無事に退院し 「大丈夫」 と言ったなら軽く受け流そう。

絶対に「大丈夫」を信じてやるもんか。

 

退院しても実家には戻れず グループホームに行くが それでも無事に治って欲しい。

そう心から願いながら年の瀬を過ごしています。

 

世はまだまだコロナ禍で混乱が収まらない。

願わくば 来年こそは人々がマスクを外し 笑顔で話せる日常が訪れますように。

 


グループホームへ母は

2021-10-23 01:58:35 | 日記

既に昨日、か。

 

かねてより脳の病気で奇行が進む母。

最初に異変に気付いたのはもう5年以上前。

親戚で旅行に行った際、一人だけ口数が少なくて会話にあまり入ってこなかった。

今思えば、この頃には既に病気が発症していたのだろう。

 

もう8年近く前、脳出血で入院。

2度目の発症でリハビリ施設に入っていた父が他界した。

何年も入院してた父を面倒見ていた母の口から、次第に愚痴が増えていった。

病気だから仕方ないのに「やる気が無い!」「ほかの人を見習え」等々、罵倒に耳を疑った。

リハビリで頑張る父が蚊の鳴くような声で話してるのを大声で遮る母。

「お父さんちゃんと言ってるよ」と諭しても全く耳を貸さず「何も言ってないわよ!」って逆切れする母。

結局、弱っていった父からどんな思いをしていたか聞く事は叶わなかった…。

 

父が亡くなる前日、母と二人で見舞いに行っていた。

だが、行きの車の中で母が耳を疑うような父の悪口を連呼するのに怒りが爆発。

自分はそんな母と一緒に父の前に行く気にはなれず、母一人に行かせて車で待ったのだった。

見かたの問題だが、恐らくこれが最後の父との面会チャンスだったのを母が潰してしまったと言えなくもない。

翌晩、残業中に携帯が鳴り、父の容体が悪化したと聞きタクシーを飛ばして病院に着いた時には既に冷たくなっていた。

この時から自分の中で母の身勝手な人生を盾となり養護し続けた父の無念を思うと、許しがたい怒りが常につきまとっていた。

 

母の虚言癖は日に日に悪化。

気に入らない事は平気で嘘を並べ、友達さえもあざむいていた。

気付けばご近所、親戚、周りの人々の私を見る目が怪しくなっていた。

何でもかんでも悪い事は私の責任だと触れ回っていたと気づいた時には家の外にも出れない悲惨さだった。

ある時は全然知らない通りがかった人をつかまえ「うちの息子はこんなに酷いんですよ!」と悪口をのたまわっていた…絶句。

仕事が休みの日は車で遠くに逃げるように出かけるか、深夜に車で出かけるか以外はほとんど引き籠るしか無い日が何年も続いていた。

 

母の嘘を明かすため説明すると、大概は「たった一人の家族なんだから、もっとおかぁさんを労わってあげなきゃ可哀そうだよ」と逆に諭される日々。

完全に周りは母の嘘に騙されていた。

 

正直、私は心身ともに疲弊し切っている。

もうどうでもいいやって割り切らないとやってられない。

 

そんな中でどうも母の様子、言ってる事が変だと周りが気付きだしたのが約2年くらい前。

「実際はどうなの?」って聞いてくる親戚に、「だから説明してきたじゃないですか、母の嘘に騙されて耳を貸さなかったのはあなた達でしょ?」と言うと一様に申し訳無さそうな顔をする。

…何をいまさら。

 

父の闘病は結果が出なかったが本人が必至に頑張っていたのを私は見てたし、知っている。

周りは母の「本人やる気が無くてどうしようもない輩だ」という嘘を刷り込まれているので、私が母の父を愚弄する鬼のような仕打ちをどうしても許すことができないと言うとそれでも仕方ないと許せと言う。

正直、自分が母を許してしまったらここまで貶められた父の威厳が成り立たない気がして納得がいかない。

 

昨日、母を施設に入れるまで、私と父の威厳 対 母と母のグループ 的に敵対していたようなものだった。

息が詰まるように苦しかった。

 

帰宅すると家の明かりは消え、雨戸がハンパに開いていた。

午後、半ば無理やり母を連れ出したそうで、家の中はほとんどそのままです。

ハンガーには母の服が掛かってるし、ソファーには母のひざ掛け、部屋には携帯電話(持っていくの忘れたらしい)がそのままだし、いたるところがそのまま。

だからだろうか、フラッと母が返ってくる気がして今はまだ違和感少ない。

 

居る時は奇行の数々に何度も大声で「出てけよバカ!!!」って叫んだものの、いざ出ていくと不思議な感覚に見舞われるものですね。

別に帰ってきて欲しいわけでは無いハズなのに。

まぁ健常だった頃の母なら帰ってきて欲しいかな。

 

よくよく考えれば生まれてこのかた一度も一人暮らしなんてした事が無い。

家を出たいと思ったこともあったはあったけど、結局成り行きというか実家暮らしで今に至る。

母が家を出た事で、他界した弟と父 でとうとう我が家最後の一人になったといやおうなしに実感する。

正確にはまだ事態を理解できていないのでしょう。

日を増すごとに1人になった事を痛感すると思われる。

 

独り立ちって普通は若い頃に経験し、自立を得るというからこの歳になって晒されるのは「手遅れ」って言うのでしょうね。

 

もう少し日が経てば、実害の無くなった母に感謝とか許しを思えるようになるのかもしれない。

自分も母も決して若く無い。

お互い残された時間はタップリではないのだから、せめて施設で楽しいと思える時間を謳歌してくれればと願うべきでしょうね。


揺れた、久しぶりに派手に揺れた!!

2021-10-08 01:32:19 | 日記

ぼーっとテレビを見ながらスマホでゲームしてた。

「ゴーーーー」って段々音が大きく

地鳴り!?

そう思った直後に部屋が鳴り出して大きな横揺れが!!!!

スマホは画面が切り替わり、緊急地震速報の表示と不快なあのケタタマシイ音が鳴り続いてる。

 

幸い部屋は雑雑してるけど何も倒れたり落ちたりしなかった。

震度4ちょいってところらしい。

 

いやいや、ラフな格好でベッドにくつろいでたから慌てて多少の身なりを整えた。

いざ大地震が来たら逃げ出せるように、ベッド脇に数日分の食料や便利グッズを入れたリュックを置いている。

本当にあの東日本大震災の時みたいになったら落ち着いてリュック持って非難できるかな…

 

明日からまた仕事、余震が怖い。