はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

世界は広い

2018年07月27日 | 雑感
2018/07/27

私はツィッターのアカウントを持っているのだが、全く活用していない。

アカウントを取ったのは2011年。
東日本大震災のときにツィッターが役に立ったという話を聞いてアカウントを取った。
しかし、放りっぱなしなのだ。なんだか見に行けないのである。
よくわからないのだ。

それでも、1~2年前にはツィッターをちゃんとやってみようと思ったことがあった。毎日のように誰々さんをフォローしませんかというメールが来る。しかし、この知らない人をフォローしてよいのだろうかと考えてしまうのだ。昔ふうの人間関係を考えているのだろうか。

「こんにちは、あなたをフォローさせていただいた○○と申します。今後もお見知りおきを」とご挨拶すべきだろうか。
何百人もフォローしている人は、その何百人が発信するつぶやきを、全部読むのだろうか。いいねをしたり、リツィートしたりするのだろうか。しかし、その手間も大変ではないだろうか。それとも、受け流してしまうのか。そのへんがわからない。

もう7年にもなるというのに何を発信したらいいのかもわからない。
ブログなら書きっぱなし、人が見ようが見まいが関係ない。自己満足の世界。ランキングにも参加していないし、アクセス数で一喜一憂することもない。

見たい人や検索で偶然訪れた人が、興味があれば読んでくれればいいと思っている。自分が書くこと、記録することに意味があるからだ。
もともとブログも家族や少数の知り合いに向けて書き始めたものだ。こんな自分のプライベートな生活を書いて、不特定多数の人に読んでいただこうとはおこがましく、危険ではないか。

でも、ツィッターは誰かをフォローし、フォローされている中で、自己満足の書きっぱなしってどうなのだろう?いらぬ情報でお騒がせし、人様の時間を無駄遣いさせ迷惑をかけるんじゃないかと思ってしまうのである。

もちろん、役にたつ情報がたくさんあることも充分に理解しているつもり。本来なら知りえぬ情報もツィッターで知って恩恵を受けていると感じることも多々ある。

私が、ツィッターを見たとか、ツィッターにこんなことが書いてあったというときは、どなたかのブログにツィッターが引用されているのを見たということなのである。つまりブログやLINE経由なのだ。

こんなことを書いたのは、最近、よく見るブログ等で、一人が思いつきで発信した言葉が(「思いつき」、というのは、推敲や他者の目で検閲を受けないですぐに発信できてしまうから)、瞬く間にリツィートされ、右往左往しているらしい人々がいることを知ったからだ。
言っては悪いが、海の中の小魚の大群が、1匹が右へ行くと右へ倣えとついて行って、ぐるぐるとまわっている図を思い浮かべてしまうのだ。

15年ほど前には、メールでさえも、一度送るともう取り消しができないから、一晩寝かせて次の朝に読んで大丈夫だったら送信しなさい、という言葉を信じていたほどだ。

私の年代ではSNSをやっていない人も多い。
リアルな世界で暮らしていると、SNSがなくても全然困らない。
毎日の生活をして、やるべきことをやっているとそれで日は暮れる。

SNSは視覚情報だけの世界。実は何も知らないに等しい。

SNSの世界より現実の世界のほうが、ずっと広くて、おもしろくて平和だ。


コメント
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