2023/08/17
ライターの高橋秀実さんが
認知症になった実父と過ごした436日のことを
書いた本。
本の紹介文より
「突然怒り、取り繕い、身近なことを忘れる。変わっていく認知症の父に、60男は戸惑うが、周囲の人の助けも借りて、新しい環境に向き合っていく。結局、おやじはおやじなんだ。時に父と笑い合いながら、亡くなるまでの日々を過ごす。「健忘があるから、幸福も希望もあるのだ」という哲学者ニーチェの至言に背中を押されながら。」
著者の母が急性大動脈解離で突然この世を去った。
87歳だった父が取り残される。
母の不在で露わになった認知症。
著者が驚いた認知症の診断基準とは
「毎日の活動において、認知欠損が自立を阻害する」
(すなわち、最低限、請求書を支払う、内服薬を管理するなどの、複雑な手段的日常生活動作に援助を必要とする)(p.10)
それについて著者はこう書いています。
〈認知症とは自立できない状態であるということなのだ。父は自分の銀行口座すら知らないし、薬の管理もできない。つまり症状としては間違いなく認知症に当てはまる。しかし、父の場合は認知機能が低下したのではなく、もともとできない。身のまわりのことはすべて母がやっていたので最初から自立していないのである。
「認知欠損が自立を阻害」しているのではなく、もともと自立しようとしていないわけで、アメリカの基準からすると、そのこと自体が重大な「認知欠損」なのだ。〉
認知症にはアルツハイマー型と
レピー小体型がありますが
高橋秀実さんのお父さんは
「家父長制型認知症」なんだそうです。
(もちろんジョーク)
要介護認定の調査員が自宅を訪問し
父親に面接したのですが
この箇所も興味深いのです。
少し長いですが引用させていただきます。
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調査員は父に質問をしました。
調査員:今日は朝ご飯を食べましたか?
父:はい、おいしくいただきました。
溌溂と答える父。
ちなみにアルツハイマー型認知症の特徴は
「挨拶もできて表情は豊か、にこにこと協力的で、多幸な印象」
(山口晴保)
調査員:何を召し上がりましたか?
父:ふかふかふかっと、ふっくら炊き上がった白いごはん。
それに、あったかい豆腐のお味噌汁。
それと焼いた鮭、ほうれん草のおひたしもいただきました。
実はその日の朝食は私が用意したトーストと目玉焼き。
まるきりのウソにもかかわらず、
湯気さえ感じさせるリアルの口ぶりに私は感心した。
後で聞いたことだが、この時点で父は認知症と判断されたらしい。
こうした言動は「取り繕い反応」と呼ばれ、
認知症判断の決め手とされているのである。(P.15)
質問に答えることができない患者が
その限りの適当な言い訳や作為的な内容を
述べる反応を意味している。
もともと言葉とはその場をしのいだり、取り繕うためのもの。
私たちはその場を現実を言葉の綾で取り繕う。
いや、取り繕ってできた綾を「現実」と呼ぶのではないだろうか。
そういえばマルティン・ハイデガーもこう言っていた。
言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです。
(ハイデガー著 『ヒューマニズムについて』)
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ここで哲学者の名前が出てきましたが
著者は一見、的外れのような父親の答えを
哲学的に解釈します。
認知症の父親とのとぼけた会話が
ユーモラスに感じて
つい笑ってしまいたくなりますが
けっして笑える場面ばかりではないのですね。
認知症患者の特徴として
自分では正しいと思って言ったり、行動したことが、
「それは違う」「こうしなけりゃだめ」と
言われても理解できず、
「自分は冷たくされた」「いじめられた」
という感情しか残らないのだそうです。
父親が怒る「スィッチ」は
銀行、町内会、介護サービスなど
見知らぬ人の気配を感じるとオンになる。(p.121)
とも書いています。
認知症の人がほんとうに必要としていることは何か。
どうケアをしたらいいのか。
人間らしく、心穏やかに過ごすためには
認知症の人の理解が欠かせません。
人間らしく、心穏やかに過ごすためには
認知症の人の理解が欠かせません。
哲学的な話になってくると
私には難しく感じましたが
父親の言動を理解しようと努めていた
著者の姿が思い浮かびます。
認知症は忘れてしまう病です。
〈私たちは忘れるから幸福になれる。
失敗を忘れるから夢や希望を抱けるし
忘れるから現在を感じられるとニーチェは言う。〉