はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

『安井かずみのいた時代』その3

2024年06月29日 | 
2024/06/29


島崎今日子著
『安井かずみのいた時代』の3回目です。

シリーズもののようになってしまいましたね。

この本を読むまで
安井かずみも加藤和彦もよく知りませんでしたが
そのせいでかえって興味深く読んでいました。


・・・・・・・・・・

1993年12月に安井かずみは
左肺上葉のがんと診断された。
悪性度の高い腺がんでステージⅣだった。
  
東京医科大学病院の加藤治文医師が
主治医だった。

当時はまだ告知するかどうか
議論のあった時代だったので
余命のことは加藤和彦にだけ伝えた。

余命は1年と聞いて
「じゃあ、その1年間、私はすべての仕事をキャンセルします」
と加藤は答えた。

「3年余命があれば話したかもしれませんが、わずか1年では立ち直るまでの時間が惜しかった。それならこの1年を、僕の全力で妻を支え、できるだけ妻らしい生活を全うさせてやりたい。」(p.328)

当の安井は3月16日の日記に
「精神的には”今の自分の状態が解らないこと”が辛い。不安、何病? そして治療は?」と心中を吐露している。
そして、その日の教授回診で告知を受けた。

最初は前向きに捉えていた。
ノートに夫への愛と感謝を書きつらねた。

「私たちはやっと本当の夫婦になれたと思う。
これで以後、本物の人生ができる」と書いた。 
(『ありがとう!愛』大和書房)


安井は抗がん剤と放射線治療を受けた。 
治療によって一時回復したかのように
思われたが、再発をした。

12月12日には夫婦そろって
キリスト教の洗礼を受けた。

亡くなる前の40日間
加藤は病院に泊まり込み献身的看護を続けた。

「1994年3月17日、午前6時5分、夫の祈りの声を聴きながら安井は眠るように息を引き取り、55年の生涯を終えた。」
(p.336)

取材で「妻との約束を守ることができた」
と加藤は語っている。
彼は前夜式で「寂しいけれど、悲しくはない」
と言った


主治医の加藤治文の話
「和彦さんはやさしく、世俗的でなく、私たちにはとても持てないような心を有した人。マナー、道徳、精神のコントロール、どれも素晴らしいですし、何より真の愛を備えた人でした。僕はこれまで50年の医師生活で、あのような素晴らしい家族に会ったのは初めてだったので、僕の心の歴史に残る場面を見せていただいた。」(p.337)


しかし、安井の実妹のオースタン順子の
受け止めは少し違っている。

「昼間に病院に見舞いに行くと、病室の隣りの予備室には誰もいないことが多かった。その頃はもう延命治療でした。
『このままでは姉が可哀想。つらいんじゃないでしょうか』と主治医に訴えてしまった。その翌日、早朝に姉は亡くなった。
姉の遺体は葬儀までの4日間、病院の霊安室に置かれたままだった。
『なぜ家に連れて帰ってくれないの?』と加藤に尋ねると、『階段があって棺を運ぶのが大変なんだ。』と答えていた。
それから、加藤は順子や母が六本木の家に来ることを拒むようになった。周囲にはいろいろな噂が飛びかっていた。彼には恋人ができていたのである。」

「けれど順子は加藤を恨むことができない。それは、彼が姉との生活の中で耐えていたものがあることを容易に想像できるからだ。友人たちの前で激しくなじられる彼の姿も目撃していた。母は加藤さんには心から感謝していました。」
(p.354)


二人は最期まで理想のカップルを演じていた。





編集者・矢島祥子の話 
「葬儀が終わって間もなく、六本木の家の前に、安井の服や下着や写真が透明なゴミ袋に入れられて、大量に捨てられていた。『下着は母が整理した』と加藤は淡々と説明し、私はショックを受けた。」(p.278)


吉田拓郎の話
「加藤は優しすぎて弱い。むしろ鈍臭い。だから自分より先を歩いてくれる女じゃなきゃあダメ。 
安井の友人たちは、この結婚を歓迎しなかった。酒を飲めなかった男がワイン通になっていて、えらく一流好みになっていた。
日本一ゴージャスでおしゃれな夫婦にどこか空虚さを感じずにはいられなかった。家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。」


実妹・順子の話。
「姉は自己主張が強く勝ち気な少女でした。姉は一家の女王蜂でした。私は命令されて、年中叱られていて、だから怖いというイメージが強かった。」(p.340)

安井は自分自身を
「「激しい気性」と書いていた。

なにより上昇志向が強く、一番になりたがった。

安井はキャンティで遊んでいた頃から「どう自分を見立てても、私は平凡な女であった。その頃から私は、自分の持っている普通さ、自分の育ちの普通さ、自分のほかに対する反応の普通さをとても意識し始めた」と自書に書いている。(p.68)


その勝気さと頑張りと社交術が
若くして当代随一の売れっ子作詞家に
彼女をのし上げたのだった。

戦中の生まれである彼女は
「ぜいたくは敵だ」の時代を知っている。

戦後、日本が経済力を高めていった時期は
自分の欲望に忠実に生き、贅沢をする時代でもあった。

彼女の数多い恋愛遍歴、豪遊
ハイブランドずくめのファッション

だが、心が満足していなければ
いつも寂しくて不安である。
モノや人では心は満たされないのである。


コシノジュンコの話
「ZUZUはトノバン命みたいになっていて、彼がちょっと誰かを好きになりそうになると、ものすごく神経質になって、ファッションを変えていた。彼の前では何か演じているような感じがしたものです。経済的格差があって、トノバンも途中からヒモみたいに言われたりして可哀想だった。
トノバンは彼女の最期まで、あれ以上やりようがないというくらい献身的に尽くしていました。だから彼の早い再婚。ZUZUの四十九日を過ぎないうちにガールフレンドと手をつないでみんなの前に現れた時には驚きましたけれど」
(P.69)


経済的に自立して、多くの遊びも恋愛も重ねながら
結局はただ一人の男性との結婚生活を望んだ。

大宅映子が安井のジュエリーを
羨ましがったとき
「あなたには娘が2人もいるじゃないの!」
と言ったという。

夫婦と子どもという家族のあり方が
安井のもっとも望む形だったのだろう。

このあたりは昭和の家族観から抜け出ていない。
夫婦はいつも一緒にいるという考えで加藤を縛った。


地位も名誉も財産も持っていた安井だが
自分の寂しさを満たすためにお金は使っても
人のために、社会のために何ができるかという
考えにはまだ至っていないようだ。

その意味でも、あの時代の象徴的な
人だったと思われてならない。





二人が暮らした六本木の家は全面改装され
翌年2月、加藤は中丸三千絵と再々婚。
結婚記者会見で「安井とのことは完結しました」といった。

そして5年の結婚生活の後、中丸と離婚した。

2009年10月16日、加藤は軽井沢のホテルで自死。
62歳だった。

「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていた遺書があった。


軽井沢で行われた葬儀には約100人が参列し
最後に同居していた30代の女性が
加藤の遺影を抱いて助手席に乗り込んだ。

加藤和彦もまた、何を求めていたのだろうか。



 
 


・・・・・・・・・・・・

長々とお読みいただきました
『安井かずみのいた時代』は
これで終わります。

(写真はネットよりお借りしました)


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