2021/08/01
昨日は武田砂鉄さんの『マチズモを削り取れ』からインスピレーションを受けて、東京の街を歩いていて感じることを書きましたが、この『マチズモ~』は、とても示唆に富んだ本なのです。
武田砂鉄さんのことは、TBSラジオのアクションという午後の番組(もう終わってしまった)で知ったのですが、あの番組のパーソナリティの中で、武田砂鉄さんが一番聴きごたえがありました。
書くものも、きっと面白いだろうと思いましたが、今回初めて読んでみて、期待どおりでした。
「マチズモ」とは耳慣れない言葉で、私は「?」と思いました。
「マッチョ イズム」のことだといえば、少しわかります。マッチョは筋肉。「マチズモ」とは男性優位社会のことです。
本書では、「マチズモ」はこの社会で男性が優位でいられる構図や、それを守り、強制するための言動の総称として使われています。
本の帯には「ジェンダーギャップ指数、先進国でぶっちぎりの最下位。そんなジャパンを直視せよ。」とあります。
この社会には見えない「マチズモ」が満ち溢れている。
私は区の男女平等推進センターの運営・企画委員をやったことがあり、人より多少ジェンダーに注意が向くほうだと思ってきましたが、この本を読んでみるまで、気がつかないことがたくさんありました。
まず、こんな文章。
この世の中は、オジさんが若い女子に教えてあげるという構図に溢れている。選挙権を得られる年齢が18歳に下がったと聞けば、朝日新聞は、男性論客らが女性アイドルに政治や憲法のイロハを教える構図の記事を作った。このようにして毎日のように提供される「いつもの構図」をひっくり返したい。(p.13)
男は教える立場、教えられるのは女、それも若い女。
若い女というのがミソですね。年とった女はモノを知っている(そう言わせてください。お婆ちゃんの知恵袋的な・・・)、口が達者で、可愛くない(笑)。そこには性的魅力のあるなしも関係しているかもしれません。
さて、今回書きたかった「女が道を歩くということ」。
昨日も書いたように、女が道を歩くことは、恐怖にもなり、気を使うことが大変多いのです。
本書から部分的に引用させていただきます。
〈東武鉄道の一部路線で、「駅や車内でベビーカーをご利用になるお客様は周りのお客様に配慮し、十分ご注意ください」という表示が車内の液晶モニターに出ると知った。 ベビーカーを利用する客のほうが、まわりの客に配慮せよ、という。 〉(p.21-22)
これは間違いではなく、ベビーカーを押して電車に乗ってくる人(たいてい母親)に対しての言葉で、まわりの乗客のほうが母親や赤ちゃんに配慮して、ではないのです。
私はベビーカーで電車に乗ったことはありませんが、気の使い方は大変なものだろうなあ、といつも思って見ていました。
危険なホーム、乗降時の段差、いつ泣き出すか、身を乗り出すかわからない乳幼児、おむつや飲み物、よだれふきタオルなどでいっぱいになったバッグを抱えて、揺れる電車で立つ母親。
武田砂鉄さんは、米俵のほうが容易だ、と書いているくらいです。
私も東武鉄道はときどき乗りますが、気がつきませんでした、この表示。
〈1970年代前半、ベビーカー締め出し反対運動が起きた。1973年から74年にかけて、東京の国鉄などがベビーカーの使用を禁止していた。
ベビーカーは危険なばかりでなく、他のお客様の迷惑になる、の理由をもって国鉄はベビーカーの乗り入れを禁止。折りたためばOKというが、片手に子ども、片手に荷物とベビーカーを下げて2歩行ける力持ちは、そうはいない。そして、今度は東京消防庁が、デパート内におけるベビーカーの使用を禁止した。
つまり子どもを産んだ女性は、公共の場を歩く権利すら はく奪されていた。
女性にぶつかりながら歩く男(少し前、そういう動画が拡散されましたよね)を怒るコメントでは、なぜか、彼は上司に叱られて(むしゃくしゃして)いたのではないか、なんて前提を付与して、少しだけ理解しながら怒る人がいる。ぶつかる男性には理由が与えられ、ベビーカーを押す女性には、理由など認めず、いつまでも配慮を求める。〉(p.23~24)
こういう時代がありました。
その頃の私はフェミニズムも知らず、ベビーカーで電車に乗ってくる母親を、危ない、なんでおんぶしないの?という目で見ていたと思います。今思うと、本当に配慮がなかった。社会にベビーカーはダメ的な常識があふれていて、それに染まっていたのですね。どうして、子ども連れで電車に乗ろうとするのかという視線さえありました。
「女性の歩行が性的な文脈におかれる」
本書には、レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳 左右社)という本が紹介されています。(p28)
この本には、「夜歩くー 女、性、公共空間」なる章があります。
〈【ストリートウォーカー、 ウーマン・オブ・ザ・ストリート、 ウーマン・オブ・ザ・タウン】英語には女性の歩行を性的な文脈におく語彙やフレーズがふんだんにある。これらはすべて娼婦を意味する。
「女性の移動はかならず性的な意味を帯びるということ、あるいはそのセクシュアリティは移動をともなうときに法を逸脱する傾向を持っていることが含意されている」のだ。
痴漢にあった女性、レイプ被害にあった女性に対して、未だに、男を誘い出すような恰好をしていたからではないかなどと、女性を責めたてる言葉を向けて、悪事を働いた男性の優位性を正当化しようと試みる劣悪な主張が残る。
ソルニットは言う「女性の歩行がしばしば移動手段ではなく、パフォーマンスとして受け取られることもいうまでもない。そこでは女は見るためではなく、見られるために歩き、男性の視線のために歩くのだ」
駅構内を歩く男が次々と女性だけを選んでぶつかっていく。それは、男があらゆる公共空間で優遇され、自分たちのために整備されてきた経緯の中で、身勝手に男であることを守ろうとする行為である。
男が歩くことに意味はないけれど、女が歩くなら意味を持て、と強いてきた歴史をそのまま自動更新してしまう。〉
〈 〉内は引用。
夜道で女性が被害に遭うのは、ひとりで夜道を歩いたからだ、肌を露出する服装をしていたからだ、と女性に非があるように言われてきました。女の子だから気をつけるようにとは、子どもの頃から繰り返し言われてきたことです。
男性や男の子に対して、女性を襲ってはいけないと、同じくらいの頻度で繰り返し言われていたでしょうか。そんなことは聞いたことがありません。そんな教育もなければ、啓蒙活動もありません。
せいぜい駅に貼られた「痴漢は犯罪です」というポスターくらいのものでしょう。
それはなぜでしょう。
ここにもマチズモがあったのでしょうか。男性への配慮でしょうか。
私が男女平等推進センターで、女性講師から、女性が身を守ることのレクチャーを受けた時には、「人を襲う危険のある犬はつないでおく」のに、なぜ人を襲う危険のある人はつないでおかないのか、と言われて、その言葉がとても印象に残っています。
なぜ、つながないのか。
それは人間なんだから当たり前だ、といえるでしょうか。
男性に人権があるとしたら、女性にも襲われない権利、襲われないように手だてをしてもらう権利があるはずです。
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武田さんのような男性が世の中の男性優位を指摘して、意見してくれることをうれしく思います。