2022/05/20
著者の伊藤亜紗さんは東工大 科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院准教授。
この本にはいろいろな示唆を受けました。
今まで考えてもこなかった新しい視点を知ったと思います。
まず、「さわる」と「ふれる」の違いについて。
私はそれらの言葉について深く考えたこともなかったので、どう違うのだろうかと、しばし考えこんでしまいました。
読み進んでいくと、「さわる」と「ふれる」の違いは、本著の最後まで続く重要な概念なのだとわかりました。
本著によれば、
「ふれる」は相互的であるのに対して「さわる」は一方的である、ということ。
坂部恵の論を引用して、
〈さわるが侵襲的であるのに対し、ふれるは相互依入の契機となり、人間的なかかわりが生ずる。〉のだそうです。
痴漢の例のように、相手の同意なしに、つまり相手を物として扱って、自分の欲望を満足させるのは「さわる」と考える。
「ふれる」ことの人間的なかかわりは、おのずと「ふれあい」に通じていく。
「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわりということになるでしょう。
「接触面には人間関係がある」と著者は書いています。
引用させていただきます。
「あらためて気づかされるのは、私たちがいかに接触面のほんのわずかな力加減、波うち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか。相手は自分のことをどう思っているのか、「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもある。こうしたことすべてをひっくるめて、接触面には人間関係があります。
ケアの場面はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な場面で、出会うことになる人間関係。そこで経験する人間関係、つまりさわり方、ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトな影響を与えるでしょう。
触覚の最大のポイントは、それが親密さにも、暴力にも通じていることです。」(p.7)
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確かにそうだ、と思いました。
さわられ方によって、好意があるのか、邪険にされているのか、職業上の行為なのか、瞬時に感じ取ることができますし、そのさわる手の感触によって、相手の性格までわかってしまうことがあります。
第2章の「触覚」では、またまた興味深いことが書かれていました。
まとめながら、部分的に引用させていただきます。
西洋哲学の文脈では触覚は劣った感覚と位置づけられていた。
感覚のヒエラルキ―の最上位は視覚である。視覚がより精神的な感覚と考えられていた。
プラトンの「イデア」論を見ると明らかだ。「イデア」という語はギリシャ語の「イデイン」、すなわち「見る」に由来している。
認識の本質は見ることにあると考えられていた。
なぜ、触覚は劣っているのか。それには距離のなさがあげられる。
視覚は対象から自分を切り離している。触覚は対象に物理的に接触することなしには認知できない。
視覚は人間の精神的な部分、触覚は動物的な部分に関わると考えられていた。
視覚は一瞬のうちに認識できるが、触覚は部分を積み重ねるような仕方でしか対象を認識できない。(p.56∼57)
常に部分的な認識しか得られず、全体を把握するのに時間がかかる。その特徴から視覚に比べて劣った感覚とされた。
ふれる/ふれられる、には信頼が必要ということ。
相手にふれさせるのは、相手を信頼しているからだという言葉など、改めてそのとおりだなあと考えさせられます。
この本は触覚によるコミュニケーションについて多くを論じています。
ごく簡単にいってしまえば、「さわる」は一方的な伝達のモード。
「ふれる」は生成モード。
相互関係が生成されていくということ。
著者は視覚障碍者、ブラインドランナーと伴走者の例から、ロープを通じたやりとりから得られる情報も分析しています。
目で見て理解していた相手と、手を通して知る相手は必ずしも「同じ」ではない。一種の出会い直しである。(P.101)などという言葉には、思い当たる節があります。
数年前、私はある有名なピアニストの方と握手をしたことがあります。今はコロナで、サイン会などないかもしれないけれど、以前はコンサートの後、CDにサインをしてもらって握手をするサイン会がありました。
その方の手は大きくて、分厚くて、思っていたより硬かった。そして、指先は少し冷たく湿っていた。
私は一流のピアニストの手ってどんなだろうとずっと思っていたので、この握手はとてもうれしかったのです。
冷えて汗ばんでいた手からは、超絶技巧も大曲も弾く名手でありながら、あんがい緊張しいではないかと感じたのです。
演奏を目で見て、耳で聴いたのとはまた違う、その人らしさ、あるいはピアニストというものを触覚で感じたのですよ。
今はコロナ禍で、特に人にふれるという行為は遠ざけられていますが、本来、触覚によるコミュニケーションは最も生理的というか、情緒に訴える気がします。
家族や親子、介護、診察、治療、美容などの多くの場面で手でさわること・さわられることってありますよね。
そのような場面では、人は相手を信頼して、自分の体をさわらせなくてはいけないし、さわる側は相手を尊重しなくてはいけない。
そこには倫理というものが必要になってきます。
第6章の「不埒な手」という章は、そのあたりのことが書かれています。職業上のさわるという行為で別の場面を思い出し、別の感情が沸き起こってしまうのですね。
あとがきに書かれた「触覚の話をすると多くの人がこれまで誰にも話したことのないエピソードを語り始めます」という言葉は、まさしく、私も握手のことを語ってしまいました。
そのほかにもキリがないほどいろいろなことが思い浮かびます。
まさしく「手に歴史あり」ですね。