はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

全日本フィギュアスケートが始まっていた

2024年12月21日 | フィギュアスケート
2024/12/21



昨夜、全日本フィギュアが
始まっていたことをLINE友さんから知り
慌ててテレビをつけてみると
ちょうど織田信成君の演技の際中でした。

去年は、何か手続きに不備があって
出場ができなかったそうなので
今年は出場できてよかった。

4トゥループと3トゥループのコンビと
トリプルアクセルを鮮やかに決めて
体のキレもよくて
現役時代より進化している。

たくさんのアイスショーを経て
観客を楽しませるすべを
身につけているらしい。

本人が楽しんで滑っているのが
観客にも伝わって楽しい雰囲気。
なかなか試合ではこういう雰囲気は出せない。


全日本ジュニアのチャンピオン
中田瑠士君はジャンプがうまいし
手足が長くて見栄えがいい。

フラメンコ的な動きも美しくて
演技にも目を惹きました。

有望な16歳が出てきたものだと注目。
今後が楽しみな選手です。



女子のレベルもなかなかのものでした。

その意味でも競争が激しくて70点代が6人。

私が注目したのは千葉百音選手と
16歳の島田麻央選手。

千葉選手はますます進化して
上半身を大きく使った演技も魅力的。
安定感も増してきましたね。

島田麻央選手は
鮮やかなジャンプと高速スピンに目を瞠る。

16歳だからまだ体が軽いのか
身体能力も高そうで
楽々と演技をしている感じ。
この人も今後が楽しみ。


大場雅選手は29歳にして全日本出場。
女子でもこの年齢で出るとは大したものです。

青木祐奈選手も14歳の頃に存在を知って
それ以来何度目の全日本かしら。

いつのまにか24歳。
もう貫禄すら感じさせます。

全日本は国際試合と違って
選手がどこのスポーツクラブだとか
何大学だとか、何県出身者だとか
何年も追ってみていると身近に感じられます。


オフィシャルサイトはこちら




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家探し

2024年12月20日 | 我が家
2024/12/20


今年もあと10日余り。

信じられないくらい時が速く過ぎていきます。




私にとっての
今年1年の漢字といったら「家」です。


このブログには全く書いてきませんでしたが
今年1年間
正確には何年もの間ですが
住処を探してきました。


今住んでいるマンションはよいマンションですが
一生住むには不足な部分が多いので
まだ体と心にエネルギーのあるうちに
満足のいく家に住みたいと
ずっと考えてきました。


実際に家探しに動き出したのは
今年に入ってからのことです。

はたしてどこに住んだらよいのだろう
というのが当初の気持ちでした。

夫が昨年春に退職したこともあって
仕事のためにとどまる必要もなくなりました。

一緒に首都圏のあちこち、静岡県内まで
見に出かけて行きました。




ただ、夫婦間の考え方の相違もあり
具体的にどんな家に住みたいか
というのもフォーカスできずにいて
ただ一戸建てに移りたい
と思うばかりでした。





そんななかでも
引っ越しは大変すぎるのではないかとか
今の住まいの不満点ばかりを見て
いい点が見えなくなっているのでは
ないだろうかという考えも
沸き起こってきます。

この土地に住んで約20年。
地域とのつながりもできて
私なりに頑張ってきたこともあります。




東京に息子たちがいることも考えると
この地を離れるのはどうなのだろうかと
悩みは尽きませんでした。





12月になってからようやく
ここならよいだろうという
希望の家が見つかりました。

最初は見つかったような気がする
と思うくらいで
まだまだ迷いがありました。

でも、この1年間、心から離れなかった
家探しもそろそろ終わりにして
歩きだしたいと思っていたし
自分の希望に合う点も多かったので
決めました。

それは故郷・浜松でした。

決まったことには安堵しています。

やっと新しい生活へのイメージが
湧いてきました。

まだまだ今後、しなければならないことや
引越しのことを考えると
大変な気持ちが先立ちますが
決めたことを正解にするためにも
前向きに取り組んでいこうという
気持ちになっています。



新幹線の車窓から見た富士山






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いただきもの

2024年12月17日 | 我が家
2024/12/17


お歳暮シーズンです。

京都の親戚からは美濃吉の
京野菜入りおでんをいただきました。



薄味のおだしで炊いたおでん

おいしくいただきました。

岐阜の姉からはいつもの海苔セット。

夫の付き合いのあった会社からは
北海道のスモークサーモン。

40㎝もある大きなものです。

薄切りにして
オニオンスライスとレモンで
食べるとおいしいです。


我が家からも
今年は横浜中華街の点心セットを
贈りました。

一人暮らしになった京都の義姉や
右手の不自由な岐阜県の姉には
レンジで温めるだけで食べられる食品が
便利ではないかと思ったのです。

もらったり贈ったりのやりとりですが
電話で近況を話すきっかけにもなるかな
と思います。



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平安時代の屋敷は寒かった?

2024年12月15日 | 雑感
2024/12/15


大河ドラマ「光る君へ」が
今日で終わります。

見ていると平安時代の暮らしについて
いろいろ疑問が浮かんでくるのです。

NHKラジオ深夜便(14日、午前4時)
で聴いた鳥居本幸代さん
(京都ノートルダム女子大学名誉教授)の
お話が興味深かったです。

ドラマを見ていて何が疑問だったかというと
いつの季節も寝殿造りの広い屋敷が
開け放たれてます。

庭が見えていて
みんな渡り廊下を歩いたりして
ずいぶん風通しがいいのです。

冬でもそうだったのかしら?
これでは寒いはず。

昔は暖房など手元にしかなかったであろうに
どうやって暮らしていたのだろうか。

これは平安時代だけでなく
鎌倉殿の十三人を見ていたときにも
感じたのでした。

それが鳥居本さんのお話で
疑問が解けました。

昔は窓ガラスというものがなかった!

部屋に外光を取り入れなければ
暗かったのです。
だから開け放っていたのだと。

夜になれば板戸のようなものをつけて
休みますが
昼間からそれをすると暗くて
灯りが必要になってきます。

油は高価で昼から灯りをつけていることは
なかったのだそうです。

木の家だから、火事の心配もあるかもね。

でもそれでは
寒かったのではないかしら。

あの頃の屋敷は天井というものがなく
(屋根だけ)
床は板敷きで寒かったそうです。

そのためにたくさん着込んでいたのだそうです。

十二単というのは単なる着飾りでは
なかったのです。

たくさん着込む必要があったのですね。

貴族の女性は動いて働く必要もなかったし。
なるほどなあと思いました。


寝殿造りの屋敷には風呂場もないので
渡り廊下のところなどに
衝立をぐるっとまわして
盥のようなものを置いて行水をしたそうです。

髪の毛が長いので洗うのも大変で
陰陽道で占って、良き日に洗うというのです。

ドライヤーもないから
乾かすのも大変ですね。

冬場など風邪をひいてしまいそう。
たまにしか洗わなかったのですね。

お化粧は昔からしていて
奈良時代に鉱物性の原料を使う化粧が伝わって
水銀、鉛など、毒性のあるものを
顔に塗っていたそうです。

当時の女性の寿命は30代だったけれど
その化粧も関係していたのではと
鳥居本さんは話していました。

貴族の男性も薄化粧をしていたそうですよ。



ラジオ深夜便 午後4時台「明日への言葉」
12月22日(日)午前まで聴けます。




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青柳雄介著『袴田事件 神になるしかなかった男の58年』

2024年12月14日 | 
2024/12/14


青柳雄介著の
『袴田事件 神になるしかなかった男の58年』 
を読みました。

袴田事件のドキュメント映画を
 見に行ったあとに
もう少し詳しく知りたくなって
読んだ本でした。

この本は2024年8月20日発行で
無罪判決が出る前に出版されています。

 


NHKスペシャルで
『雪冤の歳月 ひで子と巌 奪われた58年』
も放送されましたね。




本の冒頭に巌さんが実兄に送った手紙が
載っていました。

巌さんは私が思っていたより
ずっと考え深く
もののよくわかった人だったと
感じたのです。


(1973年1月26日、袴田巌から兄・茂治あて書簡より)
〈私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。そして死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が、私の心をたとえようもなく冷たくする時がある。そして全身が冬の木枯におそわれた時のように、身をふるわせるのである。自分の五感さえ信じられないほどの恐ろしい瞬間があるのだ。しかし、私は勝つのだ。私は、今日、自分の生活に対する決意と行為が、一つなりとも卵を持って石に投げつけるのに等しい無謀なものだとは思わない。〉


私が袴田事件を詳しく知ったのは
最近のことなので
意思の疎通の難しい巌さんの姿しか
知らなかったのです。


それにしても死刑判決は
袴田家の親族に途方もない苦痛と悲しみを
もたらしました。

1966年6月30日に事件が発生し
49日目の8月18日
巌さんは逮捕されます。

1968年9月11日、静岡地裁で死刑判決が出ると
その約2か月後の11月17日 
母・ともは68歳で亡くなります。

翌年の4月11日には
後を追うように父・庄一が69歳で
亡くなっています。

これは大きすぎる悲しみやストレスが
2人を死に追いやったといっても
過言ではないと思います。


「あんたが勝ったよ」

ひとこともしゃべらなかったけれど
きっと理解しているであろう巌さん。

無実の罪を晴らすまで58年という長さ。

検察、裁判官、関係者含めて
冤罪だとわかっていたけれど
メンツがあったのでしょうか
長引かせた裁判。

巌さんは一生を棒に振ったようなものですが
無罪を勝ち取る日まで
生きてこられたことは唯一の幸運だった
と思えるのです。

こうした冤罪が二度とあってはならないと
思いますし
袴田さんとひで子さんの2人の戦いを
無駄にしてはいけないことだと
痛感したのです。




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