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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

偕楽園好文亭…奥御殿の襖絵と板戸の墨絵

2025年02月22日 | 水戸の観光


水戸の梅まつりが、偕楽園と弘道館を会場に2月11日から始まりました。今年は例年より開花が遅れていましたが、寒波にも負けず咲き始めています。


天保12年(1842)水戸藩第9代藩主徳川斉昭公の創設した偕楽園に建つ好文亭は、来園時の藩主の御座の間や、領内お年寄りや文人墨客を招いての詩歌の会などを行う広間のある好文亭本体に、藩主夫人と御付きの女中衆の休息所の奥御殿が太鼓橋廊下で結ばれています。




この好文亭は太平洋戦争末期の昭和20年(1945)8月2日の大空襲により焼失しましたが、昭和30年(1955)から3年をかけて寺社建築の老舗金剛組の施工で復元されました。現在、奥御殿には部屋の名前の花木の襖絵が描かれた9室がありますが、好文亭本体の方には板絵などの地味なものばかりがあまり目立たない場所にあります。



復元時の奥御殿の襖絵は当時の東京芸大の須田珙中教官によって、松の間、紅葉の間、梅の間、萩の間が描かれ、竹の間に取りかかった時に病に倒れたため、後を引き継いだ田中青坪教官によって菊の間、桃の間、躑躅の間、竹の間、桜の間が完成しました。



ところで奥御殿のこの襖絵は戦前の記録写真などが残っておらず、両人は新しい構想で描いたとされています。



この件については、たまたま見つけた東京藝術大学大学院美術研究科の植松みさと氏の研究論文「文化財建造物における障壁画の保存管理に関する研究 2016.3」によると…「明治39年4月に東京美術学校図案科(現・東京藝術大学建築学科)の教官であった大澤三之助が学生を引率し、偕楽園を訪れて、焼失前の好文亭と奥御殿の実測調査を実施していた。そのため、東京藝術大学美術館所蔵の実測図面や板戸の絵や書の模写、飾り金具などの刷本があり、戦後の再建の際にはそれらの史料によってほぼ当初の状態に復元がなされた。しかし、奥御殿の障壁画は 参考資料が残っておらず、当時の東京藝術大学の教官であった須田珙中と田中青坪によって新たな作品が制作された」と記されています。



また、創設時の亭内の絵については網代茂著「水府異聞」に、「好文亭中の桐戸、襖のたぐいは当時水戸城下の書画に名声のある人々に命じて描かしめた。また水戸家所蔵の中より古色紙、短冊数十枚を選び出し、桐戸四枚に模し好古の観覧に供す。これは水戸藩医小松玄甫の筆なり。画は萩谷遷喬、三好守真、岡田一琢いずれも水墨にて揮われたる山水と梅竹の模様なりと《常磐公園覧勝図誌 松平雪江 (明治18年)》」を引用し、水戸藩絵師の萩谷遷喬と、立原杏所に学び後に松平雪山の門人小松玄甫、水戸藩士の岡田一琢、二百石とりの物頭役で酒井抱一に光琳派の花鳥を学んだ三好守真など、携わった当時の絵師を紹介しています。



この中でも「いずれも水墨にて揮(ふる)われたる山水と梅竹の模様なり」という記述が見えます。ということは、好文亭本体にある板戸には梅図、竹図、楼閣図が墨絵で描かれているので、奥御殿の襖絵の説明ではないことになります。



以上のようなことから、開設当初の奥御殿の襖絵は白襖だったという説(寺門寿明氏「好文亭をめぐる画家たち 耕人 2002年」)に賛同したいと思います。



氏はその理由として、前述の網代茂著「水府異聞」でも消失前の奥御殿を知っている古老の話しが水墨画のようであるとか弘道館の正席の間の墨絵に似たようなものとか、あいまいな記憶で述べられており、また古い絵葉書の好文亭の写真の中に奥御殿襖絵がほとんどなく、あっても白襖で写っている(これは仙人もオークションサイトで確認しましたが、床の間や外観の写真ばかりでした)、さらに一張一弛の同じ精神で創られた一対の施設である、勉学する弘道館に対して余暇を楽しむ好文亭も、弘道館と同じ質素な白襖であったことは充分に納得できるということを挙げています。



ただし、もしそうだとしても現在の色彩豊かな襖絵は、建立の意図や周辺環境に適った素晴らしい作品ばかりで、弘道館の魅力を後世に伝える役を十分果たしていると思います。

植松さとみ氏も論文の中で「好文亭奥御殿では、当初障壁画(※襖絵)が不明であるものの、図面資料から(※当時も今の部屋名が付いていた)画題を決定し、当初の空間の維持を目指したので、再建後の建築空間が変わらずに保存されていることが評価できる」と述べていました。


一方好文亭本体の板戸類は、幸いなことに明治39年に東京芸大で模写したものが残っていたのでそれにもとづいて忠実に再現できました。主に田中青坪教官により復元されました。


華燈口にあるのは、奥御殿から東塗縁広間に通じる二畳の小部屋で、小坊主が控えて奥御殿と茶の席との連絡にあたりました。


その中にある「水戸家所蔵の中より古色紙、短冊数十枚を選び出し、桐戸四枚に模し好古の観覧に供す。これは水戸藩医小松玄甫の筆なり」と書かれたもの、これも田中青坪の復元とされています。


梅図、楼閣図は白木の杉板の板戸に描かれた墨絵で、70年近く普通の状態で保護されずに置かれているため、褪色がすすんでいます。構図や筆致などから創建時は藩の絵師萩谷遷喬により描かれたとされています。


竹図と扇面散らしも板戸に施されています。


酒井抱一筆と書かれた芙蓉図は茶室手前の水屋の地袋の引き戸に描かれています。酒井抱一に光琳派の花鳥を学んだ三好守真が建設当時に襖絵に関係した縁でしょうか、田中青坪の復元です。


また詩歌の会が行われた西塗縁広間の4枚の杉戸には、約8000字の四声別韻字が書かれており、作詩の際に辞書代わりとして用いられました。東京芸大の専門家により復元されています。

ところで、ほとんど年内無休の好文亭の休館日は12月29日~31日のみ、しかも偕楽園との関連から開放的な公開状況になっているため、襖絵などには日射や湿気などの影響を直に受ける劣悪な保存環境であることが指摘されています。難しいでしょうが英知を結集して後世に残してゆく最善の方法を模索していただきたいと思います。



開花がいつもの年より遅れていた梅も、暖かい日が続けば一斉に咲き誇り、いろんな種類の梅花の饗宴をおとどけできることでしょう。




追記:奥御殿梅の間にある床脇棚の天袋に描かれた梅の絵です。この絵は東京芸大の明治39年の模写の中に含まれていたとされるので、奥御殿の襖に絵が描かれていれば模写していた筈だったということを裏付けていると思います。

以上推測の域を出ないかもしれませんが、観覧のお役に立てれば幸いです。

謹賀新年 2025

2025年01月01日 | 水戸の観光

明けましておめでとうございます

どうぞ今年も健康でお過ごしになられますように…  2025年 元旦




さて、春に先駆けて咲く梅の花ですが、偕楽園ではまだ早咲きや早とちりの梅が数輪咲いているだけですので、園内100種といわれる梅の中で特に姿、色、香りが優れたとして選定された「水戸の六名木」といわれる梅を以前の写真からご紹介いたします。


まずは、天保13年(1842)偕楽園を創設した水戸藩9代藩主徳川斉昭公の諡号(しごう・おくりな)の付いた「烈公梅」です。野梅系の一重、薄紅色の花弁が重ならずに凛と咲く様子は、激動の幕末を駆け抜けた公の生きざまを見るようです。さすがに花果兼用種なので、立派な実が生ります。


東京梅の会と水戸博物学会が「六名木」を選定した昭和6年に、弘道館脇で見つけた今までにない老木の花を「水戸公の名を祈念せんがために斯く命名せり(松崎睦生著「水戸の梅と弘道館」)」といわれます。



月影」は命名された方の感性が感じられます。青軸性という種類で青白い花弁が端正に開き、花弁基部には淡緑色の萼片の色が浮かび上がる…いかにも名前通りのイメージとして人気の品種です。野梅系で良果結実します。



江南所無(こうなんしょむ)」 杏性の八重大輪で雄しべは退化しているため結実しません。中国渡来の古い品種で、園内では最も遅く咲く梅です。よく言われる命名の由来は、三国時代の中国で、陸凱という人が、江南から北の長安の親友に一枝の梅を送り、後に長安に赴いたときに贈った詩の一節「江南無所有,聊贈一枝春(江南には何も贈る物がないので、とりあえず梅の一枝で春をお届けします)」から付けたとされています。



白難波」 やや早咲きの難波性八重で少量結実種、雄しべが花弁に変わる旗弁がよく見られます。



柳川枝垂」 枝垂れ系薄紅色一重の梅で偕楽園の貴重品種、あまり結実しない品種です。



虎の尾」  難波性八重でやや早咲き、少量結実します。虎の尾という名前の由来は蕊の曲がり具合、枝の模様や枝振りなどいろんな説がありますが不明です。


天保13年、斉昭公が偕楽園を開設したときに、梅を植えたことについて述べた「種梅記」の石碑が弘道館公園に建っています。



その文中に、梅は「雪を冒し春に先たちて風騒の友となり、実は則ち酸を含み渇を止めて軍旅の用となる。ああ備えあるものは患なし。(天下の魁として咲く梅の花は、花を愛でるばかりではなく、いざというときには軍旅の備えにもなる)」と書かれています。※風騒:詩文をつくり楽しむこと

ということは、開設当初に植えた梅は実をとる「実梅」で、種子繁殖された原種の白い野梅がほとんどだったのではないでしょうか。
その後時代が変わり、花を愛でる品種で実が生らない「花梅」がどんどん作出され、偕楽園でも現在では約40%が花梅といわれています。


※写真は青梅市で作出された実梅の「玉英」、青梅市に縁のある日本画家の川合堂と小説家の吉川治から名付けられました。

さて、今年で129回目を迎える水戸の梅まつりは、2月11日(火)から3月20日(木)まで行われます。梅は開花期間が長く、しかも種類の多さから早咲き、遅咲きなど次々に咲き続けますので、約1か月のまつり期間が設定されています。
100種とされる偕楽園の梅も最近では新しい品種も増えて、苗畑でデビューを待つものも入れれば200種を超えているかもしれません。満開のいろんな梅の中から「水戸の六名木」を探してみるのも観梅の楽しみ方のひとつになるでしょう。


またひとつ年を重ねるということは、恐怖以外の何ものでもありませんが、とにかく平穏無事に新年を迎えられました。

             去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの   高浜虚子

今年も細々とブログ更新をしてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

最後の紅葉…歴史ある3寺社(水戸市)

2024年12月12日 | 水戸の観光

2,3日強い風が吹き、枝にしがみついていた紅葉もほとんど散ってしまいました。なんとか間に合って撮った最後の紅葉の写真です。


水戸八幡宮は樹齢800年という国の天然記念物指定の大銀杏で知られています。


訪ねた時には大銀杏は散り始めていましたが、樹高42mの大樹が鳥居のはるか上の空に屹立していました。


幹周り9mもある樹の下は黄色い絨毯です。稀に葉から実が出るので「お葉付け銀杏」とよばれています。仙人が数年前に撮って社務所でお墨付きをいただいた写真を〇囲みで入れました。


この八幡宮は、文禄元年(1592)水戸城を手に入れた佐竹義宣公が常陸太田から居城を移す際に水府総鎮守として鎮斎し、文禄3年(1594)八幡小路(いまの北見町)に本殿を創建しました。水戸徳川家の治世になり一時城外に移されましたが、宝永6年(1709)この地に再び遷座され、代々の水戸藩主からも崇敬されました。


本殿は国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は神格化された応神天皇なので、山門、拝殿などには菊のご紋が付いています。


標高差約20mの水戸台地上にある八幡宮の北東の崖上に烈公御涼所があります。水戸藩9代藩主、徳川斉昭公(烈公)がここを訪れて眼下に望む那珂川の涼風を楽しまれたといわれています。大きな欅の木が色付いていました。


祇園寺は明の心越禅師の開山、水戸藩2代徳川光圀公の開基による曹洞宗の寺院です。

心越は廷宝5年(1677)に来日し、天和元年(1681)光圀公の招請でこの場所にあった天徳寺に居住し、元禄8年(1695)の死去までこの寺で過ごしました。


正徳2年(1712)四世大寂界仙のとき、いままでの岱宗山天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山祇園寺と改め、心越禅師をもって開山とし曹洞宗寿昌派の本山となりました。
本堂前の実の付いた大木は、センダン(栴檀)です。


光圀公が心越禅師に心服したのは、禅宗の高僧であると同時に、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝える技術を持っていたからといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。


祇園寺開山の約200年後の幕末、水戸藩は門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)による激しい藩内抗争により多数の犠牲者を出しました。水戸市内では天狗党の慰霊碑が多く、明治以降は逆賊の立場に置かれた諸生党ですが、昭和10年(1935)に殉難者525柱の名を記した、この「恩光無辺の碑」が建てられました。


祇園寺の墓地には諸生党のリーダー市川三左衛門、朝比奈弥太郎や洋画家の中村彝、詩人の山村暮鳥などが眠っています。


光圀公開基のため薬医門形式の山門には、水戸葵紋がしっかりと付いています。


桂岸寺は、正式には「大悲山保和院桂岸寺」ですが、地元では「谷中の二十三夜尊」という名前で呼ばれています。

天和2年(1682)檀海和尚が開山し市内の全隈町にあった普門寺を、水戸藩立藩の際家康より付けられた附家老2代中山信正の供養のため子の信治が譲り受け現在の地に開基しました。


元禄7年(1694)、光圀公の命令により保和院と改称、さらに宝暦5年(1755)に現寺号を称し、京都御室仁和寺末となりました。門跡寺院の仁和寺なので菊の紋が付いています。


延命地蔵やピンコロ地蔵などの置かれた一帯も鮮やかに彩られていました。


愛染堂と朱雀門…門は旧水戸城二の丸に在った水戸徳川家霊廟の門と伝えられています。


隣接して光圀公が名を付けて愛した保和苑があり、60種5000本のアジサイなど四季の花々が植えられています。この明星が池は水戸城の東の水堀の役目をした池の名をとりましたが、光圀公がその池を浚って魚を採ろうとしたときに家老の中山信正が堀の水を抜くとは…と諫めた話が残っています。


この中山信正はご意見番で知られ、その墓は真北に光圀公の眠る瑞竜山を向いた場所にあり、家紋の「枡形に月」をかたどった墓石に光圀公から贈られた諡号「恭子(きょうし)」が刻まれています。


社会派、前衛派の俳人として知られる金子兜太が旧制水戸高校在学中に詠んだ「白梅や老子無心の旅に住む」の句碑が置かれています。

水戸市街地から北西に少し離れた歴史あるこの一画は、いまの時期人影も少なく紅葉の穴場でした。

偕楽園公園の秋…年々紅葉が遅くなる?

2024年12月01日 | 水戸の観光

梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積があります。

その中でも紅葉の名所として近年知られてきた「もみじ谷」は、水戸台地が浸食されて出来た谷に植えられたもみじが大きくなり、この時期に訪れる人も多くなっています。


今年訪れたのは11月25日、去年も例年より遅かった紅葉ですが今年はさらに遅れていました。


まだ十分に色付いていません。


少し緑が混じっている紅葉が好きだという人もいますが…。

因みにこの場所の昨年と一昨年の紅葉写真を載せてみました。


去年の2023年11月27日撮影


一昨年の2022年11月14日撮影




さて一般的にはモミジより少し早めに黄葉するイチョウは、茨城県立歴史館の銀杏並木が名所として知られています。


昭和49年(1974)に当時の岩上二郎知事が、文書館と博物館の二つの機能を備えた歴史館として開館した当時は、全国的に注目を集めました。


開館より50年、古文書や行政文書から、考古や歴史、美術工芸など56万点以上の資料を収蔵しており、今年は節目の年としていろんな記念展示が行われています。


ここには昭和45年(1970)まで、茨城県立水戸農業高等学校があり、その旧校舎本館も復元されています(写真右)。


また構内には明治14年(1881)に建てられた旧水海道小学校本館が水海道市(現常総市)から移設されています。


水海道町民有志が寄付5000余円を集め、建てたのは地元の宮大工羽田甚蔵で、横浜の外国人居留地に通って図面を書いたといわれています。女優の羽田美智子さんの高祖父になることがNHKファミリーヒストリーで紹介されたことがありました。


ところで銀杏の葉にはシキミ酸という防虫効果のある成分が含まれ、古文書などに銀杏の葉が挟まれているのが見つかるそうです。また、なかなか腐らずに残るため踏んだ足を滑らせたり、腐葉土には向かないなどともいわれています。



水戸城の堀の役目と偕楽園の借景として池の役目を果たした千波湖は、当時の大きさの三分の一くらいになっていますが、一周3Kmの湖畔の歩道は、ウオーキングやランニングの方々でいつも賑わっています。



水戸城の南北東は水堀で守られていましたが、陸続きだった西側には5段の堀があり、その一番外側の堀跡は西の谷緑地として整備されています。深い堀の上はすぐに繁華街という立地で、茨城県で唯一のデパート「京成」のビルが紅葉の上に見えます。


この紅葉の遅れる原因は地球温暖化のため、夏の高温で紅葉する前に葉が枯れたり散ってしまったり、また紅葉の一番の誘因である朝晩の冷え込みが弱くなりきれいな色付きにならないともいわれています。



1週間前に気候変動に関する最大の国際会議COP29が閉幕しましたが、なかなか意見の一致が難しかったらしく、またアメリカの次期大統領は離脱の素振りさえ見せています。モミジの紅葉くらいならいいのですが、世界中で起きている干ばつによる飢餓や海に沈む島嶼国など命に係わる切実な問題を、地球で生きてゆくものの責任として大国こそ先頭に立って取り組むべきではないでしょうか。

晩秋の偕楽園…花を探して

2024年11月16日 | 水戸の観光

偕楽園周辺も晩秋から初冬への装いになり、さすがに園内の花も数少なくなりました。

梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積を誇ります。

いま園内では、早春の梅まつりを待ちきれず咲いてしまう数輪の梅の花を見つけることができます。

早咲きの品種ではなく、季節を早とちりしがちな個体のいわゆる狂い咲きでしょうか、高い枝先の数輪はコンデジではなかなか捉えきれません。(偕楽園公園の田鶴鳴梅林で11月上旬撮影)。


毎年この時期に偕楽園で見られるのは、見晴らし広場の二季桜で名前の通り春と秋の二回咲きますが、今年は酷暑の影響でしょうか、例年より花の数が激減しています。この二季桜の苗が、彦根市の井伊直弼銅像の近くに植えられて毎年咲いているそうですが、今年はどうでしょうか。


表門にある十月桜は、八重で薄い紅色が入ります。名前の通り10月から咲き始め冬の間も何輪かが咲き続け、4月には他の桜の開花に合わせて花をいっぱい咲かせます。こちらも今年は、やっと数個の花を見つけるほどの状態です。


偕楽園内の梅の苗畑の垣根にお茶の花、すでに花期を過ぎていましたが。


園内各所で今満開なのはサザンカ(山茶花)です。サザンカとツバキ(椿)の見分け方は、花弁がパラパラ散るのが山茶花、花ごとポトリと落ちるのが椿と覚えるのが簡単です。


生け垣に咲いていた白い山茶花は貴婦人のようでした。


ハギの花も刈り取られる前の最後の力を振り絞って咲いていました。


梅林の下にイヌタデ(犬蓼)の群生です。「蓼食う虫も好き好き」といわれるのはヤナギタデ(柳蓼)という品種で、刺身のつまについている赤紫の小さな芽、ピリッと辛い香辛野菜として使われてきました。


こちらはノビル(野蒜)です。禅宗寺院の門前でよく見る「不許葷酒入門」とは、大蒜(ニンニク)・韮(ニラ)・葱(ネギ)・辣韮(ラッキョウ)・野蒜(ノビル)の5種と酒の持ち込みを禁ずということですが、すべて仙人の好物ばかり、野蒜の球根に味噌をつけ辛さを我慢してよく食べました。

偕楽園から見下ろした千波湖畔のモミジバフウ(紅葉葉楓)も秋色に染まってきました。約3か月後の梅の時期まで園内は静謐な空間となり、いつもと違った顔を見せることでしょう。