♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

番外:(忌宮神社)鬼石

2012年01月24日 08時19分28秒 | 何処へ行っても
山口県下関市長府の忌宮神社で参拝しようとして社殿へ行く石段の前にあったこの鬼石という説明板に目がいき、参拝前にみました。
鬼石とあることから、
鬼の形をした石かなと思い、柵の中をのぞきました。
降る雨がたまっていましたが形は普通の石のようにおもいました。
説明板をみると新羅国・塵輪という敵将を討って、その屍の上に石を乗せたということで、塵輪の顔が鬼のようだった事に由来している事を知りました。

(忌宮神社)鬼石

何処へ行ってもぶらり散歩「(下関市)長府ぶらり散歩」編

1月24日(広島市安芸区のわが家の溜水に氷はる)積雪はなし、天候 :晴れ、曇り

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中区:(基町クレド北西の)鯉の像

2012年01月23日 16時31分35秒 | 野外彫刻等
ことしは辰年・・・
黄河の上流にある滝を登りきる鯉は、登竜門をくぐり、天まで昇って龍になるそうですね。

われらが広島カープ、1991年以来負け癖がこびりついているのかもしれません。
わが家の床の間の掛け軸をことしは辰年というものの「開運昇鯉」に変えました。
龍門を登り優勝という栄冠を勝ち得ることを願っているからです。

この彫刻の作者がわからないことから編集していませんでしたが、ことしの飛躍を願って頁を編集しました。

(基町クレドの)鯉の像

広島ぶらり散歩「野外彫刻など」編
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番外:忌宮神社

2012年01月23日 08時44分33秒 | 何処へ行っても
2009年山口県下関市の長府地区を訪ねぶらり散歩した時の頁を編集していませんでした。
ことしは2012年にもなってしまいましたが、ぼちぼちと編集する事にしました。
昼食を頂き一服してから長府の街をぶらり散歩となったのですが、画像でもお分かりになるでしょうが、雨模様で、レンズに雨粒はつくなど、歩きづらい悪条件の中でした。
食事を頂いた宮の内茶寮はこの忌宮神社の境内にあるのではと思うほどで、出てすぐのこのお宮に参拝しました。
神功皇后の三韓出兵では、広島の地にも立ち寄られ、種々の逸話が伝えられていますので、少しばかり知っていましたので、ここ(下関市)長府の地でも、わたしが知らなかっただけでしょうが伝えられる話の一部を知ることができました。

忌宮神社

何処へ行ってもぶらり散歩「(下関市)長府ぶらり散歩」編

1月23日(広島市安芸区のわが家付近)天候 :晴れ

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南区:(丹那町)稲荷神社

2012年01月22日 18時32分36秒 | 神社寺院等
2007年交流ウォーク探検隊でこの稲荷神社を参拝したのです。
それは、広島市楠那公民館で頂いた資料に、この稲荷神社辺りに貝塚があったという事を知り、貝塚跡をみたいと思ったからなのです。
稲荷神社辺りをみましたがそれらしいものは無いな~と思ったままで、この神社の縁起もわかりませんでしたので、いままで頁を編集しなかったのです。
資料をみて、2011年になって、この広島市南区丹那町の稲荷神社の伝承などがわかりましたので、頁を編集しました。

(丹那町)稲荷神社

広島ぶらり散歩「広島の神社寺院」編
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番外:藤木康成作「地の音」

2012年01月22日 09時10分45秒 | 何処へ行っても
京都・嵐山の渡月橋をみて、亀山公園から北に向かい常寂光寺の所まで来て、
バスの集合時間に間に合うには引き返さなくてはと思い、落柿舎に立寄り。
野宮神社に参拝して渡月橋の所に帰る手前の嵐電・嵐山駅近くでみた野外彫刻でした。
以前だったら彫刻かと見過ごしていたでしょうが、
広島ぶらり散歩「野外彫刻など」編を編集していますので、立ち止り作者は、作品名はとみたのです。
撮影して急ぎ足でバスのとこへ戻りました。

藤木康成作:地の音

何処へ行ってもぶらり散歩「京都」編

1月22日(広島市安芸区のわが家付近)天候 :晴れ

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南区:(丹那町)道標

2012年01月21日 07時53分53秒 | 道標等
2004年交流ウォークの時に教えていただいた丹那新町の道標で、すぐ先にあるのがこの道標で、2つ道標がいるのかとも思いますが、地図を見ながらウォーキングしていても道を間違うわたしは、地図が一般的ではなかった時代は道標が道案内として大切なものであったのだろうと思うのです。
2004年の時は周りの情景がわかるところを撮影していませんでしたので、
2011年交流ウォークの時は道標のまわりがわかる画像をと思って撮影しましたので追加しました。

(丹那町の)道標

広島ぶらり散歩「道標など」編

1月21日天候 :曇り

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南区:(丹那新町)道標

2012年01月20日 16時21分22秒 | 道標等
2004年交流ウォークの時に教えていただいた丹那の道標です。(すぐそこという距離にも道標があります)
こちらが現在の丹那新町にあるようで、すぐ先のが丹那町に属しているようで、道に迷わないようにとの配慮かなと思ったのです。
1980年広島市は政令指定都市になり区政を採用していますので、
ここ丹那は南区丹那町、丹那新町となっていますが、昔は丹那區(区)とこの道標からこの辺りを云っていたことがわかります。
2011年交流ウォークの時は道標が写っている画像をと思って撮影しましたので追加しました。

(丹那新町の)道標

広島ぶらり散歩「道標など」編
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番外:野宮神社

2012年01月20日 08時58分42秒 | 神社寺院等
京都・嵯峨の野宮神社は、伊勢の神宮に奉仕する内親王が潔斎のため居住された跡で、今三つの祠があり、中央に天照大神を祀り、左右に愛宕、松尾の神を祀っているそうです。
この野宮神社には、銀塩カメラ時代に(複数回)来たことがありますが、撮影したのは、はじめてだったのです。
学生時代に絵馬を買ったことはあるのですが、当時と図柄は変わっていないようでした。

野宮神社

何処へ行ってもぶらり散歩「京都」編

1月20日(広島市安芸区付近)天候 :曇り

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中区:(本逕寺)水琴窟

2012年01月19日 18時13分46秒 | 雑関連
2005年9月交流ウォークで教えていただきその音を聞いた水琴窟でした。
(広島市中区)大手町の本逕寺に造られている水琴窟、昔からあったものではなく近年の作なのですが、広島では珍しく思いました。
昨年角度を変えて撮影し、本逕寺の頁から水琴窟を分離し別頁に編集しました。

(本逕寺の)水琴窟

広島ぶらり散歩「水関連」編
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番外:落柿舎

2012年01月19日 08時24分20秒 | 何処へ行っても
落柿舎は、江戸時代前・中期の俳人・向井去来の草庵跡です。
京都・嵐山の渡月橋をみて、亀山公園から北に向かい常寂光寺の所まで来て、バスの集合時間に間に合うには引き返さなくてはと思い、渡月橋の所に帰る途中、
この落柿舎に立寄りました。訪ねた時は改修工事中で養生シートに覆われていましたので草庵をみることができませんでした。
以前何度か訪ねた時(銀塩カメラ時代とはいえ)撮影していませんので、落柿舎の姿をわたしの頁では紹介することができませんでした。

落柿舎

何処へ行ってもぶらり散歩「京都」編

1月19日(広島市安芸区付近)天候 :雨

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中区:旧・広島市民球場解体工事2012年1月

2012年01月18日 18時04分30秒 | 建物等
先月(2011年12月)は旧広島市民球場を電車通りからみると解体工事養生用の足場の一部が残っていましたが、今月は無くなっていました。
計画されている建屋の解体が終わったように思いました。
内部をみると、解体材の整理処理が進み、来月には搬出も済むのでは思うほど解体工事は進んでおり、解体工事も終わりに近づいていました。

(旧広島市民球場解体養生用足場が解体されたので)よく見えるようになった原爆ドームですが、今度は、原爆ドームの方に「原爆ドーム健全度調査」用の足場が組みたてられてきていました。

(解体工事中の)旧広島市民球場

広島ぶらり散歩「広島カープ関連」編

旧広島市民球場の記念として残される外野スタンドです。(残すための整備はこれからでしょうが)
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番外:嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓

2012年01月18日 08時34分20秒 | 何処へ行っても
バスツアー集合場所、京都・嵐山の渡月橋の所に帰る途中、落柿舎にも立寄ろうと行っていた時にみたのがこの「嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓」ですぐ隣が落柿舎でした。
有智子内親王のことを知らなかったので、頁を編集するので、Wikipediaなどを参考にしました。
いままで何度か訪ねた落柿舎でしたが、その隣に位置する有智子内親王墓には気が付かなかったのです。
広島県旧・大野町の任助親王墓のお墓を訪ねていましたので、ここ有智子内親王墓の前設置の掲示板が同じ形式だったので目がとまったのかもしれません。

嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓

何処へ行ってもぶらり散歩「京都」編

1月18日(広島市安芸区のわが家の溜水に)薄氷はっています。天候 :曇り

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中区:被爆アオギリ2012年1月

2012年01月17日 17時20分25秒 | 被爆樹木たち
1月12日12時を過ぎていました、広島平和記念公園付近は曇っていました。
寒い日でしたが、平和記念資料館・東館北側外に設置してある簡易椅子に座って、
すっかり落葉した被爆したアオギリをみながら持ってきた弁当を食べていました。
寒そうにしていたのでしょう、公園を清掃する‘おばちゃん’に「(東館の中の無料休憩所)中で食べられたら」と声を掛けられました。
「(気にとめていただき)ありがとうございました」と返事はしましたが、そのままアオギリをみながら食べました。
観光客も少なく寒い日でしたのでさすがにわたしの昼食中には誰もこのアオギリに近づく事はありませんでした。
ことしも四季折々この被爆してここに移植されたアオギリをみていこうと思っています。

(被爆した)アオギリ2012年

広島ぶらり散歩「平和記念公園の草木達」編
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番外:塵劫記

2012年01月17日 08時30分21秒 | 何処へ行っても
京都嵐山の渡月橋をみて、亀山公園から北に向かい常寂光寺の所まで来て、
バスツアーの集合時間に間に合うには引き返さなくてはと思い、
常寂光寺の拝観(もう昔になりましたが拝観していたというものの残念でしたが)は諦めるかと思った時に、境内でこの「塵劫記」に気が付き撮影しました。
以前拝観した時にはこの碑に気が付かなかったと思ったからです。

塵劫記

何処へ行ってもぶらり散歩「京都」編

1月17日(広島市安芸区のわが家の溜水に)薄い氷が張っていました。天候 :晴れ

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中区:海塚(新八)翁碑

2012年01月16日 17時46分19秒 | 被爆建造物等
(被爆当時の町名:廣島市細工町だった)爆心地から≒890mで被爆した記念碑ということで本逕寺の(被爆した)墓石などの一部として2007年に頁を編集していました。

いまのマツダの創業者の一人と云われる松田重次郎を調べている時に、
マツダの前身である1920年創立の東洋コルク工業の初代社長が海塚新八だと云うことを知ったので、この本逕寺に1916年建立され、(1945年8月6日原爆により画像でお分かりのようにクラック=ひびわれだらけになった)この碑を思い出したのです。
この本逕寺の海塚翁像は1913年亡くなった海塚新八の顕彰碑なので、年代的に合致しないので、資料類を調べたのです。

海塚翁碑

広島ぶらり散歩「被爆した建物・構築物」編
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